妻の周りにいるものたち 妻が周りにおくものたち
そのようなことがあってから、それだけに関心を払ったり尋ねてみたりはしなかったけれども、横に座る妻の目線からおおよそこの家に隠れて棲んでいるものの在り方やかたちが辿れるようになってきた。
こちらとは違う隠れたものたちへの意識は、得体の知れないものへの怯えや或いは正反対の野次馬根性といった類のものではなく、ここの日常の安寧には不可欠なものの在りかを認める作法のような気がした。そう落ち着けてみたところで、シェアハウスの同居人ほど間の取れた平常心ではいられないから、毎日毎日、日常の様々な雑念は浮かんだくる。そんなモヤモヤが絡まりだしそうなときは、義父がいった女たちの血筋と「それが幸せだ」を何事につけ下の句に付けて収めていく。
ベッドの横にいる妻は、階上との隙間へと半分抜け出してひそひそ声をはじめた。寝息は聞こえるが眠ってはいない。噓をついているわけではないが、眞でないことは確かだ。
それも妻へと繋がるあの女たちの血筋がなしているのだから、それより先は踏む込まぬ。それにわずらわされるより、今夜ゆっくりと眠れることが幸せだ。
妻と義母はあまりは似ていない。似ているのはむしろ義父の方だ。顔立ちやものの言いよう、きっと、肌の湿り気まで似ているのだろう。見てはいないが、きっと毛穴の奥の汗の出る部位がそっくりななのだと思う。そして、それを毛嫌いしている節がある。
わたしも似たような節がある。ふたりの男の子のママ友やガールフレンドたちから、「ほーんと、お父さん似よね」と本人のいるところやいないところでたびたび言われる。そのたび、照れ隠しのように顎を引くのはそれもあるが、そればかりでなく不機嫌に変わりそうな顔を隠すためだ。それが分かっている。分かってはいるが何故そんな気持ちが起きるのかは分からない。自分の子どもが、それも目線の異なる周囲の女性みんなから好まれている男の子を近づける褒め言葉なのは分かっているのに。
そんなとき、女たちの血筋と「それが幸せだ」を下の句につける。雑念が形になる前のうねうねくねり始めたときに付ける。
妻とふたりの男の子、それをめぐる男の子や女の子ママ友たち皆んながただただ手を繋ぎ、ここから出れないようにわたしの周りを回っている。それもこれも妻の血筋、幸せとはそれより先は縁がない。
下の句はどんどん短くなり、作法は陳腐化していくが、雑念のうねりはますます複雑になり、大きく重くのしかかってくる。
この家に隠れて棲んでいるものの在り方やかたちを辿るのは、妻がそこに入いる作法のときだ。日常の動作を止めて、しばらくジぃーと無音の音を立ててから目当ての目線の先を潜るように入っていく。柔らかな立体だったかたちはほぐれて平面に変わる。
立体が崩れ平面に戻るとき、わたしはいつもその横に、ステージに立つスーパーモデルの羽織るオートクチュールが元の一枚布に戻っていく作業工程の巻き戻をを浮かべる。人工物のようなモデルの裸の身体からむしり取り、縫製やハサミがとおる前の一枚布に戻るまでの工程の巻き戻し。平面に戻った妻は、平面ばかりか全体の構成が線ではなく丸い点の集合体のような薄さを纏って、中へ入っていく。隠れて暮らすものたちの在り方もそうしたかたちのようで、入った先の奥行きは見とおせない。無音を聞きすまそうとするが、カサカサこそこその音よりほかは伝わってこない。
義母のいう「むかしからあの子は」のとおりであれば、妻はわたしより先にあのものたちをこの家に移したのだろう。いろいろ辿ってみても、わたしが新参者であるのは間違いない。義母はタイクズワリだのスケッチブックだの子供じみた単語を並べていたが、それはわたしが嫉妬で傷つかないための配慮のような気がする。妻がいつまでも夢見るだけの乙女でなく、正常に成長した女であることは、わたし一番よくわかっている。ふたりの男の子をつくった晩のことはいまでもはっきり身体が覚えている。妻は処女ではあったが、その後の女の成長は私たちの掌だけではない気がする。或いはそれ以前も含めて妻は様々な掌によって女を成長させてきたのだろうか。
オートクチュールの裁縫工程の巻き戻しと同じく、わたしは此処でいつも同じ状況を見ている。大きな肉感的なアオムシがサナギになって蝶々に変態するため己れの中をドロドロに溶かしている。青が黄色と赤に分離してふたたび混ざって茜色に変わる。顔料を調合するような味のない乾いた10秒くらいの映像が繰り返し繰り返し流れていく。
味のない乾いた映像に翻訳して見ているのは、自覚してる。義父の言葉を反芻しているうちに昇華したのだ。あの人のことだから、きっと帰り際にわたしの気づかない身体の辺りに小さな種をそっと埋め込んだのかもしれない。それだけ抵抗感なくなぞっていける。
妻と同じ肌の湿り気をもった人だもの。それくらの気配りをわたしにしてくれたはずだ。