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――何だ?
感触は五本の指がある人間の手。
そして見れば、黒いもや、あるいは煙のようなものに見える大きな人間の腕の形をしたものが、日向の両肩をつかんでいた。
そして持ち上げようとしている。
――ええっ!
その時、目の前に腕と同じく黒いもやの塊が現れた。
それは明らかに男の顔だった。
黒くて瞳のない目が真っ白の、首だけの存在だ。
しかも瞳がないと言うのに、その表情からは殺意しか読み取れなかった。
――なんだこいつは。くそっ!
日向は思わず全身に力を入れた。
するとついさっきまで殺意しか感じなかった男の顔に、明確な驚きの色が現れた。
そして二本の腕とともに、あっという間に消えたのだ。
――なんだったんだ、今のは?
間違いなく日向を殺そうとしていた。
呆然としていた日向だが、ふとあることを思い出した。
それは一年ほど前、大学に入学して間がない日向が、できたばかりの友人から心霊スポットに誘われた時のことだ。
幽霊が出ると評判の廃墟に行ってみると、はっきり言って期待はしていなかったのだが、本当に出たのだ。
髪を振り乱した、まさに幽霊としか言いようのない怖い顔の女が。
その身体は宙に浮き、おまけに身体が半ば透けていて、後ろの壁が薄く見えていた。
友人は驚きのあまりに腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
日向は逃げようとしたが、付き合いは浅いが友人を見捨てるわけにもいかないと思い、その場にとどまった。
すると少し離れたところで浮いていた女が、一瞬にして日向の目の前に来た。
――どうしよう。
恐怖の中考えていた日向だったが、気づけば女の怖い顔が一変していた。
驚いたようなおびえたような顔になり、くるりと背を向けると、どこかへ去ってしまった。
その時日向は初めて、自分が全身に強く力を込めていたことに気がついた。
日向は力を抜くと、その場に座り込んだ。
友人がしばらく日向を見つめた後、よろよろと立ち上がって言った。
「おい、今の女、お前を見て逃げたように俺には見えたが」
日向が言った。
「俺もそう思う。自分が追い返したという自覚があるんだ」
そんなことがあってからほぼ一年。
この世のものでないものに再び襲われてしまったのだが、今回の奴も結局どこかに姿を消した。
――ひょっとしたら、俺には何か特別な力があるのか。
そう考えたが、特に霊感が強いというわけでもないし、その実感はまるでない。
ただ一年前と同じことになっている。
――疲れた……。
一年前も女がいなくなってから、気づけばまともに歩けないほどに疲れていたのだが、今回もそうだった。
日向は這うようにして部屋に戻り、そのままベッドに入って寝た。
また現れた。あれだ。
今回で二度目だ。
しかし今回は前回とは違う。
あれが途中でいなくなったのだ。
――えっ?
末藤は本気で驚いた。
あれの一部のそのまた一部とはいえ、あれを追い返すことができる人間がこの世に存在するなんて。
幼い頃からあれについてはいろいろと聞いてきたが、そんな話は全くなかったからだ。
あれに目をつけられた人間は必ず死ぬ。
たとえそれがあれの全体から見ればほこりのような小さなものであったとしても。
今、あれのごく一部だけが封印から逃れて動いている。
それは間違いのないことだ。
どうしてそんなことになってしまったのかはわからないが。それ以上にわからないのは、あれを追い返した人間だ。
わが一族の者でも入念な準備と神聖な道具、特に代々伝わる神魔の剣を使い、決死の覚悟の十人でようやく封印したと聞いたが。件の人間がなんだかの道具や強力な武器を使ったという様子はまるでない。
そんなものは全く感じることがなかった。
素の力だけで追い返したのだ。
――いったい何者だ。
末藤は考え、その人物に大いなる興味を持った。
場所はわかる。
おぼろげだが。
隣の県の市。
あれが初めて現れたのもそこだ。
――車で四時間くらいか。
末藤はとりあえず行ってみようと思った。
刈谷が寝ようとすると携帯が鳴った。
末藤からだ。
末藤からはあれの一部が封印を解いて八百年ぶりに活動を開始したと聞いたばかりだ。
刈谷は電話に出た。
「ああ末藤だ」
「どうした」
「それが、また動いた」
「あれがか。そうか、また誰か死んだな」
「いや、誰も死んではいない」
「えっ、どうして?」
「襲われた人間があれを追い返した」