8.“そこにいるべき存在”
終わるはずだったんですけどねぇ…
目を開けたとき、映ったのは――焼け落ちた瓦礫だった。
崩れた石壁。黒く煤けた柱の影。かつて庭園だった空間には、花も草も、何もない。風だけが、砂塵を巻いて吹き抜けていく。
イサーム・ナジャールは、静かに身を起こした。焼け跡の地面に膝をついたまま、灰を払うでもなく、しばらくその場にいた。
「……ここから、か」
ぽつりと漏れた声は低く、静かだった。
「……ああ、そうだな。――禁忌だったんだ、ここからなのも、無理はない」
誰にも届かない、届かせるつもりもない言葉。温度を持たない声で、ただ自分自身に確かめるように呟く。
義手の掌を地に当てる。微かに残る灰が指先を覆うが、痛みはない。この場所に執着した心は、とっくに焼け尽くしてきた。
ゆっくりと立ち上がると、焼け跡の中央から一歩、また一歩と踏み出す。もう何も残っていないこの地を背に、彼は数日しか経っていないのに懐かしく感じる、虚しい自らの家へと向かった。
その建物は、“家”と呼ぶには、あまりにもみすぼらしかった。
板張りは歪み、雨をしのぐことすら怪しい。だが、イサームは戸口の前に立つと、わずかに息を吐いて足元の砂を払う。
その仕草には、不思議なほどの丁寧さがあった。
軋む音とともに扉が開く。中は、以前とほぼ何も変わっていない。泥棒等は入っていなかったようだが、砂は積もっていた。
イサームは静かにコートを脱ぎ、背の高い椅子の背へ掛ける。まるで、貴族の家で育ったような所作だった。
「……さて」
呟くように言って、懐から小さな袋を取り出す。
金色の封蝋。触れれば微かに魔力の反応があり、“特別な贈り物”であることを否応なく感じさせる。
「……ルブラ三枚。換金できれば……三百万は、くだらない」
袋を手に立ち上がる。
「……ありがたい額、だな。――今の僕には」
義手の指が袋を掴む。ぎしり、と小さく音を立てる宇宙色の枷は、まるで彼の“過去ごと抱きしめる手”のようだった。
目指すのは、街の中央にある商人ギルド。
ナジャール家が崩れた後も、この街には“金”という名の血が流れ続けている。
ーーーーーーーーーー
懐から袋を出す。机に置くと、中で魔石が微かに揺れ、鈴のような音を立てた。
商人ギルドの受付の職員が思わず身を乗り出す。
「こ、これは……! 確認してきます!」
駆け去っていく職員。その場の空気に、うっすらと緊張が走る。
ーーーーー
数分後、責任者らしき中年の男が現れた。
渋い顔つきのその男は、袋の封蝋を見て目を細める。
「……なるほど。まさか、実物を拝見できるとは」
「換金は可能か?」
イサームは簡潔に尋ねる。目元を覆う前髪は、歩いてきた風で少し乱れていた。
責任者の男がふと、視線を逸らし――そのまま固まった。
何かを見たのだ。
けれど、それを言葉にすることはなかった。
そのまま、ひとつ深く息を吸い――そして、吐いた。
「……はい、もちろんです。すぐにお手続きを」
彼の声色が、少しだけ変わっていた。
言葉にしないまま、何かを悟ったような、そんな間がそこにあった。
数歩後ろにいた職員までもが、無言のまま、わずかに頭を下げていた。
騒がしさに満ちていたギルドの空気が、
ほんの一瞬だけ、静まりかえった。
ーーーーー
ーー少しした後、
イサームの手元に戻されたのは、681万ドーナ分の貨幣。
彼はその一部、200万ドーナを別の袋に分ける。
腰にそれを下げて、静かに歩き出す。
「……神殿、か」
その声音には、冷静さと――微かな、感謝の色が混じっていた。
ーーーーーーーーーー
――祈りの場に、音はなかった。
貧民街のはずれ、くずれかけた古い神殿。
天井からは砂塵が差し込み、壁の隙間からは乾いた風が吹き込んでいる。
けれど、イサームの表情は静かだった。
「個室で、祈りをさせてほしい」
受付に立った神官は、一瞬あからさまに眉をひそめた。
身なりは良くない。髪は乱れ、袖口は擦れている。
何より――この顔を知っている。断罪された家の末裔。出入り禁止の寸前だったはずだ。
「……個室での祈りには、献金が必要ですが?」
あえてそう告げる。試すような、値踏みするような声音で。
イサームは何も言わず、懐から袋を出した。
その手には、宇宙の星々が揺れる義手がある。が、神官の目には映っていない。
袋の中から、封を開けたばかりの白金貨4枚を静かに置く。
「200万ドーナ。祈りの場に、相応しい対価だろう」
神官の表情が一変した。
「……こ、こちらへどうぞ!」
ーーーーーーーーーー
案内されたのは、薄暗い個室だった。
簡素な木の扉が閉まる音が響くと、そこはもう外界とは隔絶された世界だった。
イサームは膝をつき、静かに手を組む。
その動きは淀みがなく、指先は神官の所作そのものだった。
彼の祈りに、言葉はない。
ただ――義手のひんやりとした感触を掌に感じながら、目を閉じる。
左目に淡く、赦しの紋章がきらめいていた。
祈りに反応するように、ごく微かに輝くそれは、ただ静かにその存在を主張しているだけだった。
空気が澄んでいく。
誰も見ていないはずの小部屋に、なぜか敬意のような“静寂”が生まれていた。
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祈りを終えたイサームが扉を開けると、そこには――見知らぬ神官が立っていた。
その目は、まっすぐにイサームを見つめていた。
神官服は、白を基調としながらも、袖と裾にかけて、夜空を思わせるような群青の刺繍が流れていた。近くで見れば、星座のような意匠が幾つも織り込まれているのがわかる。
“魔女派”の印――イサームの記憶にある、神殿の中でも限られた者だけが纏える礼装だった。
「……失礼する」
そう言うと、その男は一歩近づくなり、イサームの左腕をすっと取った。
イサームは抵抗しない。ただ静かに、目を細めただけだった。
コートの袖が捲られ、義手が露わになる。
その瞬間――上位神官の目が揺れた。
「……っ」
何かを言おうとして、口を閉じる。
目を逸らさないまま、静かに一礼した。
「……上より、改めてご挨拶がございます。どうかお待ちいただけますか」
イサームは小さく頷く。
「……ああ。必要な手続きならば、私も避けるつもりはない」
言葉は丁寧だが、声音にはどこか距離がある。
神殿の祈りの場に立つ彼は、あまりに“場に馴染みすぎて”いた。
――まるで、最初から“そこにいるべき存在”だったかのように。




