3.死地に向かう甘味
筆が乗ったので本日は2話目の更新です。
イサームは、最後の書類を机の上に置いた。
「……これで、全部だ」
ギルドの職員は、目を合わせなかった。ただ、淡々と署名と印を確認し、既定の封筒を一枚差し出す。
中には、最底辺の査定で計算された“退職金”と呼ばれるわずかな貨幣。それでも、“恩情”という言葉を添えられていた。
「お世話になりました」
そう言ったのはイサームの方だった。職員は返さなかった。
ギルドを出た瞬間、背中に冷たい視線が突き刺さる。
彼が捧げようとしている物語は、誰にとっても“滑稽”だった。
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その日の午後、イサームは家の焼け跡にいた。
黒ずんだ瓦礫。崩れた壁。根こそぎ略奪された書棚の残骸。
その中に、かつての“生活”の欠片を探す者を、人は“亡者”と呼ぶ。
「おい、まだ何か埋まってると思ってんのかよ」
「お情けで生きてるくせに、今さら何ができるんだよ!」
誰かが笑い、誰かが唾を吐いた。
石が飛ぶたびに、彼の肩が跳ねたが――手は止めなかった。
指先が、土を掘る。灰に塗れた柱をどかす。
そして、何度目かの石を肩で受けた時――
それは、カランと音を立てて、彼の指に当たった。
青銀にくすんだ、祖父の書棚の留め金。
その奥にあったのは、焼け落ちた床の下に隠された、小さな錆びた箱だった。
中には、割れた装飾品や、使えそうにない銀食器。
だが、そのいくつかはまだ、“売れる”状態だった。
イサームは黙ってそれらを袋に詰め、まるで贖罪のように、ゆっくりと立ち上がった。
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三日後。
彼は、街の裏通りにある質屋の前にいた。
装飾品を売り、短剣の鍔を手放し、祖父の香油の一部を差し出した。
手元に残るのは、わずかな生活道具と、命をかけるための短剣、1枚のレシピ。
――そして、大金貨一枚。
だが、その重みは、現実に削られていく。
祈りに使うならば、本物でなくては意味がない。
イサームは、まず魔除けの模様が刻まれた清潔な瓶を買った。信仰用の品で、保存性と気密性は確かだが、それなりの値も張った。
次に選んだのは、祖父のレシピにあったスパイス。クローブ、カルダモン――花の香りに合う、甘く複雑な香りの調合。
そして、供物の核となる砂糖。祈りに混ぜ物は許されない。彼が選んだのは、純度の高い白砂糖だった。
瓶、香料、砂糖。
“魔女の赦し”を得るために、妥協はできなかった。
最後に最低限の旅装を揃えた時、残金は――銀貨数枚。
気づけば、大金貨はすでに崩れ、革袋は軽くなっていた。
彼は店先で、紙に書いた最後の材料を見つめた。
『小麦粉』『油』
――供物の、本来の土台。
「……これで、足りると思ってた」
袋の底を覗いて、彼は息を吐いた。
砂糖や香料の品定めには迷いがなかった。だが、まさか小麦粉と油にまで金が足りなくなるとは、思っていなかった。
無駄遣いではない。
ただ、“選びすぎた”だけだ。
砂糖とスパイスは、すでに祖父の記録の中にあった。
だが、小麦粉や油は、記されていなかった。
「……なら、これはこれで、供物には違いない」
自分に言い聞かせるように呟く。
粉も油もないルギマート。それが供物として成立するかどうか――それはもう、自分が決めることではなかった。
いや、そもそも自分に“完成品”を作る力があっただろうか。
計量の匙も、こねるための台も、油を温める鍋もない。
手元にあるのは、祖父の記した香料の配合と、祈りに使われた清浄な砂糖、そして選び抜いた瓶だけ。
「――形にするための力は、僕にはない」
だが。
「それでも、ここに“物語”はある」
この瓶に詰めるのは、ただの甘味ではない。
それは、焼け落ちた家の中で拾い上げた記憶であり、貴族としての誇りの残滓であり、赦しを信じた祖父の、最後の祈りだ。
彼は瓶を懐に抱き、そっと指でなぞった。
魔除けの模様は、いびつで、かすれている。
まるで彼自身のように、不完全で、不格好な線だった。
「……けれど、だからこそ、僕が持っていく意味がある」
それは“完成された供物”ではない。
だが、“赦しを求める物語”として、唯一無二だった。
イサームは革袋をしっかりと抱え直し、瓶を胸元にしまった。
それは彼にとっての挑戦状であり、遺書であり――
まだ終わっていない物語の、たった一つの扉だった。
そして、彼は歩き出す。
粉も油も持たずに、ただ花を探しに、果てなき砂漠へ。
“完成”ではなく、“祈り”を捧げるために。




