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その頃帰宅したリョウは、そっとベッドの中を覗き込んだ。何とも幸福そうに寝ているミリアを見て、ほっと安堵の溜め息を吐く。
――しかし最近一緒に晩御飯も食べていないし、話も聞いてやっていない。このままいけば家庭内別居になってしまうのではないか。リョウはふとそんなことに思い至り眉を潜めた。
「リョウ! 今日ね、何があったと思う?」そう、学校であった些細なことを、いちいち一大事のようにして報告するミリアが見たい。
それから一緒に食事をし、「これ、すっごく美味しいわよう!」スーパーで半額で買って来た材料で、適当に作った料理でさえ大喜びしてくれる、元気なミリアの声が聞きたい。
「ねえ、今のすっごい! もっかい弾いて?」そう言ってギターを弾いている自分を、下から覗き込んでくるあの興味津々な顔が見たい。
全てはレコーディングが終われば――。
リョウはそう自分に言い聞かせると、間接照明だけを点け、生音で少しギターを奏でる。その後パソコンに向き合って曲作りの続きに取り組み、それからシャワーを浴びてビール缶を一本開け、そして布団に寝転がった。明日も朝からスタジオに籠ってレコーディングに励み、その合間を縫ってギターのレッスンが数件、それからインタビューも明日だったっけ? それから半額シールの貼られる閉店間近にスーパーに乗り込み、明日の食材を買って帰宅をする。
明日は何を作ってやろうか、今日はグラタンにしたけれど、旨かっただろうか。今朝はあまり時間もなかったから人参を星形に切ってやることをしなかったが、それを残念がってなかっただろうか。そんなことをぼんやりと考えながらいつもの日常が終わろうとしていた。
その時であった。「痛い、痛い。」そんな小さな呟きが壁越しに聞こえて来て、リョウは飛び起きた。慌ててリビングに行き、ミリアのベッドを覗き込むとぎゅっと閉じた睫を濡らし、「痛いよ、痛いよ。」と言っている。
「どこが痛ぇんだ。どうしたんだ。」見上げれば、時計はまだ夜中の三時である。
ミリアは目を開け、訴えるように「背中が痛い。」と言った。
「背中だあ? 見せてみろ。」
リョウは電気を点けた。ミリアは布団を除け、うつ伏せになってパジャマを捲り、白い背中を晒した。そう。そこは白い。傷跡も痣も何もないのである。
「何ともなってねえぞ。」
「痛いの、痛いの。」ミリアは枕に青を押し付けて、切なげにもごもごと呟いた。
「どうしたんだ、昨日転んだりしたか?」
「転んでない。」
「ぶつけたりは?」
「ぶつけてない。」
「重いモン持ったか?」
「持ってない。」
リョウは途方に暮れた。「でも、もう医者は終わってるしなあ。朝まで我慢できるか?」
「……できる。」ミリアは殊勝にも囁くように答えた。
「じゃあ、明日朝一で医者に連れてってやっから。」リョウはそう言いながらも、明日のレコーディング、ギターレッスン、インタビューのことなどが次々に頭に思い浮かんでくるのを止められなかった。しかし慌てて首を振る。振り、払う。ミリアが大変なのだ。ミリアよりも優先させて然るべき事柄など、一つもないのだ。
リョウは布団を引っ張って来て、ミリアのベッドの脇に敷いた。
「もしな、我慢できなけりゃ言えよ。俺今日はここで寝っから。」
ミリアは心配そうにリョウを見下ろす。「ここにいんの?」
「ああ。」
ミリアは目を瞬かせる。痛みも無論あるが、どこか嬉しくてならない。
「もし、我慢できねえぐれえ痛くなったら言えよ。夜中でもやってる医者連れてってやっから。」
「うん。」ミリアはそっと目を閉じる。そしてベッドの下に腕を伸ばした。それはリョウの鼻先をくすぐる形になったようである。
「何だよ、くすぐってえな。」
「うふふ。」
先程より痛みが減じてきたような気がしていた。