8.1冊のドーナツ
ゆっくりご覧ください。
袋いっぱいのドーナツを抱えて、リトは真っ直ぐにギルドへ向かっていた。
鼻先をくすぐる甘い香りに、周囲の冒険者たちがちらりと目を向けるけれど、リトは少し誇らしげに胸を張っていた。
(きっと、大丈夫。これなら……誰かを、笑顔にできる!)
受付カウンターに辿り着くと、いつもの“丸顔のおばちゃん”が優しく微笑んでいた。
「リトちゃん、こんにちは。……今日は、ずいぶんと甘い香りさせてるわね。その袋……まさか?」
「うん!ドーナツの依頼、受けたんだ!」
「まぁ……まだあの奇妙な“ドーナツの配達依頼”を受ける子がいるなんてねぇ…」
おばちゃんは目を細めて、まるで孫の成長を見守るような優しい眼差しを向けた。
「……届け先、知ってますか?」
少しだけ期待を込めた声。けれど、おばちゃんは首を横に振った。
「ごめんね。あの依頼、何十年も前からあるのに、場所は誰も知らないのよ。
ただ……“甘いものが好きな、格の高いお方が住む場所”らしいって、そんな噂が残ってるくらいかな」
「格の……高い?」
「うふふ。そうねぇ、お城に住んでるお姫様とか……それとも、とっても賢い魔法使いさんとか?」
おばちゃんが冗談めかして笑った、その向こうで——リトの目は、本気だった。
「どの町からでも行ける、っていう話も聞いたことがあるわ。不思議よねぇ……どこにでもあるのに、誰にも見つからないなんて」
「……そっか。でも、ありがとう! 僕、探してみるよ!」
リトは勢いよくお辞儀をしてギルドを飛び出した。
おばちゃんは、その後ろ姿を見送りながら、小さく呟く。
「“裁価の目”ってね……持ってると、なんとなく場所がわかるの。でもね、口に出すことは許されてないのよ。あの人が選ぶのは、“心から探す人”だけなんだもの……頑張って、リトくん」
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リトはまず、市場へ向かった。
「このへんに“ドーナツが好きな、偉い人”って住んでますか!?」
魚をさばくおじさんは目を丸くして笑う。
「おいおい、小僧。ドーナツは好きだけどなぁ、俺は偉くねぇぞ?」
次は教会の前のパン屋。
「偉い……? うーん、うちの奥さんくらいしか思い当たらないかなぁ……」
そして、小道で遊ぶ子どもたちにも声をかけた。
「うーん………“夜にドーナツを食べる魔女がいる”って話なら知ってるよ!」
「それ、たぶん違う!!」
何人にも尋ねたけれど、誰一人として“場所”を知っている者はいなかった。
リトの顔には、徐々に疲れと焦りがにじむ。
(どうして誰も知らないんだろう……せっかく作ったのに……)
袋の中を覗いて、少ししぼんだドーナツを見つめる。
(でも……おばちゃんの言葉は、嘘じゃない。誰かが、本当にいるんだ)
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夕方、陽が傾き始める頃。
リトはふと、見覚えのない路地裏に足を踏み入れていた。
市場と教会の間。毎日通っているはずの通りの隣に、なぜか今日は“別の通路”が見えた。
(……なんだろ、ここ)
ざらりとした石畳。古びた木の壁。
雑草が道端に伸び、吹き抜ける風がどこか懐かしい匂いを運ぶ。
そして、その奥。
ぽつん、と、小さな扉がひとつだけ、ぽつりと立っていた。
くすんだ木の板。取っ手も古びていて、まるで“何十年もそこにあった”ような風格。
けれどリトは、確信していた。
「……ここだ」
誰かに教えられたわけじゃない。けれど、身体が“ここに届けろ”と叫んでいる。
ドーナツをしっかりと抱え直し、リトは扉に手を伸ばす。
ギィィ……と、重たく扉が開く音。
開いた瞬間、ふわっと本のインクと、油と砂糖の匂いが混ざり合った。……甘くて、静かで、なんだか優しい空気だった。』