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Astrolibra (アストロリブラ)  作者: 夢想の月
2.砂と花とおっさんの話
16/26

4.夜を閉じ込めた花

毎日設定集か本編どちらかの更新を目指しています。


期待せずに応援お願いいたします。

イサームは、街を出た。

背を押す者も、手を振る者もいなかった。


革袋の中には、最低限の旅装と、一本の短剣。

そして、銀細工の留め金をあしらった、香料瓶。

それだけが、“出発”という行為に正当性を与えていた。




ーーーーーーーーーー




最初のオアシスでは、水を分けてくれた老婆がいた。


「花を探している?……ふうん、いいねえ」


皺の深い目が、すこし細くなる。


「似たような話を聞いたことがある。けど、誰も戻ってはこなかったよ」


イサームは礼を言い、乾いたパンをひとかじりしながら、再び歩き出した。




ーーーーーーーーーー




次のオアシスでは、若い巡礼者とすれ違った。

彼はイサームの持つ瓶に気づき、言った。


「その模様……赦しを求めているのか?」


「……そういうものだ」


「なら、気をつけて。“赦し”は、神の気まぐれ以上に不確かなものだからな」


笑いながら、彼は背中を向けた。

残されたのは、ぬるくなった井戸水と、次の乾いた道だけだった。




ーーーーーーーーーー




三つ目のオアシスでは、声をかける者さえいなかった。

痩せた犬が遠巻きに吠え、目を合わせることすら拒むように、民は影に引っ込んだ。


イサームは喉の渇きを潤し、黙って立ち去った。

“何も得られない場所”にも、歩く意味はある。

彼はそう信じるようにしていた。




ーーーーーーーーーー




食糧は、もともと少なかった。

残っていた干し肉と黒パンは、三日前に尽きた。

それ以来、彼の口には水しか入っていない。


その日もまた、昼は干からびるような陽に焼かれ、夜は骨の芯まで冷える風にさらされた。

足元は、いつの間にか擦りむけて血が滲んでいた。歩くたびに、靴の中でそれが乾き、また開いた。けれど、靴を脱いで確かめる気力すらなかった。


水袋の中身を、指で揺らして確かめる。

わずかな音すらしなかった。


夜、喉を潤そうと一口含んだときには、もうそれはぬるい泥水のように感じられた。

それでも飲み干す。残すという贅沢は、もう何日も前に失っていた。


ただ、歩くしかなかった。




ーーーーーーーーーー




最後に訪れたオアシスで、ふとした言葉が落ちてきた。


「ルクシヴィオラ……?」


日陰で水を飲んでいた老商人が、イサームの言葉に気を留めた。


「ああ、昔、見たことがあるよ。青に近い紫の花弁に、星のような銀の点が浮かんでいた。あれは……夜を閉じ込めたような花だったな」


「どこで、咲いていましたか」


「――さあね。思い出せるなら、今も探してるよ」

そう言って、男は笑った。




ーーーーーーーーーー




イサームは、その晩、岩陰で身を寄せながら目を閉じた。

腹は空いていたが、飢えの痛みは、もはや麻痺していた。


夜の砂漠は静かで、どこか遠くから、風の音に混じって微かな甘い香りがしたような気がした。


そんなはずはない、とイサームは思った。

この数日、幻のような風景を見ることが増えていた。

陽の光が剣に見え、岩の影が人の背に見えた。

だから、香りすらも幻覚だろう、と。


けれど――

その香りだけは、彼の記憶にあった。

祖父の書棚。焼ける前、祖父が調合していた香料。

“赦し”を願った部屋の空気と、同じ匂いだった。




ーーーーーーーーーー




目を開けると、それはあった。


岩陰の奥、風の吹き溜まりに、ひっそりと。


青に近い、淡い紫。

花弁には、星のように光る銀の斑点。

夜を閉じ込めたというより、夜が“花の姿”を借りて現れたかのようだった。

乾いた砂に咲くには、あまりにも繊細で、あまりにも脆い。


「……見つけた、のか」


言葉は、誰に向けたものでもなかった。

ただ、削れた心の奥に、静かに落ちていった。


彼は、そっと腰を下ろした。

すぐに摘むことはしなかった。

それが“供物”になるには、手順がいる。


風が止むのを待ち、手のひらに力を込め、

彼は、祈るように指を伸ばした。


――“赦し”は、まだ遠い。

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