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事故で人生が変わってしまった人々の話

罪を犯した聖女と元婚約者の最期の一ヵ月

作者: 今紺 軌常

「君を愛することはできない」と、同じ傷を抱える君に言った(https://ncode.syosetu.com/n3261iz/)の聖女と第一王子の話です

もしも、わたしがこの世界の主人公だったなら、身にかかる困難を全て『王子様と協力して解決しました』として、終わりに『みんな幸せになりました、めでたしめでたし』なんて締めくくったことだろう。

けれど、どうやらこの世界の主人公はわたしではないようで、王子様と協力しても全てが解決できるわけでもなく、みんなが幸せなハッピーエンドにはならないらしい。




わたしが聖女になったのは14歳のときだ。物心ついたときには孤児院で過ごしていて、親がいないことにも、満足に食事がとれずひもじい思いをすることにも、何の疑問も持たずに暮らしていた。そんな暮らしは、わたしが飛びぬけた魔力を持ち、光魔法の適性があるというだけで一変してしまった。あれよあれよという間に王宮に連れていかれて、訳も分からぬうちに貴族として相応しい教養を身に着けるように言われた。

それまでは、王宮で出される食事と比べれば残飯以下の物を口にして命を繋いでいた。当然、マナーなんてお辞儀一つまともにできないくらいの有様だ。ただ歩くだけでも周りから溜息をつかれる日々は辛いものだった。それでも、逃げ出そうとしなかったのは、わたしが聖女になれば数多の人を救える機会が巡ってくると言われたから。それから、不出来でもわたしの努力を認めてくれるオスクリタ第一王子殿下がいたからだ。




王立魔術学園に入学してから数ヵ月後、冬休みの前に課外活動があった。王都の外にあるが、比較的安全な森で行われる行事だった。わたしは下位貴族や平民の方と一緒に薬草を集め、穏やかな課外活動を楽しんでいた。

その時間を一匹のトロールがぶち壊した。それまで、魔獣というモノを見たことがなかったわたしはパニックになった。とにかく、近くにいるみんなを守らなくちゃと思ったのだ。その頃はまだ魔法の特訓をしたことがなかった。学園で行うから入学まではマナーに専念しろというのが偉い人の判断があり、入学してからは魔法を使う前段階として基礎的な座学しか行っていなかった。

わたしはまともに使ったことのなかった自身の魔法をトロールにぶつけた。そこまでは、覚えている。だが、そのあとは意識を失ってしまって分からなかった。

課外活動で起こった事故から数日後、目を覚ましたわたしにオスクリタ殿下は「ルーチェのおかげでほとんどの生徒が無事だったよ」と仰った。ほとんど、に含まれなかったのがカローレ・カクタス子爵令嬢とペシェ・ブルースター男爵令息だ。二人は残念ながらトロールに襲われて命を落としたらしい。

わたしが平民のくせに聖女なんて生意気だと他の令嬢にキツイ言葉を投げかけられたとき、カローレ様は「ルーチェさんは急に聖女に選ばれて困惑しているだろうに、聖女に相応しくあろうと大変努力されている。それなのに、身分だけで貶めるなんて品性に欠ける行為だわ」と庇ってくれた。わたしが授業で使った物品の片付けや提出物の運搬など、本来なら数人の生徒で行うべき雑務を押し付けられたとき、ペシェ様は何も言わずに手伝ってくれた。学園生活で行動を共にしていたというわけではないのに、お二人には何度も助けられた。そうやって自然と他人を助けられる人だった。そんな優しい人を救うことができなかったことが悔しかった。だから、もっと多くの人が救えるようになろうと決意した。


恐ろしい目に遭ったのだからしばらくゆっくりした方が良いとオスクリタ殿下に言われ、冬休みが終わった後もしばらく学園は休んでいた。けれど、ゆっくりなどできるはずもなく、宮廷魔術師の方々に頭を下げて指導してもらった。比喩でもなく血反吐を吐いたが、強すぎる自身の魔力をコントロールできるようになった。

そして春休みが終わる頃にやっと復学をした。カローレ様とペシェ様だけでなく、幾人かの生徒が学園を辞めていた。魔術学園を卒業しないと魔法を使う職業に就くことは難しい。しかし、文官や騎士、または貴族の夫人や侍女など魔法を使わないのであれば、学園を卒業する必要はない。よって、端から学園に入学しない者や行儀見習い程度に入学しては早々に退学していく生徒も多い。けれど、このタイミングで辞めたということは事故が原因だろう。魔獣に恐れをなして魔法から離れたいと思ったか、魔法も万能ではないと失望したか。どちらにせよ、わたしがもっと強ければ学園を辞めなかったかもしれない。わたしのせいで他人の人生の選択肢を減らしてしまった。もっと聖女として相応しくならなければいけない理由が増えた。


わたしは頑張った。頑張って頑張って頑張って、いっぱい人を助けた。その過程で救えない人も大勢いた。救えなかった人は忘れないように記憶に刻み付けた。もう二度とこんなことがないようにともっともっと頑張った。

そして、学園を卒業してから2年が経った頃、オスクリタ殿下からプロポーズをされた。わたしがまだ聖女と呼ぶには不釣り合いなただの小娘だったときから、殿下はわたしのことを支えてくれた。聖女として相応しい活躍を見せるわたしのことをみんな大切にしてくれる。でも、そうじゃないわたしも殿下は大切にしてくれる。わたしはそんな殿下が大好きだった。殿下と一緒だったら、この国をもっと豊かにできると思った。殿下と共に幸せになれると、なりたいと思った。


それが、罪深い行為だと知ったのは殿下の誕生日、婚約を発表したときのことだ。

カローレ様とペシェ様の命を奪ったのはトロールではなく、わたし自身だったと知った。わたしが暴走してしまったせいで、お二人は命を落としたのだ。救えなかった命はある。けれど、命を奪ったことはなかった。ないと、思っていた。

ペシェ様の婚約者だったアクア様は大切な人を返してと泣いていた。カローレ様の婚約者だったフレッド様はアクア様を支えながら、痛みを堪えるような顔をしていた。オスクリタ殿下はバツが悪そうにわたしから顔を反らした。

今までわたしが信じていた全てが嘘だったと分かった。そんなことも知らず、優しいお二人を殺しておいて、わたしは聖女に相応しくなれたのだとなんて思い上がりをしていたのだろうか。




パーティーのあと、殿下と話し合った。


「君の光魔法は罪人として封じてしまうには惜しいものだった。現に、君は聖女として数えきれないほどの人を救った。あの事故で君の魔法を封じていれば助からなかった命がある。私はこれが正しい選択だったと信じている」


だから、全ての事情を飲み込んでくれ。言外にそう言うようにわたしを抱き寄せようとしてきた殿下を振り払った。

愛しい人。何度もわたしを助けてくれた人。このときだって、変わらぬ優しさを瞳に乗せてわたしを見つめてくれた人。わたしも同じくらい愛おしく思っている。けれど、もう一緒にはいられないと気付いてしまった。


「人の命が数として数えられるモノならば、わたしに罪はないのでしょう。しかし、命は数ではないのです。誰かを助けたから、他の誰かを殺したことが帳消しになるわけではありません。何百、何千、何万の人を救ったところで、カローレ様とペシェ様は帰ってこないし、残された人の心が癒えるわけでもありません。わたしは、わたしが許されてはいけないと思います。そして、わたしの罪を隠そうとした殿下もまた、許されてはいけないと思うのです」


殿下は悲しそうに微笑んだ。これから、わたしが何と言おうとしているのか、全てが分かっているようだった。


「婚約を解消してください。わたしは、殿下とは共にいられません」

「王妃になることで、今までよりも多くの人を救えるとしても?」

「わたしは、殿下に不信感を抱いています。殿下とでは国のために支え合う王と王妃にはなれません。それに……こんなわたしが愛する人の隣にいてはいけない」

「そうか……こんな私を、まだ愛してくれているのか」


殿下は天井を仰ぐように顔を上げて深呼吸をした。泣き出してしまうのを堪えているような仕草だった。自業自得なのに泣くなんてちゃんちゃらおかしいと呆れる反面、悲しまないでほしいと寄り添ってあげたいと思う自分もいた。恋というものはなんてままならないモノなのだろう。


「父上には、私から報告しておく。今まで、私の我儘に付き合わせてしまってすまなかった」


それが、オスクリタ殿下と交わした最後の会話だった。




それから、わたしはオスクリタ殿下と婚約を破棄し、教会に身を寄せた。

第一王子殿下との婚約破棄だ、普通の貴族令嬢であったのならばまともに生きることはできなかっただろう。しかし、わたしは聖女として働くことだけを選んだので、貴族間の面倒くさいあれこれとは無縁の生活をおくった。

数多の魔獣を倒し、貴族も平民も関係なく救いを求める人々を助け、病であろうが怪我であろうがなんでも治した。がむしゃらに走り続け、大聖女と呼ばれ、教皇様よりも強い発言権を持つようになるころには40歳を超えていた。


「貴女にとある尊い方の看取りをお願いしたい」


数年前に教皇に選ばれたわたしよりも年若い教皇様が言った。

わたしは平民からも貴族からも覚えがめでたい。それを利用して、わたしは献金を懐に入れて贅を尽くす者たちを一掃した。それからは、教皇というのは権力に胡坐をかいて好き放題する地位ではなく、苦労は多いのに見返りは少ない損な役回りになった。故にその立場は押し付け合いになり、結果として本当に信心深い者が地位に付くようになった。


「看取りですか? 病や怪我を治すのではなく?」

「はい、既に聖女の奇跡でも手の施しようがないほど病が進行しており、余命は一ヵ月ほど。それまでは郊外の別荘で過ごされるそうなので、そちらに行ってください」

「看取りだけならば、わたしでなくても良いでしょう。他の司祭や修道女を派遣されては?」


わたしの言葉に教皇様は首を横に振った。今の教皇様は生真面目で、誰に対しても平等に愛を与える方である。権力に屈するような人ではなく、金やその尊い方とやらの身分で態度を変えることはないはずだ。それなのにわたしを一ヵ月も派遣しようというには、何か込み入った事情というものがあるのだろう。


「わたしが一ヵ月も教会を留守にして良いのでしょうか?」

「貴女のおかげでこの国は平和を保っていますから。一ヵ月ほどルーチェ様がおらずとも、そう困ったことはないでしょう。もしものときはお力をお借りする可能性もありますが、ひとまずは、その方とゆるりと過ごしていただきたい」


珍しく微笑みを浮かべる教皇様の言葉に頷き、翌日には尊い方とやらが過ごす辺境へと旅立った。

その地で待っていたのは、記憶よりも年を重ねたオスクリタ殿下だった。




南の辺境は晩秋だというのにぽかぽかと暖かく、非常に過ごしやすい気候をしていた。辺り一面、野花が咲くばかりの何もない原っぱで車いすを押す。そこに座るのは、記憶の中にある姿よりも瘦せ細り、髪からも肌からも艶をなくしたオスクリタ殿下だった。


「君が来るとは思ってもみなかった」

「殿下がわたしを呼び寄せたわけではなかったのですね」

「多忙な聖女を呼び寄せるなんて不敬な真似ができるわけがないだろう。私は、王族といえども王位継承権を放棄した王兄だ。いくら余命一ヵ月だとしても、大聖女を呼び寄せることができるような身分ではない」


オスクリタ殿下はわたしとの婚約破棄の後、弟である第二王子殿下に王位を譲られた。以降、独身を貫かれていることは、貴族事情に疎いわたしでもさすがに知っている。


「私は無責任にも王位を弟に譲った。先に生まれたのは私だが、魔力にしろ頭脳にしろ、私と弟の間に目立った差はない。どちらが王位を継いだところで、国にとって然程違いはなかっただろう」

「罪を犯した自身では王には相応しくないと思われましたか」

「罪とは思っていないよ、君と違ってね。ただ、君以外の者に愛情を抱くことは難しく、後継を作ることはできないと思ったから、王位は弟に譲ったんだ」


オスクリタ殿下は過失で人を殺めたわたしの咎を覆い隠すことに何の後ろめたさもない。なんて身勝手な人だろう。わたしはうら若き乙女だったころ、平民のわたしにも優しい殿下のことを公明正大な王子だと敬愛していた。しかし、年を重ね世間というものを知ってからは、殿下は公明正大とは真逆で、愛する者に過分な施しを与える人なのだと分かってしまった。権力を持つ王族としては浅慮な思考だ、憎しみすら感じる。けれど、未だに殿下にとって自分が特別な存在であるということに胸が高鳴ってしまうわたしは、殿下よりもずっと愚かだ。


「殿下に、ずっと聞きたかったことがあるんです」

「なんだい?」

「わたしの罪を隠した理由は、わたしの光魔法を活用するためだけですか?」


殿下のつむじを見下ろしながら問いかける。真っ直ぐに前を向く殿下の表情は分からない。殿下も、わたしが泣くのを堪えるために眉を顰めているのは分からないだろう。


「真実を語ってルーチェに嫌われるのは嫌だなぁ」

「ご安心ください。真実を語っても語らなくても、殿下のことは既に軽蔑しています」

「何も安心できないよ。でも、そうか、今更……だよね。とっくに私の軽薄さには気づいているか」

「ええ。わたしはもう、殿下の知る無知で純粋で、綺麗なだけの聖女ではありませんので」


そうか、と返事をする声が震えていた。殿下はわたしが温室の中で冬の寒さなど知らずに生涯を終えるか弱い花のような存在であることを望んでいた。苦しみなど知らず、世の中の綺麗に取り繕った上辺だけを信じて生きればいいのだと思っていたのだろう。そんな殿下の願いを踏みにじり、わたしは人を救う過程で世の中のあらゆる汚い部分を直視した。死んだ方が世のためになるのでは、なんて思うような人まで助けた。殿下と共にあった頃、わたしは全ての人は救われるべきなのだと信じていた。今は、そんな綺麗事を心の底から信じることが難しい。それでも、どんな悪人であっても、いつか他の誰かを救う日があるかもしれないなんて奇跡に縋って、手が届く全ての人を助けてここまで来た。きっと、今のわたしは殿下が望んでいたわたしではない。


「過失で人を殺めたのだと知れば、君は私の下から離れてしまうと思った。ルーチェと共にいたかったから真相を隠そうとした」

「そのために、遺族の方々にも圧をかけたのですね」

「結果として、私が思っていた以上にアクア嬢は感情が豊かだったから、上手くいかなったけれどね」

「……最低ですね。自分の望みのためならば、誰を傷つけても構わないと思っていたんですか?」

「そうだよ。私はそういう人間なんだ。それを知られればルーチェに嫌われると分かっていたから、隠しておきたかった」


日が傾き始め、風もでてきたので少し肌寒くなってきた。私は平気だが、殿下はあまり身体を冷やさない方が良いだろう。無言で来た道を戻り始めた。

殿下の言葉は概ね予想通りだった。動揺はないが、殿下の口から身勝手な論理を聞くと、やはり共に支え合う道はなかったな、と改めて実感する。


「私は殿下のやり方が嫌いです。他人を踏みにじって幸せになろうとする姿勢には共感できません。殿下も、わたしが自分の身を削ってまで他人を救うことを良くは思っていないのでしょう?」

「ああ。もしも私に力があれば、君を聖女の地位から退かせて、何の危険もない場所でのんびり過ごすだけの日々を与えたかった」

「わたしはそんな日々を望みません。あの事故がなくとも同じです」

「君はそういう人だルーチェ。自分とは真逆の高潔さに私は惹かれた。けれど、私たちは相容れないモノなのだろうな」


夕暮れ時の空はオレンジ色と紫に染まっていた。全く違う色がお互いを損なうことなく美しく空を染め上げている。わたしと殿下もこんな風になれたら良かったのに。同じになれないことを認め合って、それでも共に生きる道を見つけられたなら、きっと一緒に生きることができただろう。でも、わたしも殿下も、譲ることができなかった。


「考えは全く違うのに、頑固なところだけは同じですね」

「そうだな。もっと柔軟に生きられたなら楽だったな、お互いに」


違う自分を空想することがある。わたしがもっと狡く生きられる性格だったなら、事故の真相を知っても殿下の隣にいられたし、殿下の病気にもっと早く気が付いて助けることができたはずだ。数十年先まで一緒にいられただろう。幸せな人生だ。そんな人生をおくってみたかったと思うが、それ以上に無辜の民を踏みにじって己の欲望を叶えるなど、死んでも御免だとも思う。

同じように、殿下も違う自分を空想することがあるのだろうか。わたしの罪を詳らかにして、それでもなお共に逆境を乗り越えようとする人生を。しかし、わたしに苦行を強いるくらいなら他人を犠牲にしようと身勝手に献身を捧げてしまうのだろう。

ああ、全く。真逆なのに、似たくないところだけ似てしまうものだ。




夕食のあと、すぐに殿下はベッドに横になる。食事をすることさえ一苦労だ。生命として既に終わりが見えている。


「王族の終の棲家にしては、些か質素すぎませんか」


ここに来てからずっと抱えていた疑問を投げかける。この屋敷にはわたしと殿下の他には、医師が一人、年老いた執事が一人、それから通いのメイドが二人しかいない。その少人数でも賄える程度に屋敷は小さく、とてもじゃないが死の間際の王族が住む場所とは思えない。

うつらうつらとしていた殿下は、微睡んだ瞳のままわたしを見上げた。


「虐げられていたわけではない。王宮で最高峰の治療を受けよという両親と弟の言葉を押し切って、静かな田舎で最期のときを過ごしたいと私が望んだ」

「どうして?」


静かな土地で身体を休めることで治る病気もある。だが、殿下の場合はそんな段階ではなく、多くの医師の手で最善を尽くすことで命を長らえさせることはできれども、田舎で過ごすことで寿命が延びることはないだろう。


「私は、王と王妃の間に生まれた最初の王子で、自分で言うのもなんだが王となるのに魔力も頭脳も申し分なかった。弟も同じく王と王妃の子どもで能力に大きな差異はなく、民のためにこの国に尽くす気概はあるが、そのために兄を押しのけるような野心はない。わざわざ対立することなく、長兄である私が王位を継ぐことがこの国に置いて最も平和な選択だった」

「そうですね。誰もが、殿下が王になることで平和な世が続くのだと考えておりました」

「ああ、私が王になることに何一つ大きな問題はなかった。ただ、私自身が国のためにこの身を捧げようと思うほどの献身もなく、かといって民草を踏み台に豪奢な生活をおくりたいというような野心も持ち合わせていなかったのだ。本当は、身の程にあった慎ましい生活を愛する人と共に過ごしたいなんて、凡庸な願いだけを抱いていた」

「それは、王となる人でなければ、とても素敵な願いですね」


この屋敷には本業の料理人なんていないから、出てくる食事はメイドかわたしが作った平民が食べるような料理だ。食材だってこの辺でとれる野菜や家畜の肉だから、味は王宮で出ていた料理と比べるまでもない。けれど、殿下は今まで文句の一つつけたことはない。

屋敷自体だって、いくら手狭でも手入れが行き届いていない場所だってある。それでも、殿下が不満そうにすることはなかった。

王族であるのに、こんな不自由な暮らしに不満を抱いていないのだ。殿下はずっと、豪奢でありつつも常に張り詰めた緊張感のある暮らしより、足りぬものがあっても自身の好きなように振る舞える生活を望んでいた。


「私にとって、ルーチェはそんな生活の象徴のように感じられたのだ」

「だから、私を愛してくださったのですか?」

「きっかけは、きっとそうだった」

「そうですか。ええ……わたしが、聖女でなかったのならば、こんな普通の生活を望むことができたのでしょう」


大きな災いにも戦禍にも巻き込まれることなく、自分と殿下の生活を整えるためだけに働いて、余った時間は二人で栓無きことを語り合い、平穏無事に一日を終える。刺激もなく、けれど不幸もない退屈で豊かな毎日。とても、満たされたモノだと思う。贅沢だとも思う。それでも、こんな日々を自分の人生にするわけにはいかないという使命感もあるのだ。


「わたしは、自身に与えられた光魔法を無辜の民のために使わなければいけないと思うのです。わたしに力がなかったのならば、ただ愛する人のためだけに生きたいと思ったのでしょう」

「君は聖女で、私は王子だった。お互いにこんな立場がなければ、こうやって無為に日々を過ごす未来があったかもしれないね」

「でも、そうではなかった。それに、もしもわたしが聖女じゃなくて、貴方が王子でなかったのならば、わたしたちは出会わなかったでしょう」

「どう転んだって、こうやって穏やかに生きる道なんてなかったってことか」


殿下は笑う。その笑顔があまりにも無邪気で清々しいものだから、掛け違ったボタンのように不格好でみっともないわたしと殿下の関係が、微笑ましいものだと錯覚してしまいそうになる。どんな風に間違いを正したのだとしても、お互いを自分の人生から排斥する以外の方法がなかったのだと分かっているのに、共に生きる道があったのではないかと在りもしない幻想に縋りたくなってしまう。




「君は看取る相手が私だと知ったら帰ってしまうと思っていたよ」


わたしがここに来てから三週間が経ち、殿下は起きている時間よりも寝ている時間の方が長くなった。今もベッドに横たわったまま、一言話すだけで苦しそうに眉を顰めている。光魔法で痛みを取ってやれば表情が少しだけ和らいだ。殿下の身体はもはやわたしの魔法でも治せないところまで来ている。わたしにできることは、こうやって痛みや苦しみを取り除いてあげるくらいだ。


「すまない。……ルーチェが私のことを憎んでいるにしろ、まだ愛してくれているにしろ、私とは一緒にいたくないだろう」

「……そうですね。少し前までのわたしならば、帰っていたと思います」


わたしが愛する人の最期に立ち会うなど、都合の良いことは起こってはいけないと思ったはずだ。看取る相手が殿下だと分かった瞬間に教会へ帰り、一ヵ月後に殿下の訃報を聞いて最期の時を共に過ごせなかったことに涙を流し、その痛みを自業自得だと飲み込んだことだろう。


「心境の変化は何に寄るモノかな」

「アマランサス様……いえ、アマランサス公爵にお会いしました」

「彼が、君に会ったのか」

「ええ。アクア様へのお目通りは叶いませんでしたが」


事実を知ったあと、わたしは遺族への謝罪を行った。自己満足でしかないと分かっていたが、だからといって何もなかったようにはできなかった。カクタス子爵家の方も、ブルースター男爵家の方も、わたしに思うところはありつつも『あの子が自分で選択したことだから』とわたしのことを責めなかった。ご家族もお二人に似ていて、罪悪感が強くなった。

そんな中で、アマランサス様とアクア様はわたしと顔を合わせることを拒否した。お気持ちは重々承知しているので、無理に会うことはせず、それでも定期的に同じ申し入れをしていた。その申し入れを飲んでもらえたのは一年前のことだ。

招かれた王都にあるアマランサス公爵邸の応接室にいたのは公爵位を継いだアマランサス様だけだった。夜会の様子を思えば仕方のないことだと思い、わたしはアクア様のことには触れずに謝罪の言葉を口にした。静かに聞いていたフレッド様は首を横に振った。


「『カローレやペシェ殿が生きていればと今でも考えます。あんなことさえなければと貴女を恨んでいます。けれど、貴女が多くの人を助けたことを知っています。その苦労が報われてほしいとも、思っているのです。私たちはあの事故を許せません。しかし、貴女自身は貴女を許してあげてください』アマランサス公爵は、そう仰られました」

「強い、な」

「ええ、とても強く、優しい人です」


そのあと、『アクアも同じ気持ちです。しかし、貴女に会えば何を言ってしまうか分からないから同席はできないと言っていました。非礼をお詫びします』と頭を下げられた。謝る必要はない、頭を上げてほしいと懇願してやっと再び向き合うことができた。真正面から見たフレッド様の瞳は相変わらず冷ややかな深い青色をしていたが、目尻に以前はなかった細かな皺が見て取れた。彼は跡が残ってしまうほど笑って過ごしているのだろうか。そうだったら良い、それくらい幸せに過ごされているなら、わたしはわたしを少しだけ許せるかもしれないと思った。


「だから、わたしは殿下の最期までご一緒しようと思ったのです」

「君が君自身を許したから?」

「そうです、わたしがわたしを許したから、こうして傍にいます」


殿下はくしゃりと不格好に笑った。口角は上がっているのに、眉尻は下がり瞳には涙が滲んでいて、泣き出す寸前にも見える。婚約破棄を告げたときと同じ顔だな、と思った。


「私は、いつ死んでも構わなかったんだ。だから、少し体調が悪いと感じていたのに放置して、周りが私の不調に気づいたときには既に手遅れだった。余命を宣告されても、恐怖も絶望もなかった。いや、やっと終わるのだと安堵すらしていた。ルーチェがいない人生に、なんの意味もなかったから」


わたしは何も答えず、ただ殿下の手を握った。冷たくて記憶にあるよりも細く骨ばっている指。握り返してくる力はあまりにも弱弱しい。


「それなのに、君が来てくれた。あまつさえ、こんな私にまだ思いを残してくれている。一日でも一時間でも、一分一秒でもいい、もっと長く君といたい。まだ……死にたくない」


堪えきれなくなった涙が殿下の頬を伝う。わたしも全く同じ思いだった。『死なないで、もっと一緒にいて』と縋りたかった。だけど、それで殿下がどう思うのか分からない。同じ気持ちであることを嬉しく感じてくれるのか、それともわたしが悲しむことでもっと苦しんでしまうのか。

分からないから言葉にはできなくて、ただ今でもわたしがどれほど殿下を思っているのか、それだけが伝わればいいと繋いだ手に力を込めた。




一ヵ月とそれから数日。なんとか持ちこたえていた殿下の命の灯も、とうとう尽きようとしていた。もはや、痛みさえまともに享受できなくなっている殿下に、わたしがしてあげられることは何もなかった。


「殿下、オスクリタ様、貴方は王子として生まれなければ、きっと幸せになれたのでしょうね。身勝手なところはあったけれど、そんな人間がごまんといることくらい、もうわたしは知っているんですよ」


殿下はひゅうひゅうとか細く苦しげな呼吸を繰り返すばかりで何の返答もない。わたしの言葉を聞いているのかどうかすら怪しい。それでも、わたしは語りかけ続ける。これは自己満足だ。あの事故への謝罪と同じ。ただ、わたしの気持ちを押し付けるだけの行為だ。


「もしも貴方がただの平民で、わたしにもなんの力もなかったのなら、あんな他人を踏みにじる真似をしなくても一緒にいられたはずです。それでも多少の困難はあるでしょうね、貴方はきっとちょっとだけ狡いことをするんです。だけど、わたしは見逃してあげます。そうしないといけないときもあるって、わたしは知っていますから。もう、あの頃の清廉潔白なわたしじゃないから」


じわじわと視界が滲んでいく。殿下の最期の姿をこの眼に焼き付けておきたいと思うのに、これじゃあいけない。乱暴に目元を拭うものの、後から後から流れてくる涙に邪魔をされてどうにもならなかった。


「オスクリタ様、好き、大好きです、ずっと愛していました。今もこれからも、変わりません、貴方だけを愛しているんです」


子どもみたいにしゃくりあげながら泣いた。こんな風に泣くのはいつ以来だろう。少なくとも、殿下と離れてからは涙を流した覚えはない。聖女に選ばれて王宮に連れてこられたばかりの頃はこうやって泣いてばかりだったのに。隠れて泣くわたしを殿下は毎回みつけて慰めてくれた。


「泣か、ないでくれ、ルーチェ。私は、君のなみだによわい」


震える手が私の頬をなぞった。その手はすぐに力を失い、ぽすりとベッドに落ちていく。殿下は先ほどまで閉じていた瞳を開いていたが、視線は虚ろに空中をさ迷っており、意識はあまりはっきりしていないようだった。それでも、わたしの泣き声を聞いて一旦持ち直してくれたのだろう。


「貴方は、いつだってわたしを守ろうとしてくださるのですね」

「ルーチェ、泣かないで。私が、そばにいてあげるから」


きっと、もうわたしの言葉はちゃんと届いていない。かみ合わない、けれどわたしを慮ってくれる言葉。

椅子から腰を持ち上げて、そっと殿下の唇に自身の唇を落とした。荒い呼吸をする渇いてひび割れた殿下の唇とぎゅっと引き結んだままのわたしの唇。色気なんて分からず、ただ押し当てただけの不格好なキスをした。


「オスクリタ様は順序を守りわたしを大切にしてくださったから、これが初めてのキスですね。そして、わたしにとっても、オスクリタ様にとっても最後のキスです」


ぱたぱたと殿下のお顔にわたしの涙が降り注ぐ。殿下は瞳を閉じてしまった。呼吸の間隔が長くなり、浅くなっていく。


「来世は、何も知らないまま、何のしがらみもない身分でもう一度出会いましょう。わたしは絶対にまたオスクリタ様に惹かれるし、貴方もきっとわたしを愛してくれるのでしょう? そうして、今度は貴方の方からもっと上手なキスをしてください」


たぶん、殿下にはわたしの声は届いていない。だから、錯覚だと思うのだけれど、殿下は少しだけ口角を上げられて、そして息を引き取った。


後世において、もしかするとわたしの功績は英雄譚として語られているかもしれない。または、わたしと殿下の婚約破棄を悲恋として歌劇にされるかも。もしくは、恋に狂った愚かな聖女と王子がいたなんて喜劇にされるか。なんだっていい、誰にどう評価されても構わない。わたしは、今、救えるだけの人を救うだけだ。万が一、来世なんてものがあるのならば、記憶なんて持たずに一からオスクリタ様と恋をしてみたい。


わたしはこの世界の主人公ではないので、めでたしめでたしなんて終わらせることはできない。今日もどこかで誰かが悲しんでいる。そんな誰かを助けながら、わたしは身勝手で平凡な感性を持った彼に思いを馳せるのだ。

来世のオスクリタ様と、ついでに許されるのならばわたしが、幸せな人生をおくれますように。そんな、不確かな祈りを捧げながら、わたしは今日も聖女として一日を全うするのであった。


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