11.星空の下で Ⅲ
再び切迫した状況に置かれていたためか、あたしは妙な夢を見た。
森の中、泉のほとり。
周囲には、小さな何かが水面を打つ音が、一定間隔で響いている。
あたしの手前には、青年が一人…顔はおろか頭部すら見えないほど深く、泉の水面を覗き込んでいる。見えるのは、泥で汚れた背中だけ。青年とは言ったけど、年齢も定かではない。
一定間隔で聴こえる雫の音は、きっとこの青年の涙がこぼれる音だと、あたしは思った。
彼の幼い頃の姿など知らない。だけどなんとなく、この青年は彼なのではないかと感じた。
「……レデヤ君?」
名前を呼ぶと、夢から覚めてしまった。
周囲はもちろん泉のほとりなどではなく、暗い洞窟内。だが未だに夢の中と変わらず、夢で聴いたものと同じ、水が岩肌を打つ音が耳朶を打っている。寝入る前は気にならなかったが、どこかで水が滴っているらしい。
鉱石のわずかな光源を頼りに、周囲にいるはずのレデヤ君を探す。
彼はあたしから目を離し、入口の穴を背で覆うように腰を下ろしていた。
「……エナ、起きた?」
体を起こすと、体に布のようなものがかけられていることに気付いた。レデヤ君の服だろうか。地面に落ちて汚れないよう、すぐにそれを腕で掬い上げる。
次に足を動かそうとすると、ぴりぴりと痺れが襲ってきた。硬い地面の上に寝ていたから、血流が止まってしまったのだろう。それも、靴を履いたまま……
そこであたしは、ようやくあることを思い出す。
「そうだ…! レデヤ君、ごめん、せっかく買ってもらったあの靴、シレンさんの家に置いてきたまんまだ」
彼があの〝小人印の靴屋〟で買ってきてくれた靴のことだ。シレンさんの家から逃げ出す時に、そのまま置いてきてしまっている。
元はといえば、あたしがあの靴をあの場所に置いていたから、こうやってまた逃亡する羽目になっているのだ。そのことを考えると、段々と二人への申し訳なさが沸き起こってきた。
まあ、マゾ男は戦えて楽しそうにしていたけど、レデヤ君は……。
体の不調や寝不足もあってか、ネガティブな思考が加速していく。
だが、当の本人は嬉しそうに頬を綻ばせていた。
「エナは…おれのプレゼントを一々覚えてくれてるんだな」
「えっ? そ、そりゃあね……」
靴の件に関しては直近だし、忘れたくても忘れようがない。二人はどうだか知らないが、靴を見る度、彼とマゾ男とで騒ぎながら靴選びをしたあの光景を思い出すのだ。
そういえば、彼からはお店にいた時もプレゼントを貰っていた。それも、靴より遥かに高値な服であったり、アクセサリー類であったり服であったり……
一方的に金品を貰うのは、相手が異性でなくとも心苦しいものだ。彼には申し訳ないけれど、冒険に持っていけるようなものはなかったので、一式店に置いてきてしまっている。
そんなあたしの心情など知る由もなく、レデヤ君は「それなら、また新しいものをあげるよ」と張り切った様子だ。
……店の時と違って、今ならある程度は仲が深まっているし…ここで改めて断っておいても良いかもしれない。
「レデヤ君、あの……そんなにプレゼントしてくれなくてもいいんだよ?」
この閉鎖空間で異性に率直な意見を伝えるというのはなかなか緊張するもので、私は言葉を慎重に選びながら、恐る恐る切り出す。
だが、レデヤ君はこれまで接してきた他の男たちのように逆上することはなく、しおらしく肩を竦めた。
「……嫌だった?」
「嫌じゃないけど……あたし、お店の時からずっと貰ってたし、こんなに大金かけてもらうのは申し訳ないよ」
「気にしないで。端金だから」
「ンンン……で、でもさ……あーほら! 誕生日とかさ、記念日にしたほうが特別感があって良いと思うな。あたしもレデヤ君の誕生日にプレゼントするし―――」
「おれ、誕生日分かんないんだ」
屁理屈でも何でも捏ねて言い包めようとしていた思考が、突然止まった。
一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから「聞いてごめんね」とレデヤ君の謝る。だがやはり彼は気にしていないようで、「謝らないで」と微笑みながら返す。
だがその直後、感情の籠もっていない声で、こうぽつりと呟く。
「知らなくていいから、俺の過去なんて」
常にあたしのことを全肯定してくるレデヤ君からの初めての拒絶に、少し面食らう。
だがレデヤ君の方は、程なくしていつもの温和な態度に戻っていて、「これからの未来のほうが、大事だから」と言って微笑んだ。
これからの未来……その言葉を聞いて、また別の彼に知らせていないことを思い出す。
正直、こっちはなんとなく返事の想像がつくけど……念のために返事を聞いておかなければならない。
「レデヤ君、もう一つ言い忘れてたけど……騎士団支部であたしのこと助けてくれたでしょう。あれのせいで、レデヤ君まで指名手配までされてるみたいの。あたしと一緒に居たら、多分もっと罪が重くなる。今後のことを考えるなら、もう、あたしから離れたほうが良いんじゃないかなと……思う」
長大なあたしの言葉を聞き遂げてから、レデヤ君は返事をする。
今もなお、屈託のない笑顔はそのままだ。そしてその表情のまま放たれた言葉は、重く、仄暗いものだった。
「そんなの大した問題じゃないよ。おれは、ずっとエナの味方だ。エナを手放すくらいなら、おれは―――自分の命を捨てる」
最後の言葉を聞いて、あたしは息を呑む。
……案の定、聞くまでもなかった。多分、彼は今後何があろうとも、あたしを諦める選択肢なんて更々ない。
あたしのこの体質のせいで狂ってしまったのか、はたまた元々こういう気質の彼をあたしが引き寄せてしまったのか、どちらかは分からないけど……互いに素性を知らないというのに、この狂気的な実直さ。執念……それが好意とはいえ、やはり恐ろしさは拭えない。
正直、同じ空間に居るのもおっかないけど……今は離れられない。マゾ男が足止めをしてくれているであろうこの間で、最低限の休憩を取って、早く追っ手から距離を取らなければ……
それからあたしは、レデヤ君と見張りを交代した。
壁の鉱石の淡い光を眺めながら、あたしは今後の逃亡プランそっちのけで考える。
マゾ男のこともレデヤ君のことも知らないけど……あたしだって、彼らに素性を明かしていない。
旅を始める前のこと、出生のこと、転生した人間であること……迂闊に話せないことが大半だ。
今は知らなくていい。……今後も知る必要はないと思うけど。
それよりも今は今後の逃走経路をどうするかだ。
国外へ行くには、やはり別の港町から海路で侵入するのが早かったが、この数日の間にケプンハーンにまで騎士団の手が及んでいることを考えると難しいだろう。
その場しのぎで騎馬を置いてきてしまったが、これから徒歩で、しかも騎士団や賞金稼ぎから身を隠しつつ、国外まで向かうのは難しい。
マゾ男のことも……やっぱり気になる。あいつが負けるだろうという不安は一切ないけれど、このまま置き去りにしていくのは、なんだか……嫌だ。
もちろん、好きだからとかそういう感情では断じてない。まさかあんなのに情が移ってしまったのだろうか……
とはいえ、彼はあたしたちを逃がすために戦ってくれているのだから、今は逃げなければ。できるかどうかはともかく、合流はその後に回して―――
思案の最中。次第に視界が暗闇に慣れていき、あたしは視界の隅にあった〝あるもの〟に気付く。
「あれ……?」
レデヤ君が休んでいる横で、思わず声を出してしまう。
洞窟の隅、壁に沿って連なる石筍の向こうに、底に車輪がついた旅行用の大きな鞄が立てかけられていたのだ。外側が黒いので二人とも気付けなかったらしい。
前の世界で言うトランクのような見た目の鞄だ。だが、この世界にはこのような形状の鞄は流通していない。
付近に罠などが仕掛けられていないことを確かめてかは、レデヤ君を起こさぬよう忍び足で近付く。すると、その側面に見慣れた模様が彫られていることを発見する。
……それは魔具の模様だった。
用途は不明だが、これも魔具らしい。場所からして、意図して隠されているに違いない。
今後の逃走計画は行き詰まっている。折角だ、使えそうな魔具かどうか、中身を見てみようか―――そう思った矢先のことだった。
出入り口の穴の先から、荒い吐息を伴い、何かが這い寄ってくる音が聴こえてきたのだ。
追って、レデヤ君が身を起こす音がする。彼もこの音に気付いたのだろう。レデヤ君は手であたしを奥に隠れているように指示し、穴の隣に移動した。
そしてその音の主が穴から顔を出した瞬間、レデヤ君が首をひっ捕まえる。「ヒッ!」という情けない声を漏らして、それは地面に突っ伏す。というより、彼が地面に押し付けたようだった。
その音の主はマゾ男でもなければ、騎士団でもなかった。
「おっ…おたくら……誰ッスか……!?」