01.女冒険者と戦闘狂男 Ⅲ
―――やっぱりコイツ、ヤバイ……!
今日も宿代が無駄になってしまったと思いながら、あたしはそっと窓際へ向かって後ずさる。
ふと、無残にも破壊されたドアが視界に入った。あぁそうだ、こいつを撒いた後にドアの弁償もしなければ……本人にさせたかったけど、そうもいかないだろう。
「どこへ行く?」
ほんの一瞬だけ目を離したその隙に、男が眼前にまで迫っていた。
「うわッ!!」
あたしは驚いて、反射的に受け流す。
すると彼は横転し、そのままあたしの背後の壁に突っ込んだ。
凄まじい炸裂音と共に、木造の壁が大破する。
原理は不明だが、この技は相手からの攻撃をそっくりそのまま返せるらしい。
壁へのダメージの入り方を見るに、彼は今の攻撃にそれなりの力を込めていたのだろうことが分かる。食らっていたらひとたまりもなかっただろう。
……どうやら、本当にあたしが強いと思っているらしい。
埃を巻き上げながら、男が壁から立ち上がる。
男は―――表情のなかった顔を驚喜の色に染めて、高らかに声を上げた。
「今の技、もう一度俺にぶつけろ!」
今まで絡んできた男たちは、大概がこちらを下に見ているような奴らばかりだった。だからあたしが反撃すると、激昂するか、驚いて逃げるかのどちらかだった。
……大喜びして、しかもアンコールしてくるヤツなんて、初めてだ。
冷や汗が滝のように流れ、皮膚は粟立ち、心臓が大きく跳ねた。
全身が警鐘を鳴らしている。
「このドM!!」
「何だ、エムって」
「殴られて喜ぶヤツのことだよ!」
こいつから、今すぐ逃げなくては―――
だが、足が竦んで動かない。数々の修羅場を乗り越えてきた。だけど、ここまでイレギュラーな変態は久々だった。
その間にも男は、先程の動きとは対照的に緩慢ではあったが、再びこちらへ歩み寄ってきていた。壁が大破するほどの衝撃を受けているにも関わらずだ。こいつ、本当に人間か?
「その武術の名を教えろ。師の名は? どこで、何時、何年師事した?」
中身のないウェブサイトのような、映画のタイトルのような質問を連ねるマゾ男。
もちろん、そんなこと答える訳がない。こんなのに迂闊に個人情報を漏らせば最後、一生付きまとわれるだろう。
それにこの武術の名はこちらも知らないのだ。そもそも覚えてすらいないものを教えられるわけもない。
「ま……まずはそっちが何者か名乗ってからでしょ!」
時間稼ぎのためにそう反論する。もちろん覚える気はさらさらないけれども。
男は馬鹿正直に「確かに」と声を上げ、ようやく名乗った。
「俺の名はアマゾルクだ」
「―――マゾじゃん!」
触れなければ良いものを、つい声を上げてしまう。
不本意ながら一発で名前を覚えてしまった。
「では、そちらも名を名乗れ」
促されるが、思わず開いてしまった口をぎゅっと噤んで、あたしは押し黙る。
部屋が静寂に包まれた。小さな木屑が落ちる音が聞こえるほどの静けさだった。
絶対に言うもんか。大丈夫、あたしの素性を知る人はごく僅かだ。それも、この土地には存在しない。知られることはまずない―――
「エナさん? すごい物音がしたけど大丈夫―――」
そんな言葉の後に「キャア!!」という可愛らしい叫び声が飛んできた。
声の方に目を向けると、破壊された扉の前で、この宿の女将さんが立ち尽くしていた。口元を手で覆い、ものの数分で変わり果てた部屋の様子に声を失っている。
女将さんが放った、エナという言葉。それが、この世界でのあたしの名前だった。
そんな女将さんを一瞥した後、マゾ男はほくそ笑む。
「……お前、エナか」
―――女将さんのバカ!! 身バレしちゃったじゃん! ドアはごめんなさい!!
その瞬間、あたしは弾かれるようにその場を駆け出した。
「女将さんスンマセン!! これ弁償金!!」
金貨が数十枚入った麻袋を女将さんに押し付け、あたしは宿を飛び出した。
有事のために普段から小分けにしている財産だ。弁償金に加えて過分に迷惑料が入っている。
予期せぬ形で次に向かう町が決まった。
先程地図で見た大都市。あそこだ。
騎士団にコイツを突き出す―――流石にここまで規格外な相手だと、あたしの手に負えない。取り合ってくれるかどうかは別として、人の多い場所へ出れば撒くこともできるだろう。
こうして、差し当たって平穏だったあたしの生活は終わりを告げた。
そして代わりに、永遠にも思えるほどの、長い長い逃亡劇が、幕を開けるのだった。