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「黒崎さん、全然ハンコが増えていないですね。」
放課後、教員用の机の前に呼び出され、そう発せられた担任教師の言葉にミリアは背を丸めて縮こまった。国語の教科書の裏表紙に張り付けられた音読シートには、数個のハンコが押されているだけで、たしかにここ最近は全く増えていなかったのである。
「教科書を読むのは、嫌い?」
ミリアは首を横に振る。
「今やっているのは猫の出て来るお話だから、黒崎さん好きかと思ったんだけれど。」担任教師はあくまでも微笑みながら言った。
「猫ちゃん、好きです。」ミリアは慌てて言った。「一番、好きです。」
「じゃあ、お兄さんの前で今やっている猫のお話を読んで、そしたらハンコちょうだいって言って、貰ってこられる?」
ミリアは項垂れるように肯いた。
「そう。じゃあ、明日また先生に見せてね。」
とはいえリョウは最近レコーディングが大詰めであるとかで、朝はギリギリまで寝ているし、夜は自分が寝てから帰って来る始末で、あまり話をする時間もないのだ。
しかしそんなことは教師の前では言えなかった。リョウが非難されてしまうようなことは、一言でさえ言いたくなかったのである。
ミリアは重たげにランドセルを背負ったまま、夕陽に押されるようにしてとぼとぼと帰途に着いた。自分だって、リョウの前で教科書を読みたい。そしてリョウに褒めて貰いたい。リョウはいつだって褒めてくれるから。つっかえたって笑ったりはしない。
鍵を開けて家に入り、静まり返ったリビングに立ち竦む。今日もリョウはいない。テーブルの上には小さなグラタン皿と、メモが置いてあるだけであった。
「今日もレコーディングだから、遅くなる。冷蔵庫にプリン入ってるからデザートに食いな。」
ミリアは一人グラタン皿を前に宿題の漢字ドリルを終えると、ギターの練習を始めた。リョウが教えてくれたフレーズを丹念に、丹念に、弾いていく。指が痛くなると、昔リョウが買ってくれた猫の人形をお父さん、お母さん、男の子、女の子と順番に撫でてやる。少々捲れたスカートやシャツやらを整えてやる。そうしている内に、夜が更けていく。一人ぼっちの夜。電気を点ける。少しは明るくなる。そうして一人グラタンを食べてプリンに取り掛かろうとした時、ふと、涙が溢れた。
おかしいな、と思う。リョウは毎晩夕飯の準備を欠かしたことはない。しかもいつだってデザート付きだ。こんなに美味しい食べ物を毎日欠かさずくれるのに、何が一体悲しいのか。パパと住んでいた時には殴られたり蹴られたりするばかりで、食べ物なんてほとんどくれなかったのに。今は朝晩と必ずご飯の用意をしてくれるリョウがいて、お腹が空き過ぎることもなければ、外を当てもなく彷徨わなければならないこともない。なのにどうして涙が出て来るのだろう。
ミリアはいけないいけないと涙を拭うと、思い出したように教科書を取り出して宿題の音読を始めた。明日先生にハンコの増えていないシートを見せたら、また、「猫のお話は嫌い?」と言われてしまうかもしれないから、せめて読んでおこう。読んだのだけれどハンコを貰うのを忘れちゃいました、と言えばリョウが悪いことにはならない。しかし、ついこの間までは隣にリョウがいて、うんうん肯きながら聞いてくれたものだ。腕組みしながら、「うん、なかなかいい話だ。教科書っつうモンは馬鹿にできねえな。」なんてしみじみと言ってくれたっけ。そんなことを思い出しつつ、ミリアの声は次第に小さく、元気がなくなってくる。こんな風に教室で読んだとしたら、先生に「もっと大きな声で、みんなが聞こえるように読みましょう。」と言われてしまうに相違ない。でも今以上の声なんて、とてもではないが出なかった。リョウがいないこの空間で、元気いっぱいに教科書を読むなんてできる訳がなかった。
ミリアはそれでもどうにか最後まで読み終えると、二度目を読み上げることなく、シャワーを浴びてベッドに入った。リョウはまだ帰って来ない。自分がすっかり眠ってしまって、夢の中にいる時間にならないと帰って来ないのだ。お帰りなさい、と言って学校の話をしたいけれど、自分が帰るまで起きていちゃダメだとリョウは言う。
「子供はとっとと寝ねえとな。寝ねえと背が伸びねえ。チビのままだ。」――いつかそんなことを言われ、ミリアは「ち、ちびじゃないもん! もう背の順二番目になったんだもん! だからちびじゃないわよう!」そう勢い込んで訴えたものであった。でも今となってはそんな言葉さえ聞きたくて堪らない。ミリアはベッドに潜り込んで両瞼を両手で抑え、眠れぬ時のならいとしてぽつりぽつりと羊を数え始めた。
「ひつじがいっぴき。ひつじがにひき……。」
リョウが何かの間違いで早く帰って来てくれないかな、と思う。レコーディングが早々と終わってしまったであるとか、どうしても眠たくなってしまったであるだとか、何でもいい。リョウに今やっている国語の教科書のお話を聞いてもらいたい。だって猫が出て来るのだから。話を聞いたら、きっとまた、「馬鹿にはできねえな。」と笑ってくれるはずなのだ。
「ひつじがさんびき、ひつじがよんひき……。」
ミリアはそんなことをぼそぼそと呟いている内に、次第に夢の中へと誘われて行った。
「リョウ、今からね、教科書読むからハンコ押してね。ここね。」教科書の裏表紙を見せ付ける。
「わかったわかった。」リョウはソファに腕組みしながら座り、ミリアの言葉に耳を傾けてくれている。
ミリアは嬉しくて感情たっぷりに猫の出て来る物語を読む。親子の猫が出て来る大好きな物語。特に今日授業でやった所では、猫のお母さんが、貰われて行った自分のかわいい子猫たちを心配していると、なんとその子猫たちから電話がかかってくるのだ。猫が電話をかけられるなんて、とても凄いことである。ミリアはこの感動を何としてもリョウと共有したくてたまらない。
いたずら子猫からの電話に、お母さんはアドバイスを送る。
「しっかりお手伝いをして、可愛がられるようにね。」
ミリアは、子猫と話せたお母さん猫の安堵の声音までしっかりと再現する。ちら、とリョウを見ると楽しそうに微笑みながら聞いてくれている。
「だいじょうぶだよ、お母さん。」今度はいたずら子猫の気持ちになりきって答える。
「巧いな。」リョウが言った。「まるで本物の親子の猫の会話を聞いてるみてえだ。」
「そうでしょ! 子猫が電話をかけてくるんだから! 凄いでしょ!」
「そうだな。猫が電話をかけるなんて、なかなかできたもんじゃあねえ。教科書っつうもんは馬鹿にできねえな。」
ミリアは嬉しくてくつくつ笑いを止められなくなる。