【アンファングの悲嘆】
残酷な描写があります。
そのような描写が苦手な方は、読むことを控えることをお勧めします。
空はかつて青かったのだと、誰かは言った。
地上はかつて緑と水に溢れた楽園だったのだと、また別の誰かは言った。
竜はかつて人を守る存在だったのだと、別の誰かは言った。
―――昔の話だ。
黒い髪をなびかせながら、少年はそんなことを思う。
強い風は容赦なく吹き荒れ、赤い砂を巻き上げて少年に叩きつけてきた。
億劫そうに、少年は口元を覆う布を更に強く巻きつける。
身に纏うのは、厚手の革のコート。服もズボンも黒で統一されており、夜の世界の中では彼の存在は殊更に薄く感じられる。砂から目を守るためか、頑丈そうなフレームのゴーグルを着けていた。
その手の中には、艶消しの黒に染まった刃が一振り収まっている。
「そんなの、全部お伽話だ」
少年はそう、呟いた。
―――自身の真上にある空は漆黒に包まれている。生まれてからずっと、変わらない空の色。
―――眼前に広がる世界はどこまでも乾ききっていて、赤い血のような地面からは草など生えていない。
ばさり、ばさり。
何か、大きなものが翼を羽ばたかせる音が聞こえる。
ただでさえ暗い大地を更に色濃い漆黒に溶かす影が、上空から落ちてきた。
少年は無言で視線を上げる。
血に飢えた真紅の瞳が、ぎらぎらと輝いていた。
巨大な体躯はどこか薄汚れた灰色をしている。
美しさなんて、欠片も無い。
―――竜は人を襲って、喰らう。
「……『狩り』の、始まりだ」
少年は呟くと同時、黒い刃を構えて荒地を蹴る。
それに応えるかのように、竜は高く高く咆哮を上げた。
***
一つの世界が、在った。
朝が訪れない夜の世界。
太陽も月も無く、藍色にも似た漆黒の帳に包まれた、暗闇の牢獄。
地上には緑も水も無く、ただ赤茶けた荒地が広がっている。
理性なき竜が光を求めて暴れまわり、それを恐れる人々はただひっそりと地下に隠れ住む、そんな世界。
人々はその世界を、『モルゲンレーテ』と呼んだ。
闇を恐れ、竜に怯える人々は、その世界を『暁』と呼んだのだ。
***
「―――はぁぁぁっ!」
少年が竜の真上から切りかかる。竜の牙を鍛えて作られた漆黒の剣は、鉄をも弾く竜の堅い皮膚を容易く貫き突き破り、内側の肉を抉った。
『キィィアアアアアッ!』
甲高い、悲鳴じみた竜の鳴き声。同時に、砂色の竜は翼を大きく羽ばたかせ、自身の体に陣取る矮小な存在を振り解こうと、巨大な体を揺さぶるようにして空中で暴れ回る。
「……く……っ」
少年は竜の皮膚を貫く剣に必死でしがみつき、激しい抵抗に耐えようとした。
だが、それは強風の中で舞う葉の如き抵抗である。
「うわぁっ!」
あまりに激しい動きに、竜の体から剣が抜け、少年の体は赤い大地に向かって落下した。
すんでのところで体を丸めて猫のように着地した彼は、だがすぐさま地面を転がり横へと移動する。
次の瞬間、少年がいた場所に巨大な竜の前脚が振り下ろされた。
「……っ!」
地面が鳴動する。まるで地震が起きているかのようだ。
少年は若干ふらつきながらも体勢を立て直し、再び竜を睥睨して切りかかっていく。
「やああああっ!」
高く跳びながら振り上げた彼の剣は、竜の胴を切り裂いた。だが、浅い。致命傷には程遠い傷である。
着地と同時に、小賢しい敵を踏み潰そうとした竜の足の裏に刃を突き刺し、怯んだ所で彼は竜の懐から脱出した。
竜が怒りに燃える真紅の瞳を爛々と光らせ、口を大きく開ける。その喉の奥から、微かに赤い光が覗いた。
「……!」
―――ブレスだ。
少年の判断は迅速だった。
それが竜の吐息だとわかるや否や、彼は竜に向かって真っ直ぐ走り出したのである。
端から見れば、命知らずと思われるその行動。
だが、少年は別に命を捨てる為に、人間を容易く殺す竜の吐息の前に向かっているわけではない。
「……」
少年は走りながら、コートのポケットに手を突っ込むと何かを取り出した。掌に収まるくらいの、小さな硝子のフラスコである。
中には、黒い粉末と薄青の液体が硝子の板で仕切られているのが見えた。
「―――……これでも、」
少年はそのフラスコをまるでボールを投げる時のように大きく振りかぶり―――
「喰らえ!」
竜の口に投げ入れた。
そのまま駆け出しながら跳び上がり、漆黒の剣を下から上へ振り上げて、竜の顎に叩き付ける。
さながらアッパーカットを食らったかのような体勢になった竜。
それを見上げながら、少年が地面に降り立った瞬間―――竜の口の中で、フラスコが爆発した。
「……うわ」
少年が顔を歪める。
竜の口―――否、喉というべきだろう。喉に大きな穴が開き、そこからは黒い煙が昇っている。内側から焼き爛れ、口からは絶えずどす黒い血がだらだらと零れ落ちていた。
「……流石、ディールの作った爆薬。効果抜群だ」
彼が使ったのは、爆弾だ。
衝撃で硝子が割れた瞬間、黒い粉末と薄青の液体が混合し爆発、更にそれが発動間近のブレスに引火した結果が、竜のこの有り様である。
『…ガ……ギャ………ギィィ……』
爆発の衝撃でも辛うじて立っていた竜が、ふらりと体を地面に叩き付けるようにして後ろに倒れ込んだ。地面が震動する。
それを堪えた後、少年は竜の体に登る。
鼓動によって揺れ、不安定な腹を足場にし、彼が向かったのは左胸。
「これで、終わりだ」
少年は漆黒の剣を振り下ろし、竜の体を貫いた。
一度大きく竜の体が震え、やがて竜の手足から力が抜けて地面に落ちる。
それを少年が確認して、息を吐いた時だ。
「―――終わったかい?」
後ろから野太い男の声が聞こえる。だが、背後には誰もいない。
ただ赤く荒れた地が広がるだけだ。
「ねぇパパぁ、もうお外に出ていーい? ぼく、竜が見たーい」
「【竜狩り】さんの仕事はまだ終わってないかもしれないんだぞ。おとなしくしてなさい―――で、どうだい?」
少年は背後を振り返らないまま、一度だけ首を縦に振って頷きを返す。
「……一応は。ただ、砂竜は生命力が強くてしぶといから……まだ、出て来ないで」
「ああ、わかった」
男の声が神妙そうに肯定を返した後、明るい調子で少年に話しかけてきた。
「それにしても、アインスの町の【竜狩り】は話に聞いた通り、優秀だなぁ!」
【竜狩り】とは名前通り、竜を狩る者の総称だ。
地中に暮らすことが耐えきれず地上を旅する者、地上を旅しなければならない商人達の護衛の為、或いは金の為、理由は様々だが、共通することはある。
―――竜を殺す強さを持っているという、その一点だ。
「………………」
「まだ若いのに、こんなに手際良く竜を狩るなんてすごいなぁ……! いやぁ、本当にすごい!」
それにしても。
少年は竜の心臓から黒い刃を引き抜きながらぼんやりと思う。
竜を退けたことで緊張から解放されたのか、やたらと男の口数が多くなっている気がする。
やりにくいなと少年が溜息を吐きながら、再び竜の心臓を貫こうと剣を振り上げた瞬間だった。
「あ、こら……ッ!」
「わぁーっ! すごーい!」
幼い声が背後から響く。
好奇心を抑えきれず、父親の視線が逸れた瞬間に外へ飛び出してきてしまったのだ。
それだけならば、ただの子供の行いだと目を瞑ることは出来た。だが、そういう時に限って、最悪の事態というのは起きるものである。
「………!」
どくりと、少年が潰した筈の心臓から鼓動が響いた。
それは段々と力強さと激しさ、そして速さを増していく。
「―――戻って!」
少年の叫びと同時、咆哮。
竜が素早く体を跳ね上げて、体の上にいた少年を振り落とす。
猫のようなしなやかさで難なく着地した彼に、竜は見向きすらしない。ただ、獣としての最期の本能に従って、一匹でも多くを道連れにしようとする。
「ジミィィィっ!!!」
父親の絶叫が響いた。
竜はこの場で最も弱い存在に狙いを定め、その鋭い爪を大きく振り上げたのである。
「え、」
子供が茫然と上空より振り下ろされる凶刃を見た。
八つ裂きにされるだろう運命の哀れな子供。
竜が腕を振り下ろした。
「パパ、たす―――」
轟音は、子供の声を容赦なくかき消してしまう。
腕を振り下ろした衝撃で砂埃が巻き起こり、父親の視界は塞がれた。
「ジミー……? ジミー! 無事なのか……無事なんだろう!?」
返事は無い。砂埃で隠れた周囲からは、ただじわりじわりと鉄のような臭気が漂ってくる。
父親が絶望の吐息を吐き出した瞬間だ。
「っ…………ぱぱ……ぁ……」
「ジミー!!」
父親が隠れ場所から這い出し、赤い荒野に転がっていた愛する息子を抱き起こす。
擦り傷まみれになっていたが、特に大きな怪我は無い。
ではこの臭いはなんだと、父親が周囲を見回した。
そして―――漆黒の剣を握り締めた手のみが血まみれで荒野に転がっているのを、彼は見つけた。
***
左手が熱かった。
「ぁ………が………ぐぅぅ……っ!!」
灼熱の炎に手を突っ込んだような、燃えたぎる炉に手を触れたような熱さ。
熱くて、熱くて。
『キァァァアアアアアアアッ!!』
竜の断末魔じみた鳴き声。
嗚呼、そうだ―――竜を殺さなければ。だって、それが仕事だ。
武器を取れ。取って、戦わねば生き残れない。
「剣……僕の、剣……」
左手に感触が無い。何故だろう。
血の臭いもする。何故だろう。
視線を下げる。
「……………あ」
左手が、無い。
少年がそれを実感した瞬間、灼熱は一気に痛覚へと変換された。
「…………ぁ…………ぁぁ……僕の手、手……ぁ……がぁぁぁあああッ!!!」
彼は痛みにのたうち回る。血は止まらずに、ぼたぼたと手首から流れ落ちて地面に溶けていく。
「ぁぁぁぁぁ……ッ! ぐ……あ、がぁ……っ!!!」
痛みに堪えきれず、青い瞳から涙が零れ落ちた。
呻き声は唇から絶えず漏れ、静かな荒野に響き渡る。
「は……ッ! ぁぐ、が……はっ、はぁ……ッ!」
歪んだ視界の中に砂色の巨大な体躯が映った。
翼を大きく羽ばたかせ、双眸を怒りに燃やす竜の姿が。
「……ぐ……ぅ、…………ぼくの、けん…………」
頬を血と涙で濡らしながら、少年は必死で剣を探す。
戦わなければ、戦わなければ。このままでは、竜に殺されてしまうだけだ。
それは、嫌だ。
「…………剣、……ぼく……僕の、けんぅぅぅ……ッ!」
血の臭いに惹かれたか、竜が少年に向き直る。微かに開いた大きな口からは、光が零れ始めていた。
死の気配が近付いてくる。
「―――……ああ、」
焼き尽くされてしまう。
この16年、足掻くように生きてきた筈なのに。
あまりに呆気ない終わりだと、彼は思う。
「 」
少年の唇がゆっくりと動いた。
音は零れず、言葉は紡がれない。
ただ妙に、失っている筈の左手首から先が熱かった。
どこか疼きのような感覚が広がる。
竜が口を開こうとしたのと、少年が涙で潤んだ視界を左手に落としたのは同時。
―――左手首の断面が、ぐじゅりと蠢く。
まるで芋虫が徘徊しているかのように断面がうぞうぞと波打ち、そして、唐突に何かが断面の内側から飛び出した。
「え、」
ぶしゅり、舞う血飛沫。
赤を纏って鈍色に光る鋼が大量に手首の内側から現れ、まるで意思を持っているかのように組み合わさっていく。それは、ほんの2秒程度の時間だった筈だ。
「ぁ、が……っ! ぐ、あぁぁぁぁぁぁっ!!」
だが、傷口から肉ですらない、そもそも人間の体内には存在しない存在が蠢くたび、痛覚を伴って少年の体を蹂躙する。
ぐじゅり、ぐちゃり。熟れた果実を踏み潰したような音が響いた。
「は、ぁが……ッ!」
白黒と明滅する視界の中で、竜が口を開き始めるのを認める。
「―――ッ!!!」
そして、少年は左手を竜に向けて伸ばした。
左手首から先、失われた筈の場所には―――自身の血にまみれ赤く濡れた鋼の手が、あった。
鋼の掌に埋め込まれた球体が光を放ち――――
周囲は、白に染まった。
こんばんは、はじめまして。あるいは、お久しぶりです。
Abendrotと申します。データ消失で更新停止となってしまった『Eine wichtige Sache』に次ぐ、新たな連載です。
またファンタジーかよ、と言われそうですが、すいません。またファンタジーです。
ファンタジーにしてはグロテスクな描写が多い作品ではございますが、お楽しみいただければ幸いです。