09.神の与えし試練 Ⅱ
再び目を覚ました私を襲ったのは、鼻の奥底にまで詰まった不快な磯の臭いだった。
覚醒したばかりで視界は霞んでいるが、先程おぼろげに見た光景とは異なる。また場所が移動したらしい。何度か瞬いた後に凝らすと、目の前に天井が見えた。あたしは今、屋内にいるらしい。
直後、すぐ真横で大きな物が軋む音がする。音から距離を取ろうと体を起こそうとするが、上体はおろか頭すらうまく動かせない。
部屋の光源がその音の発生源によって遮られ、あたしの顔に影が落ちる。そして視界に入ってきたのは、あたしを心配そうに覗き込む、若い女性の顔だった。
女性に興味がないあたしでも惚れ惚れしてしまうような、綺麗な人だった。だが見覚えは一切ない。
「だ、だれ……?」
返答はない。が、あたしの声に反応して、あたふたとしている。聞こえてはいるらしい。
「……お姉さん、もしかして喋れない?」
それに女性は頷く。それから懐に忍ばせていた手帳を取り出すと、慣れた様子でそれをめくって、この世界の言語で〝喋れません、声は聞こえます〟と記されたページをあたしに見やすい角度で翳してくれた。よく訊ねられるのだろう。
続けて「何があったの?」と訊ねると、そのすぐ次のページには既に答えが記されていた。
〝この海域は海難事故が多く、乗客の方が流れつくことが多いので、ここで見張りをしたり、家を貸したりしているんです〟
「あ、ありがとうございます……じゃあ、貴女が助けてくださったんですか?」
そう訊ねると、彼女はページを後ろのほうまで捲って、胸ポケットに納めていたペンをさらさらと紙に走らせた。返答を新たに書き加えているらしい。ということは、彼女ではないのだろう。
走り書きだが、しっかりと読み取れる綺麗な文字だった。
〝いえ、あちらの大きなほうの男性が〟
そしてあたしがその文字を読み切るちょうどのタイミングで、彼女はあたしのベッドの下方を指を差す。どうにか腕を動かし、上体を起こして指が示す方向を見てみると、そこにはソファで眠るマゾ男とレデヤ君、そしてまだあまり馴染みのない男性……恐らく、船の船長であろう人物がいた。彼も無事だったのなら良かった。
この中で大きなほうというとマゾ男だろう。あたしはまた彼に助けられてしまったらしい。
それから女性のほうに目を戻した拍子に、あたしは彼女の全身像を見ることになる。
彼女が腰を掛けていたのは、こちらの世界で作られている簡素な車椅子だった。簡素ではあるが、前の世界以上に値の張る高級品だ。
どうやら足も不自由らしい。そんな状態であたしたちに寝床を貸してくれているのか……
「お姉さん、お名前は?」
更に訊ねると、女性は一つ前のページに戻り〝シレン〟と書かれたページを見せてくれた。
それが彼女の名前なのだろう。「シレン……」と復唱する。
シレン……試練?
……か、彼女が……?
―――いやいや、まさか、神様?ともあろうものがそんなふざけた言葉遊びで試練を寄越してくるわけがない。しかも日本語だし……
あたしが当惑している間に、シレンさんは再びページをめくって、既に言葉がしたためられたページを見せてきた。
〝よろしければ、もう少し休んでいかれてください〟
「あ……ありがとうございます」
それに思わずすぐさま返答してしまったが、これ以上彼女に世話になってしまって良いものか……
悩んでいると、不意に部屋の中にノックの音が響く。
音の発生源を探ると、頭上に玄関と思しきドアが見えた。改めて見渡すとこの家は小屋のような小ささだ。玄関からベッドまでほとんど距離はない。
「あ……あたし出ますよ!」
まだぎこちないが、ある程度体も動くようになってきた。そう言って反射的に体を起こそうとすると、シレンさんにジェスチャーでまだ休んでいるよう制される。
それでもとこちらも彼女を制そうとするが、その直後ドアの向こうから聞こえてきた言葉で、彼女の言う通り、大人しく待っているべきだったと後悔する。
「真珠騎士団です」
扉の向こうにいる者が、騎士団を名乗ったのだ。
だがそれより―――真珠騎士団というと、この国の北部にある町に駐在している騎士団だったはずだ。となるとこの地点は、本来の目的地である砂漠の国とは真反対もいいところ。何だったらこの国で最も離れている町のはず―――最悪だ。
それより、顔を見られてはまずい。もし指名手配がこの町まで回っていたら終わりだ。
だが、周囲に隠れる場所がない。シーツにくるまろうかと思ったが、すぐには腕が動かず、その前に扉が開かれてしまった。
「シレン? こちらから開きますよ」
シレンさんが車椅子だと知っているのだろう。いやシレンさん応答できないんだから開けられるまで待てよ! 着替え中とかだったらどうすんだ―――
そうでも言って直前で止められれば良かったのだが、思いついたときにはもう遅かった。扉は開かれ、その向こうに甲冑姿の男性が複数顔を覗かせる。
貝殻と真珠の紋章があしらわれた鎧。まごうことなき真珠騎士団だ。
扉を開いたのは特に鎧が絢爛豪華な団長と思しき人物で、不躾にずかずかと部屋に踏み入ると―――あたしを見るや否や声を上げる。
「あ…貴女は……!!」
団長はすぐさま「見てくれ、君たち!!」と、背後の部下と思しき騎士たちを部屋へ呼び入れる。
頼みの綱のマゾ男も今回ばかりは疲弊しきっているらしく、彼らの大声を聞いても一切起きる様子がない。レデヤ君も同様だった。あたし一人で戦おうにも、体は動かないし、何より相手が多すぎる。
ああ、終わった―――
団長と思しき人物はベッドに駆け寄ると、あたしの肩を抱き、部下の騎士たちの前に突き出した。
「彼女こそが私を救ってくれた女性です!!」
「……は…?」




