夜は裸足で走ることができる
悲しみの中で生きる人の多くは、夜を好む。
どれだけのスポットライトをその身に浴びても、どれだけの友人に囲まれていても、ひとたび悲しみに襲われてしまえば瞬く間に「夜よ、明けるな」と願うものだ。
けれど夜に悲しみしかないわけではない。暗い安心感を感じることだってあるはずだ。夜であったら一人でもいい、夜でなら泣くことができる、夜でなら裸足で飛び出すことができる。
「あの空に浮かぶ、まんまるい月の中で眠ることができたら、きっと安らかに眠れるんだろうなあ。だから太陽がなくなっても、困ったりはしなかった」
太陽が昇らない国がある。空には時間を問わず星が輝き、どこかへ隠れてしまった太陽の光を受けて月は不規則に光る。しかし国には圧倒的に光が足りなかった。だから「光明屋」と呼ばれる商売が盛んになった。
不規則に月が光るとき、空から光の塊が落ちてくる。その光の塊を確保し。光を量り売りするのだ。人間は電気以外の自然光をこうして浴びることができ、健康を維持している。あるいは作物を育てるため、金持ちの道楽として広く取引をされていた。
しかし、誰も彼もが光に触ることができるわけではない。光を塊として目でとらえ、手のひらで触り細かく分けることができるのは「月の妖精」と呼ばれる限られた人間だけだった。彼らは光に愛されており、彼らがいる場所に光は落ちてくるし、彼らの息吹で弱まっていた光がまた揺らめきを強めることもあった。
月の妖精の素質があれば、政府に召集されるのがこの国では常識だった。衣食住の保証、困らないほどの金と確かな安全。テレビで特集されれば視聴率は跳ね上がり、アイドルのようにバラエティに出ることもある。華やかな人生が約束されている彼らに羨望の眼差しが集められたが、月の妖精は年齢を重ねるごとに特殊性が失われることも確認されていた。
若いころから豪遊するもよし。今後のことを考えてすべて貯金するものもいる。あるいは月の妖精でありながら自らが光明屋として商売を始め、成功させるものもいる。人間であり、人権の保障はされているものの希少価値が高いのには変わりなく、月の妖精をめぐる事件が絶えない現状もあった。
元号は木枯、その五年目。四月九日のこと。とあるビルの五階では小さな誕生日パーティーが開かれていた。そのビルは到底人が住んでいると思えないほど廃れており、外観は壁が剥がれ窓にはひびが入りかろうじてガラスがはまっているように見える。
しかし、内装は生活をするのに困らない程度に整えられていた。薄い茶色のソファ、ローテーブルにはホールケーキにろうそくが六本。子ども用の小さな椅子に座った黒い髪の少女は暗い部屋の中、揺れる炎に感嘆の声をあげた。その嬉しそうな姿を床に座り眺める男は、優しく目を細めこの光景を目に焼き付けていた。少女は瞬きを繰り返しながら一年に一回の大きなケーキを眺め続け、男は水を差すことなく少女の好きにさせている。
「希八、ありがとう……」
少女はケーキに目を向けたまま、絞り出すような小さな声で言った。希八と呼ばれた男は返事をすることなく、目をそらしてポケットから取り出したたばこを手に立ち上がった。そして十分少女から距離を取ってから、たばこに火をつける。希八が座った場所はちょうど風下になっており、間違ってもたばこの煙が少女のほうへ行かないように配慮してある。
一服し、窓越しに二週間ぶりに空に輝く月を見つめる。
「気が済んだら好きに食べろ。今日は、月が出てる」
「うん。光が、近づいてきてる」
少女は手を合わせたあと、プラスチックのフォークをいちごにつきさした。
「ケーキ、全部食べれないよ」
「なら残して、明日食べればいい」
「じゃあ、明日には、光集め終わらせようね」
窓の外が一際強く光った。希八が無意識に少女に戻っていた視線を再び窓へと向けると、空から光の球体が落ちてくるのが肉眼でもはっきりと見えた。
希八は月の妖精だ。しかし年齢のせいか、既に光を見ることしかできなくなっている。それに対し、少女は光の気配を感じることもできるほどに、その特殊性が強く表れていた。
彼らの関係は親子ではない。ただ導かれるようにして出会い、一緒に過ごしている同居人のような関係だ。光を集め、それを光明屋に売りつけ、金を稼いでいる。
「でかそうだ。いい金になる」
「ねえ、希八のゴーグルを新しくしよう」
「それよりも……」
だが部屋を出るとき、少女が希八の服をしっかりとつかみ、またそれを振り払おうとしない希八の関係は浅くはないと誰でもわかるものだった。