6、調理実習
風呂掃除を終え、着替えてキッチンに戻ると18時くらいになっていた。この時間になると突然辺りは真っ暗になる。
17時までは比較的明るいが、17時半から急速に暗くなる。そして、18時には完全に真っ暗だ。どういう太陽の動きしてんだ。地動説もびっくりだよ。
そもそもこの世界の太陽をまだ見たことがない。この異界、もしかしたらこの森だけかもしれないが、空がずっと曇っているからだ。
湿気も強い。中国地方の日本海側みたいだ。
なので水回りの掃除は念入りにやるように言われてる。風呂、トイレ、キッチン。
トイレとキッチンはまだいい。トイレは10個もあるけどカビが生えることはないし、キッチンは使うとこだけ洗えばよい。
問題は風呂だ。この屋敷の地下にあるお風呂。一般家庭のそれと比べると大きいので風呂と言うより大浴場に近い。
まず床が大理石だし、シャワーが五つもあるし、浴槽が広い。健康ランドくらいある。
さあ、フィリスも俺も毎日使用するこの大浴場。誰がどのようにして湯を張っているのかは謎だが、夜になると勝手に浴槽がお湯で満ちて、朝になると勝手にお湯が引いていく。
フィリス曰く
「この風呂は生きている。私の自動清潔魔術も効かん。だからここは念入りに洗え」
とのこと。
この屋敷の大部分は常にピカピカだが、風呂は別らしい。放っておけばカビが生えるし、入浴すれば垢が付く。
フィリスが言うには
「最悪、お前はここだけ洗えば良い。他は毎日じゃなくても良いが、風呂は毎日洗え」
らしい。
だから2~3時間くらいはしっかり洗う。床、浴槽を業務用の電動ブラシと洗剤を使ってくまなく洗う。
15時くらいから始めたからちょうど18時には終わった訳だ。
服が濡れたのであらかじめ持ってきた服に着替え、濡れた服は浴場の隣の部屋の洗濯籠に置く。コインランドリーみたいな部屋で計8台の洗濯機が並んでおり、奥には乾燥室もある。洗濯はフィリスがやってくれるようだ。
さすが家事もできる屋敷の主だ。俺が来るまでは浴場の掃除も一人でやっていたんだからな。
一階に上がり、キッチンに向かうとフィリスが腕組みをして待っていた。
「早いっすね。睡眠時間足りてるんですか?」
「ふん。私を舐めるなよ。日光さえなければ一か月でも起きれるわ!」
「へ、へぇ~」
やっぱり吸血鬼じゃないか。隠してんのか?隠してる様子もないんだよなぁ。
ここは思い切って聞いてみようかな。
「フィリスさんって……」
「ん?何だ?」
「す、好きな食べ物とかあるんですか!」
聞けないわ~。地雷が怖くて聞けないわ~。
魔法使ってんのも目の前で見たし、皮膚以外で日光に弱いのも公言してるけど、「吸血鬼」って言ったら激昂してくる可能性もある。
言いずらいよ~。
「食に興味がないからないな」
「逆に嫌いなものは?」
「どうだろうな……あ、にんにくが嫌いだ。臭いがきつくてな」
わかりやすい!すごいオーソドックスな吸血鬼だ。
「わかりました……それじゃあ始めましょうか」
「ああ、今日は何を作るんだ?」
「生姜焼きを作ろうと思います。フィリスさんが買ってきた食材で、本に載っているやつだったらそれくらいしかできないですね」
生姜焼きだったら家庭科の授業で作ったことがある。キャベツの千切りと、お皿洗いしかしてないけど。俺はあんまりやる気がなかったので調理自体は得意なやつに任せきりだったな。
家での食事は母親が全部作ってたし、俺は料理なんてしたことない。だから、俺も料理初心者だ。
まぁ、でもこれくらいなら俺でも作れそうだ。
「生姜焼きか、どれどれ。なんだ結構簡単じゃないか。私が作ったムルビィズより簡単だぞ」
「なんですかそれ」
「お前に食わせたやつだ。魔術を使ったゆえ、さすがに現世の者じゃ耐えられなかったがな」
あれ料理だったんだ。確かに久しぶりに作ったとか言ってたな。フィリスが適当に作った創作料理だと思ってた。
「料理しないのになんでその本買ったんですか?」
「ああ?その本は私のではないぞ」
「え?」
「それは以前ここに迷い込んだ者が置いてった本だ。あいつの料理は一番うまかったな」
「へー、その人はどうやって帰る場所を見つけたんですか?」
「……どうだったかな。忘れてしまったよ。さぁ、作ろうではないか。お前も腹が減っただろう?」
「そうですね」
話を逸らされた気がする。もしかして故人だったりするんだろうか。
もしかしたら、帰るべき場所など存在せず、フィリスに血を吸われて死んでいたりして。
……やめよう。自分を無駄に不安にさせていいことなどない。
そんなことより料理だ。目の前のことに集中しよう。
「まずキャベツを千切りにしましょうか」
ビニール袋から取り出したキャベツは大玉で青々としている。
まな板に乗せて、包丁で半分に切る。もちろん、まな板も包丁も水で洗ってある。そうそう、この屋敷は水道も通っている。原理?知らん。
半分になったキャベツはフィリスに渡す。えーそして、短い間隔で切る?うまく切れないな。料理が上手い人は慣れた手つきでリズミカルに切っているけど……。俺は意外と不器用なのかもしれない。
調理実習の時はどうやって切ったんだっけ?
「ほれほれ。遅いぞ紀葉人。どうした?」
フィリスの目の前でキャベツは縦に細長く切れていく。そのスピードは俺の母親より速い。
しかし、フィリスは包丁を握っていない。あの手の形は……手刀だ。手刀でキャベツを千切りにしてるよこの人!
「ええ……ちょ、ずるくないですか」
「何がずるいんだ?私は使い慣れてる方を使っているだけだ」
「まな板も切れてますよ」
「何、これくらいいつものことよ」
「物は大切にしてください」
山盛りになったキャベツの千切りを脇にどかして、たれを作っていく。
ちなみに、今回はフィリスと俺で二人分作ると量が多くなるので、互いに作ったものを相手が食べることになった。つまり俺は結局フィリスの料理を食べるのだ。不安で仕方ないが本に載ってることをやるだけだから大丈夫だろう。
たれはすりおろし生姜、醤油、砂糖、酒を分量通りに混ぜて作る。すりおろし生姜はないので生姜チューブを使う。至極簡単、千切りより簡単。
分量通り混ぜることに大差はないが、よくできたと思う。
「やるではないか、紀葉人よ。だが、遅いぞ。」
こちらが慎重に調味料を計っている間にフィリスはフライパンで調理していた。はやっ!実際に焼き始めるまで2工程あったこうな気がするが。
「本ちゃんと読みました?」
「読んださ。私は読書家だぞ?」
「不安だなー」
「安心しろ。前回のようにはならんさ」
フィリスはガス台を使っていない。無から炎を出してそこにフライパンの下を当てている。
魔法ずるーい。俺も無から炎出してみたい。
フィリスは大分先の工程に取り掛かっているが、焦ることはない。料理対決じゃないし。ゆっくり自分のペースで進めればいい。
たれの作成の次は豚ロースに薄力粉をまぶす。そう、白い粉。
袋が未開封なのでフィリスが薄力粉を使っていないことが判明した。本当に読んだ?それか独自のアレンジを加えているかだ。
程よい厚みの豚ロースをボウルに入れて、薄力粉をまぶす。その様は雪が積もるようで……あんまり綺麗でもない。所詮は肉だし。
肉を裏返してまんべんなく白くしたら、今度はフライパンの準備をする。油をひいて、中火でしばらく温めたフライパンに肉を敷く。
弾けるような音が台所に鳴り響く。ちょっと油を多めに入れすぎたかな。
たれを投入して、炒め合わせたら生姜焼きの出来上がり。
キャベツの千切りを平たい更に盛り付けてその上に熱々の生姜焼きを置く。初めてにしては中々の出来じゃないだろうか。ちょっと肉が焦げてるけど。
「ほーう。良いではないか。見栄えは結構」
「うおっ!ありがとうございます」
背後からフィリスがぬっと出てきた。フィリスは俺が焼き始める頃には既に完成していて、ダイニング(長机の部屋)で白米や箸の準備をしていた。
完成したことはわかっていたが、集中していたのでまだフィリスの生姜焼きは見ていない。
「それではその皿をダイニングまで持ってこい。もう食べる準備はできている」
「はーい」
皿洗いはまた後でやるとして、俺とフィリスはダイニングへと向かった。
長いテーブルの上にはお椀に盛られた白米と、ひじき、お味噌汁と紫色のオーラを纏った豚ロースが配膳されていた。豚ロースがあるのは俺の席、最初の日に座って以来定位置になった俺の席。
「これは……何ですか?」
「ははは。ククルビタシンを加える魔術を使ったんだが、少し失敗してな。見た目が悪くなってしまった。味は保証しよう」
「なんですか、くくるびたしん?また食べた瞬間失神するなんて嫌ですよ」
「大丈夫だ。今回はほぼあの本の通りに作ったからな」
その”ほぼ”が問題なんだよなぁ。
俺が作ったポークジンジャーを向かい側の席に置いて手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
まずは味噌汁から。この味噌汁はビニール袋に入っていたインスタントの味噌汁だ。具材はわかめオンリー。インスタントの味噌汁は飲んだことがなかったが、うん、中々いける。母の味よりしょっぱいけど悪くない。
次にひじき、夕食に海藻が二品並ぶのは珍しい方だと思う。毎日食べてるので味は省略。
さて、最後に生姜焼きだ。現世では何を間違っても食物がオーラを纏うことはない。しかし、異界では魔術の失敗により生姜焼きが強者のようなオーラを纏うことがある。
箸はオーラを突き抜けて物体を掴んだ。
「うまい!うまいぞ紀葉人!やるではないか!」
フィリスは俺の生姜焼きを褒めてくれている。自分が作ったものを喜んでくれるのは、うれしいな。
モチベーションが上がるというのはこういうことなんだろう。もっと作りたい。
俺は意を決して生姜焼きを食べた。
「んむぅっ」
苦味が脳天を突き抜けた。
にっっっが~~い。苦い苦い。奥に生姜焼きを感じるけどすごく苦い。100倍濃縮ゴーヤくらい苦い。苦味が口の中でオーバードライブしてる。
すごい。苦味を感じた口の中が唾液を分泌してるのがわかる。唾液線がきりきり痛い。
肉を噛まずに水と一緒に呑み込む。マンガ盛りの白米をかき込んでもまだ苦い。舌に纏わりつくように苦味が残っている。口の中が紫のオーラでいっぱいになってる気がする。
「ははは。言っただろう?不味いのは見た目だけだと」
フィリスは俺が白米をかき込むのを見て勘違いしているようだ。見た目以上の不味さを与えておいてよく笑ってられるな。
白米が底をつく頃にようやく、苦味が引いてきた。
「はぁ……はぁ……フィリスさん」
「どうした?」
「すごい苦くて……不味いです」
フィリスは頬を搔きながら苦笑いをした。
料理、実食、そして最後に後片付け。すべてを終えて調理実習だ。
キッチンの流し台を泡まみれにして皿を洗いまくる。特にフライパンが厄介だ。油がこびりついて取れない。
フィリスは流し台の清掃をしている。いつも俺に清掃の命令をしているばかりなので自ら動く姿は珍しい。
「フィリスさん」
「なんだ?まだ苦いか?」
「いえ……そっちはもう大丈夫です。聞きたいことがあるんですが、いいですか?」
「いいだろう。言ってみろ」
「フィリスさんって吸血鬼なんですか?」
聞くなら今しかないと思った。別に吸血鬼だろうが何だろうが今後、フィリスとの生活に支障はないかもしれない。だが、知っておきたい。些細なもやもやをなくしておきたい。
さあ、どう出る?
「なぜ、そう思ったんだ?」
「日光に弱いし、魔法使うし……」
「私のベッドが棺なこともか?」
「はい、まぁ、それは個人の趣味なんでわかんないですけど」
フィリスは手を止め、その手を顎に当てた。しかし、困っている様子はない。
「ふむ……いいだろう。私は吸血鬼だ。人の生き血を啜る怪物だよ。怖いか?」
フィリスはそう言うと、歯が見えるように唇を広げた。犬歯が異様に長く、尖っている。
「隠していたつもりはないんだが、言うと警戒する輩が多いのでな。あえて言わずにいた。すまない」
「いや、異界の住人ってだけで十分怪しいですし」
「はははっ。それもそうだな。まあ安心しろ。お前の血は吸わない。警戒されたくないからな」
「何で俺の血を吸わなかったんですか?吸える機会はいくらでもあったのに」
「吸ってもいいなら吸うぞ?」
にやり、フィリスは妖艶な笑みを浮かべて舌なめずりをした。心なしか尖った牙が光ったような気もする。
「い、嫌です」
「だろう?勝手に血を吸われて気持ちの良い人間などいないのだ。体は一番の資本だからな」
今度は豪快に笑ってテーブルの台拭きに戻っていった。
今更驚くこともないが、改めて言われると興奮してくる。本当に存在したんだって友達に言いふらしたいし、ネットに書き込みたい。
証拠っぽい証拠がないので誰も信じないだろうけど。でも、不思議な世界で不思議な力を使う吸血鬼と確かに会って話したんだ。自分が作った料理をおいしいと言ってくれた。
もし、信じて貰えるのなら伝えよう。料理が下手だった、と。