7.思いを届けに
風が強く吹く中、リトは紙袋をふたつ、大事に抱えて歩いていた。
片方には八つのドーナツ。
もう片方には、たったひとつだけ。
――たったひとつだけの、そのドーナツが、
今日、どうしても届けたかったものだった。
くたびれた玄関を開けて、きぃ……と床板が軋む音。
窓の隙間から冷たい風が吹き込んでくる。
「……お母さん、ただいま」
「リト? こんな早く……何かあったの?」
がた、とベッドの上で母が身を起こそうとするのを、リトが慌てて止める。
「いいから、寝ててって。なにもないよ。……今日は、頑張ってきたんだ」
そう言って、袋のひとつを母の枕元に置く。
「ご飯、まだ食べてないでしょ。……よかったら、これ、食べて」
母は、不思議そうに袋を開けた。
中から出てきたのは、ふっくらとした優しい焼き色の、小さなドーナツ。
ふわりと、ほんのり甘くて香ばしい匂いが、部屋いっぱいに広がった。
「……ドーナツ、なの?」
「うん。僕が作ったんだ」
母は、一瞬ためらう。
体調もまだ戻りきっていないし、食欲もない。
けれど、目の前の子どもが差し出してきたそれは、
あまりに嬉しそうで、誇らしげで――
「……じゃあ、少しだけね」
そっと、ひと口。
……。
目を閉じる。
噛むたびに、ふわっとした食感と、優しい甘さが広がって、ほんのりとした蜜の香りが鼻に抜けた。
それは、記憶にあるあの頃の味に、一手間も二手間も加えられたような、洗練された“贈り物”だった。
「……リト……っ」
母の目に、涙がにじんでいた。
「こんなに……優しい味、食べたの、久しぶり……」
ぽつりと、そんな言葉をこぼして、もうひと口。
リトは少しだけ照れたように、でも、すこし嬉しそうに笑った。
「へへ、よかった。ちゃんと、届いた」
それは、“味”だけじゃない。
小さな頃にもらった“優しさ”を、
今度は自分が返せたような、そんな気持ちだった。
「……うん、大丈夫そうだね」
リトはそっと、もう一方の袋――
残りの八つが入ったそれを抱え直す。
「僕、行ってくるね。……このドーナツを、届けに」
母の「どこに行くの…?」と問いかける声を背にして、リトは歩き出す。
それが“どこ”かも、“誰”かも知らないまま――
それでも、“この味なら、きっと届く”と、胸を張って言える自分が、そこにいた。