10.星灯堂
王都の朝は、決まってパンの香りとともに始まる。
けれど、街の東区――中央通りを少し外れた、川沿いの細道にある一軒の店から漂う香りは、他とは少し違っていた。
ほんのり焦がした蜜の匂い。
白砂糖のやさしい甘さと、黒糖に似た奥行きのあるコク。
それらが溶け合って、まるで「懐かしさそのもの」のような温もりを連れてくる。
この香りを嗅げば、たいていの王都民はこう言う。
――ああ、星灯堂が開いたな、と。
星灯堂。
借金まみれの古びた店を、ひとりの青年が立て直した、小さなパンと甘味の店。
いまや王都でいちばん名前を知られる、けれどいちばん並ぶ店でもある。
看板商品のひとつ、「星のパン」は、紫と青のフィリングがふんわりとした生地に挟まれ、表面には銀色にきらめくチョコレートが星形に流されている。
ふわふわ、しゅわしゅわ、そして甘くとろけるその味は、「夢を食べているようだ」と、誰かが言った。
しかし、それでも一番人気はべつのものだった。
棚の中央に、毎朝一列は並ぶ茶色いドーナツ。
揚げたての香ばしさ。さっくりとした皮。
口に入れると、やさしい花蜜の香りと白砂糖の甘さが広がり、最後に黒糖のような、じんわりとした風味が余韻を残す。
その名も、「思い出のドーナツ」。
誰も知らない。けれど、店主だけが知っている。
このドーナツは、かつて“ドーナツと物語をこよなく愛する存在”に捧げた、たったひとつの原点だということを。
「よし……今日も、油の調子は上々だな」
厨房の奥。
焼き立てのパンが並ぶ棚に囲まれながら、青年――リトは揚げ網を覗き込む。
昔と変わらぬ、真っ直ぐなまなざし。
だが、そこにはあの頃にはなかった、確かな自信と誇りが宿っていた。
「リトさん、もうお客さん並び始めてますよー!星パン、あと何分で焼き上がります?」
「あと七分。ドーナツはすぐ揚がるから、ひとまず……待っているお客さんに甘味のお茶、淹れてあげて。今日は“宇宙の葉”使ったやつを少し足してもいいな……もちろん、サービスでね」
「また珍しいの使うんですねぇ……」
「うん。特別な朝だからね」
そう言って、彼はひとつ、ドーナツを持ち上げる。
油をしっかり切り、ていねいに白い紙に包むその手は、ひとつの祈りを包むようだった。
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店のすぐ裏手――石畳の細い路地に、小さな影がひとつ。
青と黒が溶け合うような瞳。
夜空を編んだような髪をふたつに結った、小柄な少女。
少女は、白い紙袋からドーナツを一つ取り出し、ゆっくりと齧った。
「ん……変わってない。とても綺麗で、優しくて……上品な味だわ」
その声を聞く者は、誰もいない。
ただ、朝の風だけがそっとその言葉を撫でていく。
──たしかに、それは“あのとき”の味。
けれど、もっとやさしく、もっと力強くなっていた。
きっと彼が、誰かのために、毎日作り続けてきた証。
「……やっぱり、好き」
そう小さく呟くと、彼女は残りのドーナツも紙袋の中に戻し、まるで、誰もいなかったかのようにふわりと路地の影へと姿を消した。
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カウンターに戻ってきたお会計袋を、リトが何気なく手に取る。
いつもの朝と、同じように。
「今日はドーナツ30個分か……」
紙に書かれた注文表と、袋の中身を見比べながら、ざらりと貨幣を撫でる。
……その時。
(……え?)
指先に、明らかに異質な感触。
他の貨幣よりも、冷たく、なめらかで――重い。
「……っ、ルブラ……?」
手のひらに取り出して、思わず息をのむ。
それはルビーのように艶やかな石貨。中心に銀色の紋が浮かび、赤紫色の光をうっすらとたたえている。
正式な取引でも使えるこの通貨だが、最低金額は百万ドーナ。そんなもの、お釣りを出せるわけもない。
そもそも、朝一番の注文でこんな高額を使う客なんて……
「……来てたんだ」
リトは、目を伏せて、小さく笑った。
“誰なのか”を聞かなくても、すぐに分かった。
あの味を、あの時間を、“ふたたび選んでくれた”人がいた。
その証が、確かにここにある。
手のひらに、ぽつんと浮かんだ一枚のルブラ。
けれどそれは、星のように大きな、感謝の印だった。
まるで、ひとつの物語の続きを、確かに受け取ったかのように。
リト少年のお話は、ここで一区切りとなります。
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さて、つぎはどんな人が、不思議な少女と出会うのか…気長に期待せずお待ちいただければ幸いです。




