9.魔女の使徒
書きすぎた…過去最高に長いです。
でもこれ以上話数を増やす訳には行かないんですよ。
イサームは、グランサンクトゥムに“呼ばれていた”。
上位からの挨拶――それは本来、形式だけの儀礼に過ぎないはずだった。
だが、まさかその“挨拶”が、神の座す場所にまで通じていようとは。
イサーム自身、そんな展開はまったく予想していなかった。
謁見に先立ち、彼は中殿の大浴場に通された。
温かな蒸気と静かな水音の中で、何も語らずとも、侍従たちは彼の衣を脱がせ、まるで“穢れ”を祓うかのように、丹念にその身を洗い清めた。
そして、問答無用で着せられたのは、“魔女の使徒”の衣。
魔女派神官のそれをも遥かに凌ぐ、繊細な銀糸で星座を刺繍した純白のローブだった。
布地は、ひと刷けの風ですら揺れるほど薄く、しかし神聖さだけは重かった。
それは衣でありながら、まるで儀式そのものを背負わせるかのようだった。
ーーーーー
三重の大扉が静かに開かれる。
内側から漏れる光は、まるで空間の重力すら変えてしまったかのように、一歩ごとにイサームの心を締めつけた。
その先に広がるのは、《静寂の祈間》。
グランサンクトゥム・中殿の中心にして、神官が入れる最も神聖な場所。
三柱が“直に”姿を現すときにのみ、扉は開かれる。
ひとりの人間が、そこに通されるなど――
それは奇跡であり、同時に裁きの場でもあった。
イサームは、上位神官たちに導かれ、祈間の中央へと歩みを進める。
響く足音さえ、神殿に咎められるような静けさだった。
定められた場所に膝をつき、最上位の祈りの型を取る。
義手と生身の掌を合わせ、頭を垂れる姿――
その一動作が、祈りそのものとなり、空間に融けていった。
やがて、時の流れが溶け落ちるような沈黙が訪れた。
……空気が、変わった。
ひと息で胸を満たすほどに澄みきった気配。
だが同時に、身動きを奪うほどの重圧が、祈間全体を覆った。
音もない。声もない。姿すら見えない。
それでも、そこに“何か”が“在る”ことだけは、疑いようもなく伝わってくる。
この世の理の外側にある“存在”の質量が、空間そのものを震わせていた。
威圧ではない。支配でもない。
ただ、あまりにも揺るぎなく、清らかで、“完全”なものがそこにあった。
「……賢者様の御前です。名を、名乗りなさい」
補佐官の声が響いた。
静かに、だがまるで水面に石を落とすように、空間へ広がってゆく。
「……イサーム・ナジャール……サール・ナラムの、貴族位…伯爵家の……当主で、ございます……」
かすれた声。
口にした瞬間、胸の奥が震え、声帯が焼けるような痛みを覚えた。
彼の存在が、今ここに、賢者という“概念”に晒されている。
そのことに、身体が先に悲鳴を上げていた。
「イサーム・ナジャール。――賢者様は、顔を見せよと仰せだ。面を上げなさい」
補佐官の声は、今度は春風のように柔らかく、額に触れるように響いた。
イサームは、恐れと共に、ゆっくりと顔を上げる。
ベールの向こう――
差し込む光の奥、ほのかに覗いたのは、銀糸のような髪。
白ではない。無垢に限りなく近い、祝福の色。
その姿が“視える”ということ。
それだけで、世界が正しく回っていると錯覚してしまうほどの、絶対的な均衡と静謐を備えた存在。
神聖。
その言葉の持つ意味を、イサームはこの時、初めて理解した。
触れられたわけでもない。言葉を交わしたわけでもない。
それでも、彼の目から涙があふれた。
熱くはない。悲しみでもない。
ただ、崇高すぎて、言葉では触れられない“美”に、魂が震えた。
「賢者様は、貴殿の名と顔を覚えられた。
――魔女は、どうだったかと、問うておられる。答えなさい」
その言葉は、あくまで穏やかだった。
だが、そこに“逃れ”という選択肢はなかった。
イサームは、ふと口を閉ざした。
だが、胸の奥にある思いは、まるで始めからそこにあったように、言葉になった。
「……魔女様は……とても、素敵な方で……星の気配と共に……紛れもなく、私に赦しを与えてくださいました」
――沈黙。
それは、神々すら祈るかのような、深く澄んだ静けさだった。
「……賢者様は、満足しておられる。
貴殿を“魔女の使徒”として、正式に認めると。
誇りなさい、イサーム・ナジャール」
ーーーーーーーーーー
イサームは、賢者の気配が完全に消えるまで、祈りの姿勢を崩さなかった。
涙も、止まる気配を見せなかった。
その背にまとわりついていた、神聖というにはあまりに強大な“気配”がようやく抜けて、彼は静かに立ち上がる。
そのまま、静寂の祈間を後にした。
この後には、サール・ナラムの教皇――宗派内における最上位神官との謁見が控えている。
だが、イサームの足取りに、緊張はなかった。
むしろ、そのままの姿で、グランサンクトゥムの中をゆっくりと歩きはじめた。
大理石の通路。天窓から差し込む穏やかな光。
薄く香る乳香の匂いと、遠くから聞こえる鐘の音。
――ただ、胸の奥では、まだ心臓の音が鳴り止まない。
あの空間に存在していた賢者は、まさに神だった。
否応なく魂を震わせる、“絶対的な存在”。
そして、イサームは思い出す。
かの魔女と対峙した夜。
赦しを得たあの時、自分はただ立っていることができた。
それが、どれほど“配慮された状況”だったのか――
今、ようやく理解できた。
「……あの方は、手加減してくださっていたのだ」
誰に言うでもない独白が、喉の奥から零れた。
ーーーーー
イサームは、ふと義手から伝わる“気配”に気づいた。
宇宙に触れたその日以来、ときおり感じる、あの不思議な揺らぎ。
けれど、今回は少し違う。――懐かしさすら感じる、やさしい波。
その気配と、ふんわりとした甘い香りに導かれるように、彼は小さなパン屋へと足を運んだ。
「星灯堂 大聖堂支店」
境内の一角に、まるで小さな祠のように、静かに建っていた。
そのショーケースには、宝石箱のようにパンが並べられている。
どれもひとつずつ、祝福を受けたかのように、丁寧に仕上げられていた。
イサームは棚の前で立ち止まり、目を閉じた。
どれだ。どれがこの“気配”の発信源だ。
――見つけた。
名は「星のパン」。
宇宙色のフィリングに、銀箔をまとったチョコレート。
星屑のように輝くトッピングに、イサームは無意識に手を伸ばしていた。
そのパンを、2つ、3つと選び、店員に包んでもらおうとした、そのときだった。
「思い出のドーナツ、揚げたてだぞ!」
店の奥から響いた、年老いた男性の声。
その瞬間、イサームの義手がピクリと震えた気がした。
振り返る。
そこに並べられていたのは、香ばしい茶色をした、素朴なドーナツ。
何の飾り気もない。ただ、どこか懐かしくて、あたたかい光を放っていた。
――それは、まるで“宝物”のように、イサームの目に映った。
ーーーーー
……買ってしまった。
こんなに買うつもりではなかったのに。袋の中には、パンとドーナツが合わせて二十個。
いくらなんでも買いすぎである。
「……あのお方とかかわりがあるものなのだろう。仕方がない」
イサームは、自分に言い訳をするように呟いた。
けれど、心のどこかで――わかっていた。
あの方に“宇宙色の枷”を授かってから、自分の感覚は少しずつ変わってきていることに。
以前より、空腹を感じるようになった。
食べ物の味が濃く感じるようになった。
なにより、“満たされる”ことを知り始めている。
馬車の揺れが心地よく、少しずつ、後悔の影が溶けていく。
イサームは袋の口を開け、ふわりとした香りに包まれながら「星のパン」をひとつ手に取った。
ひとくち――
甘く、しゅわしゅわと舌の上で溶けていく、生地。
その味はまるで、夢のようだった。
そして――確信のようなものが、静かに胸に降りてきた。
「……これは、“宇宙の知識”だ」
なぜそう思ったのかは分からない。
けれど、はっきりとわかった。これは“教え”なのだと。
魔女から与えられた、命のかけらのようなもの。
イサームは星のパンを二つ、ぺろりと平らげた。
そして、袋の奥から――ひときわきらめいて見えたドーナツを手に取る。
それは、まるで宝石のようだった。
温もりを宿した、柔らかな宝物。
ひとくち――
……その瞬間、イサームははっと目を見開いた。
“宝物のように見えた”から美味しいのではない。
これは――あのお方の、“宝物”なのだ。
ーーーーーーーーーー
「遅刻だ、ナジャール」
イサームは宮殿に到着するや否や、冷たい声で迎えられた。
口を開いたのは、自分よりも位の低い貴族だった。
その一言が、まるで針のように胸に刺さる。
――やはり、自分は“罪人の家系の人間”なのだと。
たとえ神の奇跡に触れ、赦しを受けたとしても、外からの視線は変わらない。
「すまない、少し――用事があったのだ。このまま謁見に向かう。通していただけるか?」
「ふん、そんなのは当たり前だ。いくぞ」
貴族は鼻を鳴らし、踵を返すと、イサームを置き去りにするようにずかずかと進んでいく。
ーーーーー
廊下は、やけに長く静かだった。
石の壁に刻まれた神聖文字が、白銀の光を帯びて淡く輝く。
足音がかすかに響く中、前を行く貴族の靴音だけが、無遠慮に廊下を汚していた。
イサームは、ゆっくりと呼吸を整える。
指先には、まだ微かに、星のパンの甘い香りが残っている気がした。
“……やはり、変わらないのだな”
先ほどのひとことが、胸の奥に冷たく沈んでいる。
神の前に立ち、赦しを与えられた。
――それでも、他者の目には「罪人の子孫」でしかない。
けれど、イサームの背筋は揺るがなかった。
左腕に感じる、宇宙の気配。
あのお方が、手を差し伸べてくださったという、紛れのない真実。
その“赦し”は、誰に奪えるものでもない。
夜空の色を映したステンドグラスが、義手に宿る結晶と共鳴して、ひときわ強く揺れた。
やがて、謁見の扉が見えてくる。
そこは、サール・ナラムにおける信仰の頂――教皇との謁見の場だった。
広間に入ると、空気は張りつめていた。
沈黙の中、ただ靴音だけが響く。
本来であれば、教皇の到着を前に、全員が膝をつき、祈りの姿勢を取っているはずだった。
だが、イサームはただ静かに立っていた。
背筋を伸ばし、首を垂れず、義手を隠しもせず。
「無礼者……!」
「神前に立つ資格がないのか、あやつは!」
ざわめきが走る。
宗教貴族たち、上級神官たち、古くからこの国の信仰を背負ってきた名家の者たちが、一斉にイサームを責め立てる。
怒りは、やがて侮蔑へと変わっていった。
イサームは何も言わなかった。ただ、黙ってその場に立ち続けた。
義手から放たれる宇宙の光は、周囲にとっては“異様”に映った。
そこに神の気配が宿っていることを、誰も理解しようとはしなかった。
「……知らないのだな。あのお方の……赦しの重みを」
小さな呟きは、怒声の嵐にかき消されていく。
装束の意味も、左目に浮かぶ印の意味も、“使徒”という称号すらも、彼らには理解の外にある。
イサームはそれでも、膝をつかなかった。
誰よりも敬意を抱きながら、誰よりも静かに立ち尽くしていた。
――あのお方を、下げるわけにはいかない。
そう胸の奥で呟いたそのとき、低く荘厳な鐘の音が響いた。
それは、教皇の到着を告げる、唯一無二の合図だった。
怒声が、すっと止まる。
空気が変わり、沈黙が満ちる。
大理石の床を、ゆっくりと歩くひとりの人物。
その後ろには、神殿騎士団の長が控えていた。
教皇は、着座の前に立ち止まり、静かに深く頭を垂れる。
「魔女の使徒様。此度はこちらにお越しいただき、本当にありがとうございます」
その瞬間、広間の空気が凍った。
教皇よりも先に、膝を折るべき者は誰か。
この場で最も“上座”にある者が、誰か。
――すべてが、一瞬で明らかになった。
「……謝辞はいいんだ、教皇。顔を上げてくれ」
イサームの声は穏やかだった。だが、深く、力があった。
「私はただの罪人だった。あのお方が赦しを与えてくださっただけの……一介の人間だ。力も、何も持たない」
教皇は、ゆっくりと顔を上げる。
「……だからこそ、我々は貴殿を畏敬いたします。
赦しを受けた者は、赦しを知らぬ我々よりもずっと、神の近くにおられる」
その声は震えていた。
教皇は“見てしまった”のだ。イサームの左目に浮かぶ紋章、そして義手に宿る“宇宙の気配”を。
イサームはひとつ、息を整えると――わずかに声音を変える。
「教皇が私を呼んだということは、確認したいことがあるのだろう。……話を聞かせてくれ」
心の半分以上は、さっき食べたドーナツと星のパンで満たされていたが、
冷たい視線が肌を刺してくるのを感じて、早く済ませたいという思いが勝っていた。
「はい、魔女の使徒様。我々は……“三柱”の情報を求めております。
もし、使徒様が何か――我々の知らぬものをお持ちであれば……」
声は丁重だったが、あからさまに焦っていた。
信仰と威信がかかっている。教皇はそれを痛いほど理解している。
イサームは、静かに目を伏せた。
「……この義手は“宇宙色の枷”と呼ばれる。
魔女様より、直接与えられた。私の行動を制する“縛り”であり、同時に“祝福”だ」
一拍おき、問いを返す。
「――さて、教皇のお望みは何だ? “姿”? “気配”? それとも、“お声”か?」
教皇は喉を鳴らし、言葉を探した。
「……それは……その、可能であれば……すべてを……」
イサームはわざとらしく視線を外し、義手にそっと触れた。
夜の星々が、その表面に瞬いた。
「――それを望むなら、私の条件をすべて飲んでもらう」
声は淡々としていたが、その言葉には確かな重みがあった。
「条件は四つ。
一、ナジャール家の名誉の回復。
二、屋敷の再建。
三、水源の探索を国家予算で行うこと。ただし国は一切介入しない。
四、私を上位神官として正式に任命すること」
静寂が満ちる。
「……この四つを呑むのであれば、私は“魔女の使徒”として、語るべきことを語ろう」
教皇が、すべての条件を呑むと応じたとき。
イサームはほんの少しだけ視線を伏せ、声色をやわらげた。
「……魔女様は、“宇宙と夜の気配を纏った至高の少女”でした。
その手には赦しがあり、けれど試練なき者には何ひとつ与えない。
賢者様は銀髪の、静謐で、聖なるお方。言葉は交わせずとも、存在が“知”そのものでした」
そして、目を閉じ、さらに静かに続ける。
「……私は“赦された”のではない。
“赦す価値があると見なされた”――ただ、それだけのこと」
その言葉に、教皇がわずかに息を呑む。
「……傲慢である必要はありません。
ただ、愚直に、信じた道を進むこと。
それが、“膝を折らずに立つ”ということなのかもしれません」
袖の中に義手をしまい、イサームは最後に、静かに言った。
「これが、私――魔女様から裁きと赦しを与えられた者の、答えです。教皇」




