僕と家主とラムネ瓶
からんからん。
振っても振っても、どこか空しい音が返ってくるだけだ。
ドアノブを回す。
強く前後に動かしたが、扉はピクリとも動かなかった。
仕方がないので、今日も本を読んで過ごす。ありふれた恋愛を語った、ありふれた小説。
木製の椅子をみしみしと揺らしながら、ただ家主が帰ってくるのを待った。
家主はいつも、朝の8時に「仕事に行ってくるねぇ」と家を出て、夕方の17時に「ただいまぁ、ご飯作るからねぇ」と帰ってくる。
「行ってらっしゃい」と家主を見送った後、必ず鍵を開けドアノブを回すが、押しても引いても、うんともすんともいわない。初めこそ必死に今日こそは、今日こそはとガチャガチャ頑張ったが、10日経った頃には、何の期待もなく軽く確認するだけで、鍵をかけ直して部屋へ戻るようになった。
俗にいう誘拐監禁だったけれど、あまり恐怖も焦りもなかったのは、衣食住がきちんと用意されており、僕が何かを頼めばほとんど必ず与えられたからだろう。僕の要求に対して家主は「本が好きなんだねぇ」「書くほうも嗜むんだぁ、学があるんだねぇ、すごいなぁ」「こういう服が流行りなのかぁ、僕が用意するものってなんだか野暮ったいもんねぇ」と優しく笑って、その日の仕事終わりに買って帰ってきてくれる。
家主は物腰が柔らかく、どこか抜けていて、なぜ高校生男子の監禁なんてやってのけられたのか不思議なほどだった。
「ただいまぁ、ご飯作るからねぇ」
「おかえりなさい」
家主は冷蔵庫に買った食材を詰めながら僕に話しかける。
「お昼もちゃんとご飯食べてくれたんだねぇ……洗い物までしてくれたのか、置いておいてくれてもいいのに、ありがとう」
僕も答える。
「いえ、そういうわけには……お昼のカレーも美味しかったです。」
へへぇ、と嬉しそうな声がする。
読んでいた小説を椅子に置いて、ダイニングテーブルに移動した。家主が帰ってきてからは、夕飯を準備する彼と会話をするのが日課だ。
「今日はどう過ごしていたのぉ?」
「あなたが昨日買ってくれた本を読んでいました」
「そうか、嬉しいなぁ。どうだった?」
「面白かったです。賞を取るのも、うなずけます」
「へぇ、すごい本だったんだぁ。だから本屋に沢山積まれていたんだねぇ」
すとん、とん、と包丁の音。
「今日はねぇ、美味しそうな茄子が売っていたから煮びたしにするんだぁ」
「いいですね、楽しみです」
ふと家主が僕の目を見て、そして微笑んだ。分厚い黒縁眼鏡の奥の瞳は、ぞっとするほど優しい。
「いただきます」
「はぁい、召し上がれぇ」
なすの煮びたし、トマトのサラダ、豚バラとピーマンの炒め物。夏野菜がふんだんに使われた、とても美味しい夕食。誘拐犯と囲む食卓は歪だが、毎日健康的で温かく、僕の頭に靄をかけていくようだ。
「夏ですね」
「うん、野菜が美味しいねぇ」
頬袋をぱんぱんにして、にっこりと笑っている。彼は確かに成人した男性なのに、仕草がやけに子供っぽく、それが端正な顔立ちとあまりにもミスマッチで、軽く混乱する。
「夏と言えば、そうだぁ」
家主は立ち上がると、冷蔵庫を漁り始めた。
「みてみてぇ、じゃーん」
今日買ってきたんだぁ、と言う手に握られたのは、
「瓶ラムネですか、今時珍しいですね」
「でしょぉ、僕もそう思って買っちゃったんだぁ」
食後に飲もうねぇ、と家主はにこにこしながら瓶を冷蔵庫に戻し、食卓に戻ってきた。
また頬袋をぱんぱんにして、本当に美味しそうに食べている。
見ていて幸せな気分になる、不思議な人だな、と思った。
「じゃぁ、かんぱーい」
「はい、乾杯……」
夕食を食べ終わり、家主の宣言通りラムネで乾杯しよう、ということになった。
二人でベランダに出た。ここに来てしばらくはベランダも含めてすべての窓に鍵が必要なタイプの錠がかかっていたが、最近外された。僕が大声で助けを呼ぶようなことがないことを知ったからか、この部屋が低く見積もっても10階以上で、逃げ様がないことに気が付いたのか。
ぷしゅ、とラムネの栓を押し開ける。おぉー、と家主も栓に手のひらを押し当てて頑張っているが、一向に開く気配はなかった。本当に、どうやって僕を誘拐したんだ。
「貸してください」
家主の体温で少し温かくなった瓶を受け取り、自分のラムネを家主に預けると、先程と同じように栓を開けた。ぷしゅぅ、という音とともに、ビー玉が浮かび上がってくる。家主は感動していた。
開いた瓶ラムネを意味なく交換して、再度乾杯する。
少しずつ喉を通っていく、甘いしゅわしゅわとした感覚が、主に心を潤していく。
「ん……わぁ、美味しいねぇ、こんなに美味しいんだぁ」
「飲んだことないんですか」
「うん。親が天然嗜好でねぇ、人工甘味料なんてダメ!ってぇ」
「そうですか」
ぬるい風が、重たくなってきた髪を撫でる。そういえば、外に出られないので髪も切りに行っていないな、と気づいた。家主の髪も重ためで、ふわふわとしたくせっ毛が夏風に吹かれて微かに揺れている。
「ねぇ、このビー玉取り出せないのぉ?」
「え、あぁ、どうでしょう、頑張れば出せますけど」
「難しいんだぁ」
「難しいですね」
そっかぁ、と瓶を揺らす家主。
からんからん。
振っても振っても、どこか空しい音が返ってくるだけだ。
「君みたいだねぇ」
「え」
聞き間違いかと思ったが、こちらを見る整った顔があまりにも真剣で、冗談でも何でもないのだと分かった。
この人には、僕を監禁している自覚があるのか。
少し考えれば当たり前だが、穏やかな人柄に絆されて勘違いをしていた。
僕は誘拐され監禁されており、家主は僕を誘拐し監禁している。
何故?
「……戻ってお風呂にしようかぁ」
「……そうですね、僕がお湯溜めますよ」
「いいよぉ、ポチッとするだけだし、僕に任せてぇ」
空になった瓶を片手に部屋に戻る。ベランダのドアを閉めて、しっかりと鍵をかけた。
「空瓶どうしておけばいいですか」
「あぁ、シンクの横に置いておいてぇ」
「分かりました」
かちゃ、と二本並んだ、ビー玉が残ったラムネ瓶を見て思う。
彼に罪悪感はあるのだろうか。
……ぴぴぴぴ、とアラームが鳴る朝7時。
家主が起きる時間に合わせて、僕も起きる。
「おはようございます」
着替えてリビングに出ていくと、昨日椅子の上に置いた本の上できらっと何かが光った。
近づいてみると、淡い青色のビー玉が2つ、並べて添えてあった。
「おはよぉ」
背後から声がして、心臓がびくっと跳ねる。
「……お、はようございます。これ、取り出せたんですね」
ビー玉を指差すと家主は、あぁ、
「やっぱり難しかったから、瓶を割って出したんだよぉ」
どうしても欲しかったんだぁ、と微笑んだ。
普段よりも、ほんの少しだけひんやりとした笑顔。
喉の奥で小さくひゅっと音が鳴った気がした。
何故。
家主はビー玉をひとつ手に取ると、
「一つずつ持っておそろいにしようよぉ」
と提案してきた。本当に、随分子供っぽいことを言う人だな。体だけ大きくなったみたいだ。
「分かりました」
「へへぇ、なんだか嬉しいなぁ。仕事頑張れそうだよぉ」
心がほわっとした。同時に、なんてずるい人なんだろうか、と思った。
僕はもう、この人を警戒することができなくなってしまっていた。
朝の8時。
「仕事に行ってくるねぇ」
「行ってらっしゃい」
閉まったドアの鍵を開けようと手を伸ばして、やめる。
本の続きでも読むか、と部屋に戻った。