業火の中で
2020年、日本。
1月は終わりを迎え、本格的な冬がいよいよ肌を震わせる頃。
その日の気温は氷点下を下回っており、雲がかった空から月光を浴びて、白く煌びやかに反射する雪が舞い降りていたのを、俺はよく覚えていた。
これから語られるのは、そんな幻想的な日の終わりに起きた悲劇ーーー否。
全ての、始まりの物語だ。
布団にくるまっていた俺がまず最初に気づいたのは、耳元でチリチリと響く謎の音だった。
本能的な不快感を刺激するその音に、まだ上手く働いていない俺の頭がほんの微かに活動を開始する。
耳朶に響く原因不明の不快感に俺は微睡みの中で眉をひそめ、暗澹とした世界に身を任せていた体が少しだけ動いた。
具体的に言えば、寝返りをうったのだ。
そうして僅かに身体を動かした俺が、何か形容し難い匂いを捉えたのは奇跡といっても過言ではないだろう。
とはいえその奇跡は、今の俺にはなんの役にも立たないものであったのだが。
それが煙の匂いだと気付くと同時、睡魔を振り切り目を開けた俺ーーー「近藤奏多」は、ようやくその地獄絵図をぼやけた視界の内に確認した。
それでもなお一切状況を理解できない俺の、焦点の合わない視界にぼんやりと広がるのは、視野一面を埋め尽くす「赤」だった。
今思えば、この時に素早く起きてさえいれば運命は変わったのかもしれない。
ゆらめき、不規則に漂うその「赤」は、どこか生物の危機感を刺激する何か。
だがぼんやりとした脳内は未だ俺に思考を認めず、目の前に迫るそれを呆然と見つめることしかできなかった。
そのまま思考停止をしていれば、きっと何も理解することすらできずに死んでいただろう俺が命を繋いだのは、半ば無意識で被っていた布団をどかしたからでまず間違いない。
特に意味のない、ただなんとなくで行ったその一連の動作が、俺の命を結果として繋ぐことになる。
「ーー?」
布団をどけ、未だ重みの残った身体が外気に晒されていく。
刹那、俺の身を包んだのは異常なほどの熱気だった。
それは決してサウナのような生温いものではなく、どこか不安定で不愉快な、生命にとって天敵とも言える熱さで俺の身体を容赦なく蝕んでいく。
今は2月と完全な真冬であり、またたとえ夏だったとしてもやはりあり得ないような猛烈な暑さに、寝ぼけていた頭がようやく覚醒する。
視界が開け焦点が定まると同時、警鐘を鳴らす脳内が急ピッチで思考を回していく。
そして、俺の視界に写ったものは。
否、これまでもずっと俺の周りを包んでいたはずのそれは。
「嘘、だろ……!?」
ーーー彼の部屋を焼き尽くし、そして彼の家を包みなお広がり続ける、破壊を齎す豪炎だった。
慌てて、思考を開始していたはずの脳内が、眼前に広がる光景を前にあっという間に霧散していく。
奏多の遅すぎる理解を前に、部屋を蹂躙する破壊は留まることを知らない。
それに舐られてしまえばば、奏多はきっと何も理解することなく激痛の中で命を奪われるだろう。
灼熱が支配する、このあまりにも突飛で非現実的な空間の中、真っ白になった頭は、そんな地獄のような光景を彼の視界に焼き付ける事しか許してくれなかった。
奏多が使っていた勉強机が、上に載せられた数々のプリントと共に焔に包まれる。
彼の妹が中学生の進級祝いにくれたぬいぐるみも、家族写真も、久しぶりに帰ってきた父親が買ってくれた新型のゲーム機も。
狭苦しい部屋を猛烈に踊り狂う炎は何もかもを平等に燃やして、それはこれまで作り上げてきた彼の日常すらも跡形もなく消し去った。
充満する煙のせいで視界は酷く悪かったが、それでも何が起こっているのかは彼にも充分に理解できただろう。
あるいはこのまま、何も知らなかったほうが、彼にとっては幸せかも知れないが。
唐突に、無理やりに、押し付けられた非現実的な理不尽。
少しずつ思考を再開していく脳内で、先程感じた煙の匂いとチリチリという不愉快な音がどういう意味を持つのかがようやく繋がる。
そしてその理解が、この絶望的すぎる状況を、彼を取り巻くこの残酷な世界が本物であることをはっきりと肯定していた。
「ーー火事。」
それは、どんな家庭でも襲われかねない日常的な災害の1つだ。認知度は比較的高いが、この災害を防ぐためだけに作られた消防署なる施設のおかげで、火事に対する人々の危険意識はそれほど高くはない。
それは奏多も、そして彼の両親も例外ではなく、彼が住んでいるよくある2階建ての一軒家には消化器なんて気の利いたものは存在しなかった。
故に、火事が起きてしまえば頼れるのは消防士だけ。
しかし今、彼の耳には少なくとも消防車のサイレンは一切聞こえない。焔の音に掻き消されている可能性もあるにはあるが、現実的な考えではないことは奏多が一番よく理解していた。
頼みの綱である消防士が来ないのであれば、少なくとも今しばらくはこの地獄で生きぬかなくてはならない。
燃え盛る彼の部屋の窓は煙が溜まっていて外の時間は一切把握できないが、体感時間では恐らく夜の12時から3時ほどの深夜。
寝起きの感覚なので信用はできないが、少なくとも夜であることは間違いなかった。
彼の家は立地こそ悪くはないものの、夜は比較的人通りが少ない場所に位置していた為、今の時間帯で通行人に通報を期待するのは無謀だった。
ましてや今彼の家には両親がおらず、どちらも出張に出かけていてしばらくは帰らないのだ。もはや、隣家が通報してくれていることを信じるしかない。
しかし、助けを待っている間に炎に巻かれて死ぬ可能性の方が確実に高い訳だが。
そうして思考に沈む彼は、ふと感じた右足の痛みに半ば反射的に目を向ける。
その一瞬の動作の間にも足の痛みはどんどん膨れ上がっていき、やがてはまるで熱したフライパンを押し付けられたような痛みにまで一瞬で昇華していく。
パニックになりながらもやっと右足を捉えた視界に映るのは、半ば炎に舐られていた彼の右足。
「……う、があぁ!?」
その光景を見てようやく、動けなかった身体が悲鳴をあげながらもなんとか作動する。
痛みから逃れるように立ち上がり右足を見ると、一部が黒く焼け焦げた醜い姿へ変わっていた。
「な、嘘だろ……!」
突然の出来事に一切気づいていなかったが、どうやら彼の布団が燃えていたらしい。あのまま呆然としていたら、彼はあっという間に火だるまになっていただろう。
もう既に部屋では炎の侵食が相当進んでいて、このままこの部屋で救助を待っていればどちらにしろ彼は炎に呑まれ死に至ることは間違いなかった。
2階に位置するこの部屋では窓から逃げることは難しく、残念なことに生き残る道は一つしかない。
部屋のドアから廊下に出て、可能であれば家の外へ逃げ出す。これが、少なくとも今彼が生きていくための最適解だった。
とはいえ、流石にそれが厳しいことも理解していたし、何より今の足ではまともに歩けるかすら五分五分。
充満する煙は着実に彼の気道を蝕んでいて、無事に逃げ出せるかはもはや運だよりと言っても過言ではなかった。
結局この足では、火だるまになるのも時間の問題かもしれない。冬の寒さをかき消して有り余る熱量に肌を焼かれながら、彼は冷静にそんなことを考えていた。
絶望的な状況なのは分かっている。それでも、逃げ場はひとつしか無かった。
そして、この脱出劇の生存率をより低くするだろう彼のもう一つの目標があった。
それは、自分の妹を助けだすこと。
奏多の妹、近藤舞香。
聡明で、運動神経もいい彼の自慢の妹だが、それでも彼女はまだ小3。火事の時正しい判断が出来るかは怪しかった。
とはいえ、自分のことで手一杯である今のこの状況で妹を救出するなんて無謀以外の何物でもなかったが、それでも妹を助け出そうとする決心を固めた彼の意思は絶対に揺るがないのは確かで。
「待ってろよ、舞香……!」
決意を口にして、彼は火に巻かれる直前のドアを無理やりこじ開けると、必死の思いで廊下に出る。
焼け焦げた足のせいでこの動作だけでも一苦労するが、それでも今はこんな所で留まっている訳には行かなかった。
歩き出そうとして右足から感じる激痛を歯を食いしばって無視。
ねぶる様な痛みと物凄い熱気に脂汗をかきながら、彼は炎に巻かれた廊下をなんとか進んでいった。
妹の声が聞こえるか耳を澄ませてはいたが、充満する煙と相まって視界はほぼゼロに近い。こんな状況の中で人を見つけられるはずはなく、彼はどんどん追い詰められていく。
「舞香……ッ!どこにいるんだよ!?舞香!!」
妹の名を叫びながら、燃え盛る家の中を探し回る。
言葉にすれば簡単だが、実際に行ってみると地獄以外の何物でもなかった。
果たして、何分ほど家を彷徨っていたのだろう。
既に、彼は時間の感覚など消え去っていた。
5分のようにも感じるし、1時間と言われても不思議ではない。
どちらにしろ、宛もなく痛む足を引きづりながら家を進んでいく彼に限界が訪れるのは、そう遠くないことだった。
煙が喉を侵食し、気道を強引に、無作為に荒らしていく。
想像を絶する不快感と痛みに段々と呼吸が苦しくなっていき、体の内側から何かに焼かれているような、形容し難い苦しみに、少しずつ意識が遠ざかっていくのを感じる。
いくら炎を避けてもその熱波はやはり彼の肌を焦がし、所々に火傷が出来ていた彼は酷い有様だったが、それでもなお彼は悲鳴をあげる身体を無視して妹を求め進んでいた。
しかし妹は見つからず、足の痛みと煙で意識を手放しかけたその時、彼の耳にほんの微かだが声が聞こえて。
「にい……ん、た……す……て!」
それが聞こえたのは、果たして奇跡だったのか、それとも必然だったのか。それはもう、誰にも分からない。
聞こえた声は2階から。迷わず炎の中を突き進み、1階に移動していた彼はかなり遅いペースながらも2階に再び上がり、声のする部屋へと飛び込んだ。
そこは、彼の両親の寝室。
十畳ほどのスペースに、ダブルベッドが鎮座する無機質な部屋。
共働きなのでここにいる時間は少なく、たいして使われていないその部屋は小綺麗に保たれている。
また、ここはなぜか妹のお気に入りの場所で、彼はたまにおままごとに付き合わされていた。
彼の妹は成績優秀でなんでも出来る優等生ではあったが、こういった生活面に関しては子供っぽいところが抜けきれていない。無論、それが彼女の愛らしいところで、奏多がここまで妹の虜になった理由の一つでもあるのだが。
彼は、いわゆるシスコンだった。
彼女は生まれつき稀有な才能があっただけで、精神は周りの同級生と変わらない。
周囲からはその才能故に敬遠されることも多かった妹に、手を差し伸べてやれるのは俺しかいないはず。
そんな、どこか盲信にも近い考えで彼は妹と接していた。
それがエゴであることは、彼自身ももうとっくに気が付いているが。
そんな、妹との思い出の部屋の面影はもはや欠片もなくなっていた。燃え盛る部屋の中央で、舞香は眦に涙を浮かべながらへたりこんでいて。
「お兄ちゃん!」
絶望に潤んでいた妹の顔が僅かに緩んだのが、司会を埋める煙越しでも分かった。
恐ろしい程艶のあるロングヘアーに、全てを射抜くような吊り目がちの黒瞳。
身内贔屓と見られても仕方がないが、彼女はこんな地獄のような状況でも美しかった。
妹との感動の再開。それに、普段なら感極まるはずの彼は、だがしかし彼女を見つけた途端声をかけることも無く走った。
右足の痛みを脳内麻薬で完全にシャットアウトして、まるで何かを守ろうとするかのように必死の形相で走り出す奏多。
突然の行動に彼女も僅かに呆然とするが、しかしこちらに駆け寄ってきていることを理解すると、恐らく抱きしめようとしているとでも思ったのだろう、刹那の緊張の後に安心した表情へと戻る。
故に、直後奏多がとった行動は彼女に、舞香にとっては予想もしない出来事であったことに間違いない。
「おっらぁあぁぁぁ!!」
ーーー舞香に駆け寄った奏多は、その細身を思い切り投げ飛ばした。
この部屋の、丁度ドア辺りに投げ飛ばされ尻餅をついた舞香。
そのあまりに突然の行動に理解が及ばないのだろう、彼女は呆然とした顔で彼を見る。
しかし、今の彼にはそれすら答える暇もなかった。
故に、言えるのは一言だけ。
頭上から迫る熱を、死を感じながら、彼は悲痛な表情で、喉を枯らしながら叫んだ。
「舞香、早く逃げろ!」
そう叫んだ瞬間、舞香が彼の頭上に迫る「それ」を認識し、絶望を顔に浮かべるのが見えた。
ーーーずっと、俺は妹に迷惑をかけ続けてきた。
きっと、今回もそうなんだろう。
ふと、そんな考えが湧いてきて、彼は思わず自嘲する。そんなことを彼が考えるほど、今の舞香にとって辛いことはないだろうに。
そしてそれが理解できてなお、そうやって思考を続けてしまう、ダメな兄である自分が、情けなくて仕方がなかった。
彼女に歩み寄って、慰めることすら叶わないことを心の内で謝った少年は、最後の最後まで妹のことを思いながら目を閉じてーーー
「お兄ちゃん!!!」
刹那、崩落した天井が彼を、跡形もなく押し潰した。
肉の焼ける酷く不愉快な音色が、轟音とともにまるでこの悲劇を飾り付けるかのように彼女の耳朶に響いていって。
そんな地獄に残るのは、反響した少女の哀切に満ちた叫び声。
そして、目の前で兄に先立たれた哀れな少女だけだった。
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1時間後にまた投稿するのでもし良ければ見てみて下さい。