第十話 邪神の慈悲 二十二 生贄の愉悦
アンナを殺さないように襲い続けるヘルガの姿に、客席の『舞姫スール』は自分が『闘鬼アンレイ』から受けた訓練名目の拷問を思い出す。
マリネラは審判として試合場に立ちながら、間近に見るアンナの技巧と集中力は予想以上に鋭いと感じた。
思うように間合も重心もとれない右膝で、ヘルガの突撃に十五回も耐えている。
まともな足さえあれば『赤虎タヌム』や『鴉のブレイロ』へ対抗しうる人材にもなりえた。
ヘルガはそのアンナへわざわざ正面から、十五回も肉迫している。
双方とも降参する意志、させる意志がない。
互いに互いへすがるように、急所を狙い続けている。
十六度目の激突。
アンナが右膝を抱えてうずくまり、それでもうめきながら立ち上がろうとする。
「さすがにここまで使いたおすと、痛みどめもまるで効かね……いぎっ……ぎっ……くそっ……」
立ち上がるまで時間がかかるようになり、客の一部は嫌そうな顔をして逃げ出し、別の一部はうんざりした顔で見守り、また別の一部は呆然と見つめていたが、誰も言葉を出さなくなっていた。
十七度目。アンナはもう右脚をまったく使えない状態だったが、ヘルガの片腕を捕えるなり引きずり倒し、腕をねじり上げる。
拳刃があれば絞めたり極めたりする必要もなく、首や腹を刺せば終わる再度の好機だった。
アンナはふたたび解放し、膝の激痛にうめきながら離れようとする。
審判マリネラは観客の視線に求められるまでもなく『戦闘不能』の判定はずっと検討していた。
しかし今のところ『十歩の間』に相当する時間内には双方が立ち上がり、打ち合いを再開している。
双方が立ち上がってしまうために、生かしたままの結着を宣告できない。
そんな配慮を受ける気さえ感じられない。
しかしマリネラはヘルガの顔に、半年前までには見たことがない『迷い』を確認していた。
その表情に、ヘルガがアンナへ興味を持ちはじめた理由……『居心地のよい独房』よりもアンナにつきまといはじめた動機……アンナの薄笑いへ、血みどろで応え続ける必要性を探しまわる。
玉座でわななくフマイヤは、闘技場を捧げてでもヘルガに求めた願いを再確認していた。
領主である自身は、すべての領民へ最大の奉仕をつくすべき奴隷と考えている。
多くの貧困者を救ってその責務に応えているつもりだったが、老兵ゼペルスの救いなき最期に安らぎを与えられたのは、ヘルガだけだった。
剣闘士ヘルガは自身の命を当然のように試合場へ預け続け、そのことになんの疑問も持たない……はずだった。
「今の戦いぶりも、自身の命を惜しんでいるようには見えん。しかし『迷い』が感じられる……ヘルガであっても、迷いは持ちうるのだ……私はなにをしてやれる? アンナはヘルガのなにをつかんでいる!?」
フマイヤは低くうめきながら肘掛けを握りしめるが、その視線が不意に焦点を失う。
「……ちがう。もっと、もっと単純なことだ。だからヘルガにも届く……」
そのつぶやきは傍らのアルピヌスにしか聞こえていないはずだが、フマイヤと同時に教官アンレイへ視線を向けた者たちがいた。
剣闘士席の最前列にいた『赤虎タヌム』がふり向き、教官ヒルダもその視線を追って……アンレイへ声をかけようとする。
その頭上にそっと、大きな手が広がって制止した。
教官『女巨人ヒュグテ』は試合場を見据えたまま、かすかに首をふる。
十八度目の激突。
ふたりがもつれ合って倒れ、地面での不様な打ち合いになる。
アンナのほうが倍は手傷を負いながら、どうにかヘルガから離れた直後、マリネラは審判でありながら一瞬だけ選手たちから目を離し、貴賓席を確認した。
玉座ではなく、その近くの前列……『闘鬼アンレイ』は顔も姿勢も微動だにしていない。
しかし腕を組んでいた指先に、血のにじみを確認する。
フマイヤとマリネラは、ほぼ同じ推察をたどった。
おそらくは『見たまま』に、試合をする両者に勝敗の意識はない。
だからアンナは、この姿を見せるためだけに出場した。
おそらくはヘルガと……アンレイへ。
「あの唐変木さんたら武芸を極めすぎて、人としての生きかたは不器用になりすぎて、家族や友だちまで武器のひとつくらいに思いこんで、武器をぶんまわす自分まで武器だと思いこんじまうアホでしてね。そんなわけねえから荒れてふてくされているんでしょうに、そういうところはガキみてえになってやがるんで、あっしはそんな意地なんざ殴り壊して、それでも側に居てみせたかったのですけどね。そうもできなくなっちまいましたからね。あとはもう、あっしがぶっ壊れて武芸での関わりがちぎれたって、ああいうアホのためだけに生きたいアホだって、ここにひとりいますよ……って、姿をですね……見てやがりますかねあの馬鹿アマ……まだ余裕ぶった顔してんじゃねえだろな……」
フマイヤは胸をかきむしって高揚に耐えていた。
アンナの拷問にヘルガがつきあっている理由はわからない。
「わからん……だがヘルガは、そうすべき必要をあれほどに感じとっている……ヘルガであるがゆえに!」
十九度目の激突の前に、アンナは貴賓席を見上げてニヤと笑った。
「もうよく見えねえや」
片脚で支えている痩せこけた全身は、血を流しすぎていた。
ヘルガへふりむくと、母親へ泣きつくような苦笑を浮かべる。
「すみませんね。お待たせしました。続きをお願いします。もう他にすがれる相手もいませんからね。まだよくわからないですかね? でもどうか、わかってくださいね。でなけりゃぶっ殺すしかねえ……頼むから、この願いだけは聞き届けてくれよ神様」
マリネラは、ヘルガの怯えた表情をはじめて目撃した。
許しを乞うような目で、それでも低くかまえ、容赦なき十九度目の突進に踏み出す。
アンナは膝の壊れた右脚をふりまわし、ヘルガの小剣を骨肉で受け止め、倒れこみながら拳刃を飛びこませた。
ヘルガは裂かれるままに肘を突き出し、アンナの鼻面をはじき飛ばす。
ヘルガは腕の傷を抑え、怯えた目で見下ろした。
アンナはゆっくりとのたうつが、もはや自身ではうつ伏せになることも困難だった。
「動かね……な……」
少しずつもがいて、どうにか両手をついて、身を起こしかけたところで、審判マリネラが貴賓席へ指示を送る。
教官ヒルダが『十歩の間の戦闘不能』と『ヘルガの勝利』を宣告すると、声を失っていた客席全体に細い安堵がもれ出た。
そして試合場から目をそらし、客席から逃げ去る者が増え続ける。
アンナがへたばって地面につけた頭は、すぐにヘルガの腕に包まれた。
「すみませんね……うまく伝わりましたかね? あんたにも、あのバカにも……あの人にはもう、オレしかいないもんで……オレにもあの人しかいなくなっちまいましてね? あとはもう、あんたにすがるしか……」
アンナはすでに全身が激痛で満たされ、しかしあちこち動かせない部分から重い冷えの侵蝕も感じていた。
マリネラの手当てもはじまっていたが、まったく感覚がない。
期待はしていないが、一応は視線を向けてみる。
「血が流れすぎ、厳しい状態です」
言われてみると、期待どおりの診立てのような気もした。
しかし心残りがないでもない。
「かなうなら……あっしは自分の名前を、師匠につけ直してほしかったんですけどね」
あるいは『アンナのままでいい』と言ってほしかった。
「でもこんな、オバケみてえなしょぼい生き死にしかできねえガキに、似合いの呼び名なんて……どんな名前が、よかったんですかね……?」
目がよく見えない。しかし自分の頭を抱えているヘルガから涙がばらまかれて、顔を濡らしてくれたことがうれしかった。
耳元へ、唇が近づいてささやく。
「アンナ」
「いえ、ですからその呼び名は……名づけ親が、どこの誰ともわからねえやつでして……誰が名づけたんだか……?」
「かみさま」
うれしそうな声で返答された。
「そんなわけねえ……こともなさそうな……ヘルガさんなんかがおっしゃるせいですかね? でも……だったらやっぱり、神様なんて、好きになれそうもねえや」
こんな場所で、生贄にされるためだけに生まれ落ちた者に、似合いすぎる名前に思えてきた。
しかしヘルガは、愛しむようにささやく。
「アンナ」
「ヘルガさんは……その名前、気に入ってくれたんで?」
うれしそうな声が、すぐに耳元をくすぐった。
「アンナ」
名づけ親は、ヘルガでもよかった気がする。
しかしそれではなおさら、自分が生贄じみている気もする。
『人様の心を勝手に読めるとしか思えねえ、しかも人様の願いを勝手にかなえようとしやがる、妖怪だか神様だかわからねえ女だ……もしかしてこれも、読まれちまっているのかな? とはいえ、どうせ魂を喰われるなら、あんたみてえな神様がいいや。どれだけ地獄がお似合いの怪物さんでも、あっしなんかのために泣いてくれるあんたになら……ってことはこれ、悪くもねえくたばりかたなのか? 本職の神様も、やっぱり少しは仕事をしてくださったんですかね? それともこのろくでもねえ女神様のせいで、あっしはこんなしんどい運命に巻きこまれちまったのか……どっちでもかまわねえや。そう思えるなら上等な締めくくりなんでしょう。そんなわけで皆様、あっしもちょいと眠くなってきましたし、おあとはよろしいようで……』
降りしきる雨の中、担架へ乗せられる前に敗者の死亡が確認された。
まだ報酬の授与式が残っているにも関わらず、観客席は空きが目立つ。
ヘルガはうずくまり、遺体にしがみついたまま離れない。
赤ん坊のように『アンナ』の名を呼び続け、泣きじゃくっていた。
貴賓席の前に立つアンレイは組んでいた腕をゆっくりと解き、静かに退出する。
表情は普段と変わらないが、指先と腕は血にまみれていた。
フマイヤはその姿を見送ってから、低く尋ねる。
「なにを刻んでいた?」
試合中はアンレイの隣にいた教官『女巨人ヒュグテ』は、顔をわずかに向けるだけで、視線は床に落とす。
「彼女の祖国の文字でした」
ヒュグテはそれしか言わなかったが、その文字の解読まではできなくとも、アンレイが自分の腕をえぐって刻んだ『名前』をフマイヤが確信するには十分だった。




