表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
68/93

第十話 邪神の慈悲 二十 刃のゆりかご


 剣闘士の『舞姫まいひめスール』自身が望んだとはいえ、教官アンレイが苛酷な指導で重態へ追いこんだ事故で、訓練場は低くざわついていた。

 見込んだ選手へ対するアンレイの手厳しさは知られていたが、度が過ぎ、うわべの態度よりも被害者の惨状に内面の異常が出ていた。

 たまたま居合わせたマリネラは教官たちへ早めの制止を指示して、衛兵にも担架を用意させていたが、それでもなお事故死の寸前だった。

 その一部始終を見ていたアンナは、マリネラから再度の引退勧告と、下女として雇う勧誘を断った上で、明るい顔を見せる。


「師匠もあんな調子ですし……マリネラさんのほうでも、師匠の指導がおかしくなっていませんかね?」


「この半年ほどアンレイさんは体調がすぐれないそうで、主にはヒュグテさんへ指導をお願いしています」


「……でしょうね。スールの姐さんであれなら、マリネラさんでは師匠の『お病気』も抑えが効かないでしょうから。ですからほら、お願いしていた件、どうにかなりませんかね? どれかひとつだけでも……」


「まず『訪問』の件でしたら、今すぐでもよろしければ」



 衛兵を引き連れたマリネラを追って、アンナが足を引きずる。

 闘技場の宿舎牢区画の端から、少し奥まった通路に、いくつかの下り階段があった。

 地下の一角はかつて剣闘士の牢獄に使われていたが、今は刑の重い犯罪者が入れられている。

 反対側に隔離された一角は今なお疫病患者がまばらに収監され、その最奥には『処刑場の捨て子』ヘルガの独房もあった。


 昼なお薄暗い通路を牢番の下男に案内されると、かすかにきしむような音が聞こえてくる。

 最も奥にある格子をのぞきこんだ一行は驚いて見上げた。

 黒髪褐色の長身が逆さ吊りになって、宙でゆっくりと舞っている。

 ヘルガはアンナと視線の高さを合わせてほほえんだ。

 大人が跳んでも届くか怪しい高さの通風孔へ、伸ばした足先をはめて支えにしている。

 豊満な肢体をくねらせて滑り降りてくると、格子ごしにアンナの頬へ両手をそえた。


「またずいぶんと、器用な鍛えかたをしていますね? どうやってあそこへ……壁を蹴ったのかな? いえね、あっしの牢へいつも来てくださっていたヘルガさんのねぐらも見てみたくなりましてね。お邪魔させてもらってもかまいませんかね?」


 ヘルガはにっこりと笑い、アンナは背後にも視線で確認する。

 マリネラは手ぶりで出入り口を指し、施錠されていないことを示すが、牢番と衛兵たちは疫病患者の牢へ入りたがるアンナの意図と、入れさせてしまうマリネラの意図を理解しかねる。


「あっしもヘルガさんが留守では入りにくかったんで、ちょうど助かります。近ごろは領主さんもちょくちょく遊びに寄るそうで、以前よりも出入りしやすくあれこれ整えていたようで、今日なら代金もいらないとか……よくこんな暗さで虫に食われませんね? 湿気がないのがいいのかな? それともこの、ヘルガさんのにおいに虫まで酔ってやがるのですかね?」


 闘技場でも地下牢は疫病対策が特に徹底され、庶民のずぼらな者の住まいよりも悪臭はない。

 それでも体を水ぶきだけで済ませ、衣服や寝具の洗濯や交換も少なく、なによりほとんど体を動かせないことから、独特の嫌な臭いがつきやすかった。

 しかしヘルガの牢だけは、同じ扱いでも女性らしい体臭ばかりが漂う。


「花や香油を仕込むでもなく、なんでこんな匂いになりますかね? 赤ん坊もなぜだか勝手にいい匂いがしますけど……こりゃ通って入り浸る気持ちもわかる気がします。ヘルガさんの肌みてえに優しくて、やらしくて……黒鬼さんを呼んだら暴れて汚しまわりそうですけど」


 アンナは室内とヘルガをゆっくりと見比べながら、粗末な寝台に横たわってみる。

 ヘルガは笑顔で見つめながら、アンナの上にかぶさってきた。


「いえ、そういう御用事で来たわけではなく……」


 アンナはそう言いながらも、抱きつかれるままに黒髪を撫でて『墓下の怪物』が赤ん坊のころから十数年も閉じ込められていた巣穴を見回す。

 かつての剣闘士の牢獄は大の字に寝れば手足がどこかへ当たるほど狭かったが、その三倍ほどある……三倍ほどしかない。

 今の下位剣闘士が使っている独房と同じ広さだが、日差しはほとんど入らない。

 通気口は横に細長く、高い位置にあって壁の厚みもあるため、わずかな西日すらほとんどさえぎられる。

 天井だけは高いが、それが余計に竪穴の底を思わせた。

 アンナはふと衛兵たちと目が合い、ヘルガが自分の胸元へ吸いついていることにも気がついて、ばたばたと褐色肌の下から這い出る。


「いえ、やはり、見られている中でやらかすのは、ちょいと別の芸当なんで」


 赤くなって頭をかき、並んで座るヘルガに照れ笑いを見せた。

 それでもまだ、あちこちと壁や床まで念入りに見回す。


「生まれてから、十年以上もここだけですか……」


 アンナは静かな表情でつぶやき、ヘルガはにっこりとほほえむ。

 十年以上、ただひとつ見える外の世界では、ほとんど剣闘の訓練と試合だけが行われていた。

 まれに演劇や、式典や、処刑も……大人でも手が届かない高さへよじ登れるようになるまでは、それらでさえ音だけのはずだった。


「今の領主様ともここで初めて出会ったそうですが、やっぱりそんな顔でごあいさつしたのですかね? もしや領主様も『こちらへ入りたがっている』ような顔をしていましたか?」


 ヘルガはじっと笑顔をアンナへ向け続ける。

 格子の外の衛兵たちは『領主が牢へ入りたがる』などという不敬な発言への対処を考えてマリネラの顔をうかがうが、とがめる様子はない。

 マリネラは『もうひとりの怪物』を前に困惑していた。

 マリネラがフマイヤへ抱いていた言い知れぬ不安を端的に言い当てられた気がする。

 近しい者でさえ察しがたいフマイヤの屈折した願望を『名無しの客引き娘』はいつの間にか把握していた。

 そしてもしこの独房が、ヘルガにとっては『入っていたい場所』だとしたら……初対面のフマイヤへ向けた笑顔も、今なお寝起きにもどる理由まで、説明できてしまうことに気がつく。



「どうも。お邪魔しました。ヘルガさんのことをいろいろ知ることができて、よかったです」


 アンナはヘルガとマリネラだけでなく、衛兵たちや牢番にまで腰低く愛想笑いを向けた。


「それでマリネラさん、お願いしていたもうひとつ……痛みどめ薬のほうなんですが、使えそうですかね?」


「検討しています。試合前の飲酒であれば、すでに一部は認められていますが……」


 酒も痛みを鈍くできるため、試合の公正を損なう懸念があった。

 しかし痛みが鈍るほど飲めば、激しい運動による酩酊もひどくなりやすい。

 火花で燃えかねない強さの火酒などをのぞいては、損得の差し引きが同じものとみなされて許可されていた。


「……痛みどめも含め、薬の多くは毒でもあります。仮に体質が合ってほかの悪影響がなかったとしても『痛みを止める効能』そのものが無理な動きの原因にもなり、傷の深刻な悪化を招きかねません。……それに、アンナさんが痛みどめを求めるということは……」


「ええ。あっしの膝は、悪くなっています。婆さま先生はさすがの名医様で、まったくもって釘を刺されていたとおりになっちまいました。承知の上で無理をしていましたが、さすがにもう、あと一試合をのぞいては、ぜんぶ棄権するつもりです。薬もその一試合きり自分の体をいくらかまともに動かしたいだけでして……いえ、ヒュグテ先生から言葉をもっと教わって、南の大陸と行き来する船で宝石や金塊のやりとりをお手伝いできる仕事だって楽しそうですし、ここへ残っておえらい様なんかの案内役をできるのも、あっしの身の上と戦績のしょぼさを考えりゃ破格のご贔屓ひいきですし、それでたまに闘技場の昔なじみさんたちとも会えたら、自分の生き暮らしとしちゃ贅沢すぎるはずなんですけどね……」



 マリネラたちは地下通路を引き返し、アンナは足を引きずって後を追う。


「マリネラさん、お願いしていた最後のひとつ……試合組みの予定なんて、そうそう剣闘士どもの好き勝手を聞いちゃまずいことはわかっているつもりです。でもそろそろ組まれてもおかしくねえ頃合にはなっている気もしますし、まともに戦えねえくせに試合へ出続けたバカタレの見せしめにもなりますでしょ? ……あ、そういえば、ヘルガさんの名前についての手がかりなんかも、要望の支払いに使えますかね? いえ、待ってください。別にあっしの要望がかなわなくても黙っている気はないんで、今すぐあっしを拷問にかけるのはやめてくださいね?」


 マリネラは表情を変えないまま、ひとつだけ確認する。


「なぜ、ヘルガさんとの試合を望むのですか?」


 アンナはあらためて試合相手を口に出されると、暗い苦笑を見せる。


「ほかに頼れそうな人がいるなら、教えてほしいくらいです」


 地上世界へ通じる階段の途中で、アンナは死神の巣穴へ羨むような目を向けた。


「あの人は生まれつき、なんでも持っていますからね。気の毒とは思いますが、あっしの都合で技をおぼえてもらっています。あっしも自分の体は大事にしたいところですが、ヘルガさんにはどうも、うわべの言葉は届かないらしいんで……マリネラさんにも、なにかの参考にはなりますよね?」


 マリネラは興行の売り上げ増減よりも、フマイヤの感情を動かせる試合の少なさを気にかけていた。

 最近のヘルガの試合は勝敗という以前に、戦意の薄さが以前よりも目立っている。

 ほかの剣闘士たちが意欲を上げている中でも、ヘルガは傍観に近い受け身の負けが多く、存在感が失われていた。

 ヘルガの意欲に関して、現在はアンナだけが動かしかたを知っている。


「それで、もしかするとマリネラさんなら、わかってくれそうな気もしたのですが……いえ、やっぱりこれはバッサリやられかねない失礼になるかもしれないんで、言わねえでおいたほうが……」


 アンナがうつむいて、照れたように自分の両手をからませて言いよどむ。

 衛兵たちは今さらなにを遠慮しているのかと思ったが、マリネラはじっとアンナの目の奥を見つめていた。

 護衛たちを先に行かせて人払いすると、無言のまま鋭い目を向けなおす。


「いえ、その……なんて言えばいいのか……あっしはどうも、無駄口でない話しかたは苦手でして。つまり……どうしようもねえやつほど、ほったらかしにできなくなることって、ありませんかね? それも自分しか、どうにもできねえやつだったりすると……」


 マリネラはかすかに眉をしかめ、少しずつ目をそむけると顔が赤くなっていた。


「できればこの手で師匠をぶっこわして、武芸なんかできねえ体にしてみたかったのですけどね」


 アンナの顔に、姉や母に対するような逆怨みや哀願は見当たらない。

 妹や娘に対するような心配の苦笑だけが残っている。



 次の競技祭では、やや変則的な日程が組まれていた。

 三日目の最終試合に現チャンピオン『鴉のブレイロ』が出場する順番は通例どおりだったが『赤虎タヌム』が初日に、それも最終試合のひとつ前に出場する。

 タヌムがまたも追加試合を含めて圧勝したあとで、客席の新人『砂鮫すなざめスビア』は首をかしげた。


「タヌムの姐さんはチャンピオンより盛り上がるのに、なんで今日の最終試合にしないんすかね? そのあとでなぜか、わけのわかんねえ組み合わせの試合を置いてますし?」


 中堅『黒鬼ブムバ』は興味もなさそうに不機嫌な声を出す。


「オレが知るかよ。わけわかんねえからだろ? 特にヘルガの野郎は、降参もしねえでほいほい負け続けやがってよ」


 隣の『青鬼ルネンバ』はブムバをなだめながらも複雑な顔をする。


「アンナのほうもぷつりと訓練に出なくなって、医者の手当てばかり受けていたはずなのに、また出てくるなんてね~え?」


 暗くよどんでいた空から、小雨が散りはじめている。

 客の一部が、ちらほらと帰る姿まで増えてくる。


「次の最終試合は、小剣使い『墓下のヘルガ』対、拳刃使い『名無しのアンナ』……試合場の清掃が済み次第に……」


 ルネンバは試合場の司会役を気の毒そうに見ていた。


「この島にしては珍しく、強く降りそうだね~え? よりによって、こんな試合で……長びかなきゃいいけど」


 ブムバは顔をたたく雨粒をにらんで口をとがらせる。


「おい、戦いも降参もしねえバカを相手に、同じことやらかすバカが組んだら、試合はいつまで続くんだよ? いつまでも続くんか?」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ