2.神の隣に立つために *
後書きに世界設定・謁見の短剣 《ディア・ノートゥス》について記載してあります。
過去最高に長いですが世界観を理解していただくために必要なものとなりますので良ければご覧下さい。
イサームは古びたマジックバッグを膝の上に置いた。
擦り切れた安物。魔力も、もうほとんど残っていない。
気温の変化で紙は波打ち、湿気で瓶の封は、いつ崩れてもおかしくなかった。
けれど、この中にしか“家”は残っていない。
それだけは、確かだった。
震える指先で、布に包まれた小さな束を取り出す。
祖父が、「自分に何かあったら、開けなさい」と言い遺した袋だ。
家が焼かれたあの日に、イサームが抱えて逃げた、唯一の形見。
布を解くと、中には薄い布で包まれた数冊の手帳、香油の瓶、装飾が綺麗な短剣が残っていた。
手帳。それは神官としての記録――だが、ただの手帳ではなかった。
祖父がこの国で、どれほど「赦し」にすがり、どれだけ「祈り」に生きたか……その断片が、そこにあった。
イサームは一冊ずつ丁寧にめくりながら、指先に覚えのある手触りを見つけた。
一枚の紙片が、静かに床に落ちた。
拾い上げて広げたそれには、かすれた筆致でこう記されていた。
《17代魔女が愛した供物:花の砂糖漬けとスパイスのルギマート》
「……これを、まだ残していたのか」
声が、かすれた。
記憶の奥に眠る祖父の声が、ふと蘇る。
「魔女が赦す時は、供物だけではない。物語の真価を見るのだよ、イサーム。どんなに貧しい甘味でも、魂が伴えば価値は変わる」
そのときは、意味が分からなかった。
だが今なら――少しだけ、分かる気がした。
これは、かつて赦しを得た誰かの供物。
そして祖父は、それを祈りの記録として遺していた。
「赦されなかった家」の中で、たった一つの“希望”として。
イサームは、指先でその紙片をなぞる。
17代魔女――今はもう在位していない。
供物の好みも、望む香も、きっと変わっている。
それでも彼は、そのレシピに縋るしかなかった。
それしか、知らないのだ。
貴族の家に生まれ、全てを失ったあの日。
焼き捨てられた家、奪われた書棚、失われた祈りの道。
唯一手元に残ったのは、祖父の教えと、いくつかの記録だけだった。
そして、その断片が今、彼を再び“神の領域”へ導こうとしている。
「今の魔女には通じないと、分かっているさ」
呟きながらも、手は震えていない。
ただ、指先に力がこもる。
これが、贖罪ではなく、祈りでもなく、彼にとっての――「挑戦」なのだ。
花の砂糖漬け。
この地では手に入らない、特別な花。
わざわざ咲く地域まで探しに行かなければならない。
そのために、彼のわずかな蓄えはすべて消えるだろう。
そして、レシピ通りに作っても、おそらく味はひどいものになる。彼には菓子作りの技量などないのだから。
だが、それでも構わなかった。
「赦し」を乞うのではない。
「赦されるだけの物語」を、届けにいく。
神の名にすがるのではない。
神の“隣に立つ”者として、かつて失ったものを、自らの手で取り戻すために。
「……見つけるさ、祖父の祈りの続きを」
イサームはレシピを丁寧に畳み、胸元にしまった。
それは、過去の亡霊でも、失われた栄光でもない。
彼が選んだ「今の自分」を証明する、唯一の羅針盤だった。
【世界設定・謁見の短剣】
謁見の短剣 《ディア・ノートゥス》とは、魔女の領域への“挑戦”を許されるために必要な特別な短剣である。
もともとは、ごく限られた高位貴族にのみ授与された儀式具であり、一族につき使用可能回数は最大で3回までと定められている。
この短剣を持って魔女の領域を訪れる者は、“命を賭して物語を捧げに来た者”とされる。
だがそれはあくまで「自らがそう望んだ」というだけの話であり――
魔女にとって、それは“歓迎されざる来訪者”でしかない。
領域の扉を開くには、自身の身体をこの短剣で傷つけなければならない。
捧げるのは“命”または“四肢”。
命を差し出す場合は、心臓または首に。
血肉を差し出す場合は、自らの四肢を一部失うことで、その覚悟を示す。
ただし、その者の物語が「赦されるに値する」と魔女によって認められた場合――
傷は癒され、失われた身体には代償としての“義”が与えられる。
この短剣そのものもまた、覚悟を秤にかけられる道具である。
もし物語が価値なきものと判断されたなら、刃に黒い文様が浮かび、使用回数が1つ失われる。
3回のうち、すべての試みが「無価値」と見なされれば、短剣は完全に錆びつき、以後、魔女の領域へ入る資格を失う。
なお、もしその物語が真に価値あるものと認められた場合、刃の文様は消え、使用回数は回復する。
だが、いかなる結果であっても、魔女が来訪者を“歓迎する”ことはない。
魔女にとってこの短剣は、価値のない物語を持ち込まれた回数だけ、自らの静穏を破られる証である。
たとえ赦すことがあったとしても、来訪そのものを是とするわけではない。
それはあくまで「物語に対して下される審判」であり、訪問者の意志が尊重されるわけではないのだ。
“招かれざる者”として門を叩き、
それでもなお、物語によって赦される者のみが――
神の隣に立つ資格を得る。




