「君は無能だ」と婚約破棄されたので、裏帳簿を提出して徹底的に『監査』致します
「ラヴィーナ・オルコット。君との婚約を破棄する」
王城の執務室に、王太子エオリアンの声が響いた。
私は手元の書類――来年度の予算案の最終チェック――から顔を上げ、ゆっくりと彼を見る。
エオリアンの隣には、男爵令嬢のピア様がぴったりと寄り添っていた。彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、私の反応を待っている。
「……理由を伺ってもよろしいですか、殿下」
「理由? 決まっているだろう。君が『無能』だからだ」
エオリアンは鼻で笑い、机の上に乱雑に積まれた宝石のカタログを指差した。
「私が頼んだ『白の月』のネックレスも、別荘の改築費も、君は一つも用意できなかった。予算管理一つできない人間に、王妃が務まるはずがない」
「殿下。今期の王室予算はすでに赤字です。これ以上の支出は、国庫を揺るがします」
「言い訳など聞きたくない! ピアは違ったぞ。彼女は『殿下のなさることに間違いはありません』と、私の心を支えてくれた」
支える、とは。
私の視線は、ピア様の胸元で輝く大粒のルビーに向けられた。あれは先月、予備費の項目から「外交用贈答品」として計上されていたものだ。なるほど、外交相手とは彼女のことだったらしい。
「それに、調査は済んでいるのだ」
エオリアンはニヤリと笑い、一枚の紙を突きつけてきた。
「予算が足りないのは、君が横領しているからだろう? 私の金が、君の懐に消えているという噂だ」
――ああ、なるほど。
私の中で、何かが「プツン」と切れる音がした。怒りではない。もっと冷たく、乾いた音だ。
彼自身の浪費を、私の横領という形ですり替える。そのシナリオを作ったのは、おそらく側近の誰かだろう。
私は彼のために、私財を投じて穴埋めをしてきた。徹夜で帳簿を修正し、彼のサインを偽造スレスレで整え、なんとか体裁を保ってきた。
その全てを、「無能」と「横領」で片付けるというのか。
「……左様でございますか」
私はペンを置いた。
インクの蓋を閉める。カチリ、という音が執務室に響く。
「私の横領、ということで処理されるのですね」
「認めるのか! ならば話は早い。今すぐこの城から出て行け! 処罰は追って沙汰する!」
「いえ、処罰など必要ありませんわ、エオリアン様ぁ」
ピア様が甘ったるい声で彼の腕に絡みつく。
「こんな地味な人、追放するだけで十分です。顔も見たくありませんもの」
「そうだな。君の優しさには心打たれるよ、ピア」
二人の世界が出来上がっている。
私は静かに立ち上がった。
ここで泣いて縋るのが、婚約者としての最後の情けだったかもしれない。けれど、私の頭の中にあるのは「感情」ではなく「計算」だった。
「承知いたしました。婚約破棄、並びに執務補佐の解任、謹んでお受けいたします」
私は優雅にカーテシーをした。
「引き継ぎは不要ですね?」
「当たり前だ! 君ごときがやっていた仕事など、ピアなら三日で覚えられる!」
「そうですか。では、失礼いたします」
私は鞄を手に取る。
中には、一冊の黒革の帳簿が入っている。
これだけは置いていけない。これは私が個人的に記録していた『裏帳簿』。エオリアン殿下がいつ、何に、いくら使い、どの予算から流用させたか。その全てに、彼自身の「承認印」を押させた記録の束だ。
彼は中身も確認せず、面倒くさそうにバンバンとハンコを押していた。それが自分の首を絞める縄とも知らずに。
私は決めた。
もう、守るのはやめだ。これからは「監査」の時間だ。
この帳簿は、然るべき場所で、然るべき相手に提出させてもらおう。
私は背筋を伸ばし、一度も振り返らずに執務室を出た。
◇
廊下に出ると、ひんやりとした空気が肌を刺した。
王城の北棟。人気のないこの通路の先には、誰もが恐れる部署がある。
コツ、コツ、と硬い靴音が響いた。
前方から歩いてきた長身の男が、私の前で足を止める。
氷のような銀髪に、鋭い碧眼。
王弟にして、国一番の嫌われ者。
監査局長、カイロス・ヴァン・アークライド公爵。
「……ラヴィーナ・オルコットか」
低く、重みのある声が私の名を呼んだ。
私は足を止め、一礼する。
「カイロス様。今はもう、ただのラヴィーナです。先ほど婚約破棄されましたので」
「知っている」
彼は無表情のまま、私の顔をじろりと見た。
怯える令嬢なら、この視線だけで卒倒するだろう。だが、私は慣れている。彼の視線は私ではなく、私の「仕事」に向けられていることを知っていたからだ。
「あの馬鹿王子が、真珠を豚と間違えて捨てたそうだな」
「……豚、ですか」
「訂正しよう。金の卵を産むガチョウを、だ」
カイロス様は一歩、私に近づいた。
その手が伸びてきて、私の鞄――『裏帳簿』が入った鞄――に触れる。
「その中身。誰に渡すつもりだ?」
心臓が跳ねた。
気づかれている。いや、この人は最初から知っていたのだ。私が王太子の尻拭いをしていることも、証拠を残していることも。
「高く買ってくださる方に」
私は視線を逸らさずに答えた。
「私は無能だそうですから。再就職先を探さねばなりません」
一瞬の沈黙。
そして、カイロス様の美しい唇が、わずかに歪んだ。それは、初めて見る獰猛な笑みだった。
「なら、俺が買おう」
「……え?」
「俺のところに来い。給金は今の三倍だ。衣食住も保証する。その代わり」
彼は私の手を取り、強引に引き寄せた。
顔が近い。冷たい香水の匂いが鼻をくすぐる。
「その帳簿を使って、あの馬鹿を地獄に落とす手伝いをしろ。……以前から、君の作る書類の美しさに惚れていた」
――はい?
今、なんと?
書類に惚れた? 私にではなく?
「一週間後。決算会議がある。そこで全てを公開する」
カイロス様は私の手を離さず、宣言した。
「逃がしはしないぞ、ラヴィーナ。お前は今日から、俺の共犯者だ」
私は鞄を強く握り返した。
共犯者。
なんて甘美な響きだろう。
「謹んで、お受けいたします。閣下」
こうして、私の「監査」が始まった。
◇
カイロス公爵邸での日々は、予想外の連続だった。
「無能」と罵られた執務室とは違い、ここでは私の言葉が全て「正解」として扱われた。
「閣下、この経費は削減可能です」
「採用だ。すぐに通達しろ」
「こちらの不正疑惑ですが、証拠が足りません」
「俺が取ってくる。お前は座って茶でも飲んでいろ」
仕事が早い。
決断が的確だ。
何より、私の作った資料を彼が見るたび、「美しい」と呟くのがこそばゆい。
そんなある日、王城から一通の手紙が届いた。
差出人はエオリアン。
内容はこうだ。
『ラヴィーナ、反省したなら戻ってきてもいいぞ。今なら側室にしてやる。ところで、金庫の鍵が見当たらないのだが?』
私はその手紙をデスクに広げ、赤ペンを取り出した。
誤字が三箇所。文法の間違いが二箇所。そして何より、前提事実の認識誤認。
私は全ての箇所を赤で修正し、余白に大きく一言書き添えた。
『金庫は空です。あなたが使い切りました』
「……厳しいな」
背後から覗き込んでいたカイロス様が、ククッと喉を鳴らす。
「だが、まだ甘い。返信は不要だ。言葉ではなく、事実で殴れ」
「事実、ですか」
「ああ。奴はまだ気づいていない。お前がいなくなったことで、王城の機能が停止し始めていることに」
カイロス様は私の肩に手を置き、ふわりと何かをかけた。
それは、最高級のシルクで仕立てられたショールだった。
「……閣下?」
「執務室が寒いだろう。風邪を引くな。お前が倒れたら、俺が困る」
その手つきは、書類を扱う時よりもずっと優しくて、慎重だった。
最近、彼との距離が近い。
仕事のパートナーとして買われたはずなのに、なぜか夕食は必ず二人きりだし、私の部屋には毎日新しい花が届く。
「あの、閣下。これは……」
「監査局長の命令だ。受け取れ」
彼はそっぽを向いてしまったが、その耳が少し赤いことに、私は気づいてしまった。
◇
そして運命の、決算会議の日がやってきた。
会場となる大広間には、国王陛下をはじめ、国の重鎮たちが勢揃いしている。
重苦しい空気の中、エオリアン王太子が入場してきた。
その顔はやつれ、目の下には隈ができているが、表情だけは傲慢そのものだった。
彼の後ろには、新しいドレスを着飾ったピア様がいる。
「父上! 本日は重大な報告があります!」
開口一番、エオリアンが声を張り上げた。
「我が国の財政難の原因が判明しました。それは、元婚約者ラヴィーナによる横領です!」
会場がざわめく。
エオリアンは勝ち誇った顔で、誰もいない証言台を指差した。
「彼女は逃亡しました! これは罪を認めた証拠です。よって、彼女の財産を没収し、国庫に充てることを提案します!」
なるほど。
自分でお金を用意できないから、私の実家の財産を狙うつもりか。
どこまでも浅はかで、救いようがない。
「……その必要はない」
凛とした声が、喧騒を切り裂いた。
カイロス様だ。
彼は悠然と立ち上がり、王太子を一瞥もしないまま言った。
「重要参考人なら、ここにいる」
カイロス様が手招きをする。
私は、会場の入り口で深呼吸をした。
今日のために仕立てられた、濃紺のドレス。それは監査局の制服を模した、シックだが最高級の品だ。
私は背筋を伸ばし、大理石の床を踏みしめて歩き出す。
「ラ、ラヴィーナ!?」
エオリアンが素っ頓狂な声を上げた。
「なぜお前がここに! 衛兵、捕らえろ! その女は犯罪者だ!」
衛兵が動こうとする。
だが、それより早く、カイロス様が私の前に立った。
バサリ、と漆黒のマントが翻る。
「動くな」
たった一言。
それだけで、衛兵たちは石のように固まった。
カイロス様は私の方を向き、皆に見せつけるように、恭しく私の手を取った。
「彼女は、私が任命した『特別監査官』だ。彼女に触れる者は、監査局への反逆とみなす」
会場が静まり返る。
特別監査官。そんな役職は聞いたことがない。今、彼が作ったのだ。
カイロス様はそのまま私をエスコートし、あろうことか、上座にある「監査局長席」――王太子の真正面――へと導いた。
「座れ、ラヴィーナ。ここがお前の戦場だ」
彼は自分の椅子を私に譲り、自分はその横に、まるで守護騎士のように立った。
これは、最大の侮辱であり、最大の擁護だ。
「さあ、殿下」
私は椅子に座り、懐から黒革の帳簿を取り出した。
ドサリ、と重たい音が机に響く。
「監査を始めましょう。あなたの『無能』の証明を」
私は帳簿を開き、ページをめくった。
同時に、カイロス様が用意した「視覚投影の魔道具」が起動する。空中に巨大なスクリーンが現れ、私の手元の書類が拡大表示された。
「あなたが主張された『私の横領』について、精査いたしました。確かに、王室予算から不明金が消えています。その額、金貨にして約一万枚」
「そ、そうだろう! 貴様が盗んだのだ!」
「いいえ」
私は冷静に否定し、一枚の領収書を指差した。
スクリーンに、殴り書きのサインが映し出される。
「こちらは先月、宝石店『ルミナス』に支払われた金貨五百枚。名目は『外交贈答品』ですが……購入されたのは女性用のルビーのネックレスです。殿下、このサインはご自身のものですね?」
「なっ……」
「そして次。王都郊外の別荘改築費、金貨二千枚。内訳は『愛の巣のための天蓋付きベッド』ほか、調度品一式。承認印は、ここに」
次々と映し出される証拠。
高級ドレス、珍味、貸し切りの遊覧船。
その全てに、エオリアン王太子の自筆サインと、王家の紋章印が押されている。
会場がざわめき始めた。
「おい、あれは……」
「全部、王太子の署名じゃないか」
「外交費じゃなかったのか?」
エオリアン王太子の額から、滝のような汗が流れ落ちる。彼は助けを求めるように、傍らに控えていたピア様を見た。
だが、ピア様も真っ青な顔で震えている。
「で、でたらめだ!」
王太子が叫んだ。
「それは偽造だ! その女が私の筆跡を真似て作ったに決まっている! そうだ、私はサインなどしていない!」
往生際が悪い。
私はため息をつき、カイロス様に目配せをした。
彼はニヤリと笑い、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「想定済みだ。……『真実の封蝋』を確認せよ」
カイロス様が指差したのは、書類の端に押された、赤黒い封蝋だった。
そこには魔力を帯びた監査局の紋章が刻まれている。
「監査局の封蝋は、作成された瞬間の『真実』を固定する。偽造も改竄も不可能。もし嘘の書類にこれを押せば、その瞬間に紙は燃え尽きる。……この書類が燃えていないことが、何よりの証明だ」
論理的詰み(チェックメイト)。
王太子の逃げ道は、完全に塞がれた。
その瞬間、エオリアン王太子の中で何かが壊れた。
彼は血走った目で周囲を見渡し、そして――隣にいた「最愛の女性」を突き飛ばした。
「……こいつだ!!」
「きゃっ!?」
ピア様が床に無様に転がる。
「こいつが! この女が強請ったんだ! 私は断ったのに、『愛しているなら買って』としつこく迫って……そうだ、私は騙されたんだ! この毒婦に洗脳されていたんだ!」
会場が静まり返る。
愛し合っていたはずの二人の、あまりにも醜い裏切り。
床に倒れたピア様は、信じられないものを見る目で王太子を見上げ……そして、般若のような形相で叫び返した。
「はあ!? ふざけないでよこの無能男!」
「な、なんだと!?」
「『僕の金は無限にある』って言ったのはあんたでしょ! 次期王になればいくらでも返せるから、今は好きなだけ使えって! 金がないならあんたみたいな冴えない男、誰が相手にするもんですか!」
「き、貴様……!」
「ああもう、最悪! こんなことなら隣国のハゲ富豪にしておけばよかった! 返してよ私の青春! この嘘つき! 甲斐性なし!」
罵倒の応酬。
掴み合いの喧嘩に発展しかける二人を、衛兵が冷ややかな目で取り押さえた。
かつて「真実の愛」を謳った二人の末路が、これだ。
私は胸のすくような思いで、その光景を見下ろしていた。
――ああ、計算通り。
私の作った帳簿の数字は、一桁も間違っていなかった。
「……もうよい」
底冷えするような声が、騒ぎを鎮めた。
国王陛下だ。その顔には、怒りよりも深い失望が刻まれていた。
「エオリアン。見苦しいぞ」
「ち、父上……違います、私は……」
「黙れ。証拠は揃っている。……カイロス、監査局の判断は?」
陛下に問われ、カイロス様が立ち上がる。
彼は私を見て、優しく微笑んだあと、死刑宣告にも等しい言葉を告げた。
「国家予算横領罪、並びに公文書偽造教唆。……極刑に値しますが、それでは盗まれた金が戻りません」
カイロス様は書類を一枚、提示した。
「横領総額、金貨一万二千枚。これを両名に『個人負債』として背負わせることを提案します」
「こ、個人……!?」
エオリアン王太子が絶句する。それは、王族としての特権を剥奪されることを意味していた。
「エオリアンを廃嫡し、平民の地位へ落とす。ピア・メイフィールド男爵令嬢も同罪。両名には北方の魔石鉱山にて、強制労働に従事してもらう。給金は全て返済に充てるものとする」
「ま、待て! 鉱山だと!? 死んでしまう!」
「安心しろ。完済までには計算上、百年かかる。死ぬ暇など与えんよ」
カイロス様は冷酷に告げた。
「連れて行け」
「いやだ! 私は王太子だぞ! ラヴィーナ、助けてくれ! 愛しているんだ、やり直そう!」
「離して! 私は関係ないわ! 誰か助けてぇぇぇ!」
泣き叫ぶ二人。
その声が扉の向こうへ消えていくまで、私はただ無表情で見送った。
同情?
あるわけがない。
私が徹夜で計算していた時、あなたたちは笑って宝石を選んでいたのだから。
静寂が戻った大広間。
国王陛下が、疲れたように息を吐き、私に向き直った。
「……ラヴィーナ嬢。息子の愚行、詫びても詫びきれぬ。これまでの献身に対し、王家として最大限の補償をしよう」
「もったいないお言葉です、陛下」
「それで、どうだ。再び王城で働く気は――」
「お断りします」
食い気味に答えたのは、私ではなくカイロス様だった。
彼は私の腰に手を回し、所有権を主張するように引き寄せた。
「彼女は、私が貰い受けます。……監査局には、優秀な『局長夫人』が必要ですので」
会場が再びざわめく。今度は黄色い歓声と、ため息混じりの羨望だ。
私は驚いて彼を見上げた。
「か、閣下? 契約は『事務官』としてでは……」
「更新だ」
カイロス様は衆目の中で、私の手を取り、その指先に口づけを落とした。
熱い。
氷の公爵とは思えないほどの熱が、そこにあった。
「君の計算高さも、冷徹さも、その奥にある情熱も、全て私が独占したい。……ラヴィーナ。私と『終身契約』を結んでくれないか?」
「それは……プロポーズ、ということでしょうか?」
「書類上も、感情上もな」
彼は悪戯っぽく笑い、懐から小箱を取り出した。
中には、あの王太子が買おうとしていた安っぽい宝石とは比べ物にならない、大粒のブルーダイヤモンドが輝いていた。
「計算違いだったか?」
「……いいえ」
私は涙をこらえ、彼に向かって最高の笑顔を向けた。
こんな誤差なら、大歓迎だ。
「計算通り……いえ、計算以上の『黒字』ですわ、旦那様」
拍手喝采の中、私は彼に抱き寄せられる。
無能と捨てられた私が、国一番の公爵様に溺愛され、国の財布を握る女傑となる。
これは、そんな大逆転の物語の、ほんの始まりに過ぎない。
最後までお読みいただきありがとうございました!
無能呼ばわりされた事務官が、数字と書類で逆転するお話、いかがでしたでしょうか?
もし「スッキリした!」「ざまぁよかった!」「カイロス様かっこいい!」と思っていただけたら、
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