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第十話 邪神の慈悲 二十三 名前の無い魂


 故障選手『名無しのアンナ』が亡くなった翌日以降も、競技祭は普段どおりに行われ、最終日は順当にチャンピオン『からすのブレイロ』が連勝して締めくくる。

 ヘルガも普段どおりに闘技場をうろつきまわり、ぼんやりとたたずんでいた。

 競技祭後のフマイヤは、そんなヘルガの姿を遠くの物陰から恐れるようにのぞいてしまう。


「フマイヤ様……」


 マリネラは侍女や衛兵たちの困惑はともかくも、フマイヤの困惑を心配していた。


「うむ……アンナにはまだ聞き出したいこと、助けてもらいたいことが多くあった……しかしあの者もまた剣闘士。ましてあれほどヘルガとかれ合った上での試合では、止めようもあるまい。その前に手を打てなかった私の未熟か、あるいは……」


「少しお休みになられては?」


 訓練場の柱にへばりつくフマイヤはやつれていた。競技祭後の数日でよりひどくなっている。


「む……む? ああ、すまない……」


 フマイヤはようやく威儀を正すが、視線はふたたびヘルガに貼りついた。


「……アンレイはもう、訓練教官を続けられないのか?」


「剣闘試合への参加は『指導力不足の責任をとる』という名目でした。しかし訓練指導は『要請があれば断らない』とも聞いております」


「うむ……望んだ形の参加ではないが。こうなってみれば心苦しくも、この状況こそが必然だったようにも思えてしまう」


 フマイヤはなおも、ただ座っているだけのヘルガを見つめつくす。

 雲を追う青い瞳はアンナの魂魄を映しているのか、アンレイの怨念を見ているのか。



 訓練場の片隅で歓声がわく。

 見れば教官の大女『灼熱のヒルダ』が軽々とふっとばされて転がっていた。

 追撃を受ける前に、恥も外聞もなく武器を捨ててわめく。


「だから言っただろう!? 勝負になるわけないって!」


 対戦相手はヒルダでもつむじには手が届かない『女巨人ヒュグテ』だった。

 子供がひとり、はしゃぎながらまとわりつき、肩までよじのぼる。


「……しかしまさか、ヒュグテまで来月から参加になるとはな?」


 フマイヤは近づいてくる巨体を意外そうに見上げ、マリネラは仮面のような笑顔でうなずく。


「新しい族長様も言葉と社交に秀でておりますが、ヒュグテさんへの期待はより強いようです」


 ヒュグテは十歩以上も手前でかすかに首を傾け、肩の子供もうなずいて飛び降りる。

 毛皮と金細工で着飾った黒人の少年は、足早にフマイヤへ近づき、握手の代わりに両腕を広げて友好の意志を示す……その指にはいくつもの宝石が飾られていた。

 フマイヤも同様の辞儀を示すが、かすかな微笑だけに抑えていた。


「貴殿の祖父をそちらの風習で弔えなかったことは残念に思う」


 少年……新しい族長はうなずきながら、明るい笑顔を返す。


「我が祖父は、異国では異国の流儀を尊ぶ! フマイヤどのの厚意に感謝したい! 祖父は勇敢だった! 漁師の話も聞かないで、珍しい魚を食べて亡くなった!」


 近くにいた侍女や衛兵たちは眉をひそめながら、それと気づかれないように努める。


「族長は長生きが望ましい! しかし私は、祖父の賢さと勇敢、同じだけ尊敬する! 祖父の妻たちもすばらしい女性! 強い! 大きい! 一番大きいヒュグテは私の五番目の妻に迎えた! 私のヒュグテは大きく賢いが、強さも見たい! 恥ずかしがり屋だが、とても勇敢!」


 フマイヤは静かにうなずき、さらに続く新族長の新妻自慢に忍耐強くつきあう。 

 ヒュグテは腰を低め、族長のうなずきを得てから場を離れるが、マリネラへぼそりとつぶやきを残した。


「私は今の夫に期待を重ねられると、凶運の道と見えながらも避けえぬほど、愚かしくなってしまいます」


 のろけ話じみていたが、発言の無駄が極端に少ないヒュグテの性向から推せば、よほど深刻な悩みらしかった。

 それをなぜか自分ひとりだけに持ちかけられて、マリネラは内心で弱りきる。

 自分が沈みきった泥沼から他者を救い出せる気はしない。

 密かに頬を赤らめ、同情を寄せるしかできなかった。



 アンレイとヒュグテが参戦する噂を聞きつけて、塀の向こうでは早くも訓練の見物に客が押し寄せ、勝手な持論を戦わせている。

 多くの女剣闘士はげんなりと愚痴をこぼし合っていた。

 すでに『からすのブレイロ』と『赤虎あかとらタヌム』には誰も歯が立たない状況で、さらに二体の怪物に参入されては、稼ぎも生存もままならない。


「ヒルダのあねさんが最初はなから勝負を投げるような相手に、アタシらなんかをぶつけてなにが楽しいのさ~あ?」


 中堅『青鬼ルネンバ』はとりわけ格上が苦手で、同格以下からの堅実な稼ぎで補っているため、落ち込みがひどい。

 上位陣であるはずの『舞姫まいひめスール』もやさぐれた薄笑いを隠さなかった。


「男女で試合を分けているなら、人様とバケモノ様も分けていいと思うの」


 中堅『黒鬼ブムバ』も不平不満はあったが、仕事仲間が並べている暗い顔にもいらついていた。


「それよか、あいつらぶっ殺せるいい武器でも考えろよ。ヒュグテもカバには勝てねんだろ? カバを装備で使うにはどれだけ脱げばいいんだよ? ……てめえの肉まではぎたくねえな……おい、おめえはまだ装備をただで選べんだろ? なんか使いてえもんはねえんかよ?」


 ブムバは少し離れて座っていた『墓下のヘルガ』にまでがなる。

 ぼんやりと「アンナ」という答えが返った。



 フマイヤはマリネラの報告を受けると、ヘルガの元へ足を早める。

 マリネラの指図で衛兵のひとりが拳刃などの遺品を差し出すと、ヘルガはそっと受けとり、抱きしめる。


「アンナ」


「今後の試合は、その装備での登録を希望しますか?」


 マリネラが確認すると、ヘルガは目を合わせるが、返答の代わりにボロボロの胴鎧を脱ぎはじめる。

 注意しかけた衛兵をマリネラが手ぶりで止め、囲む人垣を作らせた。

 ヘルガはのそのそと丸裸になり、鉄輪つきの小手とすね当てをはめ、紐のような金属製の下着も身につける……しかし体型に差がありすぎた。

 豊かな尻にくいこんで、はるかに猥褻わいせつな見た目になってしまう。

 胸などはたやすく中身がこぼれ出てしまう。

 それをヘルガは直そうともしないため、マリネラは少しだけ頭を抱えてから、侍女に包帯を求めた。

 規定に触れない『必要な範囲』として包帯で胸を抑えこみ、本来は胸を隠す用途だった細い金属衣類を背部分に巻きつけて包帯どめにしておく。

 ヘルガは自分の背に腕をまわしてその感触をたしかめると、うれしそうにほほえんだ。


「とりあえずの処置ですが……」


 しかしマリネラは廃品同然の胴鎧を見ると、このままの格好を続けられてしまう予感もする。

 ヘルガは拳刃の革手袋にまで指を通しはじめた。

 試合場ではなく、しかも領主の前とあって衛兵たちはマリネラの顔をうかがうが、フマイヤのうなずきで黙認される。

 ヘルガは装備した両手の裏表をゆっくりとながめて、ふたたび「アンナ」とつぶやく。

 フマイヤはひどく胸がうずいた。


「試合以外では指示の範囲だけで武器を扱ってくれ……携帯を望むなら別に料金がかかる。自室などへ保管するだけなら、それほどは……」


 教官にでも任せればいいような説明しか出てこない。そんな自身の無力が嘆かわしい。

 そしてヘルガは、じっと見つめてきた。

 フマイヤはアンナと同じように『すべて見透かされている』と仮定して思いなおす。


「……今夜は一緒に食事でもどうだ?」


 唐突な誘いへ、にっこりと笑顔が返る。

 なにをどこまで理解されているかはわからないが、フマイヤは少しだけ気が楽になった。

 その場の全員の不意をついて、ヘルガは領主に深い口づけを押しつける。

 首へ巻きついた腕には刃物が装着されたままであることも含めて、マリネラは対処に頭を痛めるが、やはりまずは主君の意を汲んで衛兵たちを抑えるに留めた。


 マリネラの側近である侍女デルペネも『フマイヤ様がヘルガへ武器を渡しに行く』と聞きつけて駆けつけてくる。

 しかし引き連れておいた重臣アルピヌスともども、できることはなくなっていた。


「ようやく思い切りがついたのかな? あれだとオレより君の部署が大変そうだけど……警備の腕利きは後宮へまわすかい? まさか地下牢ではないだろう?」



 領主の居館ではなく、闘技場の内部にある領主の休憩室で、夕餉ゆうげの準備が整えられた。

 しかしヘルガは勧められた一皿を一口食べるだけで、フマイヤに抱きついて押し倒す。

 マリネラはまだ膳の運び途中だった侍女たちを下がらせ、フマイヤへ触れる女性すべてに確認すべき『奇病』についての形式的な説明もあきらめた。

 フマイヤの顔に残る多くの斬り傷を見るたび、マリネラにあふれるヘルガへの殺意は変わりない。

 しかしフマイヤが『領主』ではなく男性として、女性に接する姿をはじめて目撃できた気もする。

 とめどなく貯まり続ける嫉妬や憎悪は変わらない。

 しかしその量もまた、フマイヤの中で大きくなっているヘルガの重さと知っていた。

 マリネラには理解しがたく、したくもない仲だった。

 それだけにフマイヤが見せるヘルガへの執着は、マリネラの腕から離れはじめた証拠でもあり、マリネラも望んだ成長のはずだった。



 一夜を明かしたフマイヤは、はじめて直接に触れたヘルガの肌や黒髪をながめまわし、寝具に埋もれた幸せそうな寝顔にとまどう。

 生まれて以来ずっと地下牢で寝起きしていたはずの女が、ごく自然に領主の寝床へ溶けこんで見えた。


「貴様にとっては、どこまでが『自分のねぐら』なのだ……?」


 ヘルガの中に広がる世界、行動の一貫性について、フマイヤはすでに漠然と察していながら、アンナほど素直には受け取れない。


「起こしてしまったか……日が昇ったら、少しつきあってほしい」


 ヘルガは微笑んだまま、寝具をフマイヤへ巻きつけて額をくっつける。

 フマイヤは今まで自分がヘルガに触れなかったことを不思議に感じ、ずっと前から触れ合っていたほうが自然なように感じている自分のことも不思議に思った。



 地下牢に歩ける程度の日差しが入り込むと、フマイヤはマリネラと衛兵たちを詰所に待たせて、ヘルガとふたりきりで最深部の格子をくぐる。

 奈落の底のような独房は、片隅に粗末な寝具が横たえられ、しかしフマイヤは祭壇を前にしたように、両膝を屈してかがんだ。

 そしてまだ闇の濃い壁の隅を凝視する。

『名無しのアンナ』が見つけ出した『ヘルガの名づけ親』の手がかりはそこにあった。


 闘技場の基礎となっている岩は削れやすく、床は磨耗を防ぐために硬い石材が敷きつめられている。

 柱や壁は厚めに残されているだけあって、抜けた歯などでも傷はつけやすい。

 かつて疫病でこの地下牢に閉じこめられていた誰かが、死を待つだけとなった寝床で、断末魔の言葉……誰かへの思いを刻み残すこともできた。

 後から投獄された『処刑場の捨て子』がその文字を解読できたとして、どのように受けとったのか、いつから受け入れたのか、想像を絶する。

 そのような偶然を介して名前を恵む者などがもし存在しうるなら、あまりにも禍々しい。

 ヘルガは肩を並べ、フマイヤの凝視する壁の隅を指でなぞり、うれしそうに微笑んだ。


「かみさま」


 フマイヤはどうにか声に出して読もうとしたが、呼吸が乱れ、しばしうめいてから叫ぶ。


『愛しのヘルガ』






(『邪神の慈悲』おわり)






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