第十話 邪神の慈悲 十 悪霊品評
闘技場の内部上層にある執務室はよろい戸の窓が多く、日差しを調節しやすくなっている。
領主フマイヤとその側近たちは事務を一段落させて、蜂蜜を多めに入れたハッカ茶で一服していた。
「やはり私には、もうヘルガの命名に関わりそうな憶えはなさそうだが?」
マリネラもフマイヤに限って『ヘルガ』の件で記憶もれがあるとは考えにくかった。
アンナがなにか思いちがいをしているか、ヘルガのうなずきが特には意味のないものだったように思える。
しかし『ヘルガ』に関わることは、断定するほど見誤りやすい気もした。
軍務長官のアルピヌスは軽くきりだす。
「ヘルガさん本人に確認するのが一番では? 話せるのでしたら何度でも。フマイヤ様は変人の多い剣闘士たちとあれだけ話しておいて、いまさらヘルガさんにだけ遠慮することもないでしょう?」
「ふむ……しかし一度は尋ねたが……」
フマイヤが『その名は誰からもらった?』と聞いても、ヘルガは笑顔で壁をなでるだけだった。
「……あれは質問を理解した上で返答を拒否していたのか、保留にした上でこちらの示す見解を待っていたのか……?」
「考えすぎでは?」
アルピヌスが笑顔で即答し、居合せた衛兵たちに緊張が走る。
しかしマリネラは眉をひそめていたものの、小さく首をかしげて黙しているだけだった。
「フマイヤ様がずいぶん高く評されているので、私もヘルガさんについては見かたもいろいろ変わってきましたけど、あのかたになにかすごい才能があるとしても、人づき合いに不慣れで、話し下手なことまでは変わらないように思えますよ?」
「む…………? それも、そうか」
フマイヤは虚を突かれ、ゆっくりと認める。
「どちらかと言えば、フマイヤ様のほうがヘルガさんにだけ奥手になりすぎている気もします」
「むう……うむ……?」
時に老人じみて見える『悪魔公』が、アルピヌスに対しては年齢なりの若い当惑を見せ、マリネラは軽い嫉妬を覚えつつも、フマイヤの珍しい反応を集中的に観賞する。
「特段なにか拒絶されたわけでも、そうされそうなわけでもない。しかしなぜか、ヘルガとの接しかたは日ごとにかえって見失いがちだ」
「まるで初恋みたいな調子ですね? すでにあれだけ側室を迎えて、またひとり増えたばかりなのに……まあ、今度のかたは愛人づくりをはりきっておられますが」
「領主の婚姻は情と切り離して利用すべきものと思っている……が、存外と情を持てる相手に恵まれた。触れることはなくとも興味深い者もいれば、率先して支えに努めてくれる者も……特にアルポナは、私やマリネラでは気の配りにくいあたりで大きな助けになっている」
アルピヌスは妹を褒められて喜ぶが、会釈だけで流す。
「するとヘルガさんへの気持ちは、恋愛とは異なるのですか?」
「私は恋愛について考えた時間が少なく、どこまでを恋愛と呼べるものか、判断に自信はない」
フマイヤは自身の長短、とりわけ能力の多寡はごく淡々と認めて話すが、この時には少なくない自嘲も混じっていた。
「そうですか……でもヘルガさんをさっさと側室なり愛人なりに囲まないことは、みんな不思議に思っていますし、扱いに困っていますよ?」
アルピヌスの諫言は明るく率直すぎて、居合せた衛兵たちはそっと目をそらす。
「あくまで剣闘奴隷のひとり、という扱いでかまわん」
領主の明言を耳にして、衛兵たちはひそかに上司アルピヌスの功績を讃えた。
女性はすべて、領主と肉体関係を持った時点で世継ぎの母親となる可能性にも配慮される。
側室へ入らない愛人であっても、領主の縁者として庇護を受け、貴人に準じた敬意を払われる場合も多い。
しかし領主自身の指示であれば、自分がヘルガに襲われた際、奴隷と同様にたたきのめしても死刑にはならない。
過度に公正なフマイヤであればおそらく、降格などの懲戒すら禁じる。
「娼客も希望があれば同様に取引してくれ」
衛兵たちは口を固く閉ざしたまま『それはいくらなんでも』と思った。
仮にも領主との仲が噂になって、実際に親交を続けている女性がそのように扱われては、統治者としての体面にも差し障る。
剣闘士は騎馬と同じく『高価で管理の難しい』飼育動物であり、女剣闘士は特に、なまじな高級娼婦よりも寝床へ呼びつける代償が大きかった。
それでも物好きは多額の金品で、あるいは政治権力まで使って買い求めることがある。
フマイヤが興行改革をはじめてからは剣闘士本人の承諾が必須になったものの、いずれにせよ『ヘルガ』はどのような試合や売春の依頼でも断らないことで知られていた。
「それはいくらなんでも。というかフマイヤ様との噂が広まっていますから、また買い手を受け付けたとしても、みんな遠慮して……あれ? もしやまだ、ヘルガさんに触れたことはないのですか? 二年も?」
アルピヌスは主君の顔をうかがいながら呆れた声を出す。
フマイヤは自身が触れる相手を厳密に絞り、触れた女性についてはそれを知らない男性に触れさせることがない。
「公正という観点もあったが、まだわからないことの多い『ヘルガ』については、なるべく今の状態を変えたくなかった」
「やだなあ。恋愛よりめんどくさそうなお気持ちの向けかたですか?」
マリネラはふと『自分がフマイヤへ向ける気の持ちよう』と似ている可能性を思いつくが、それを口に出すわけにはいかなかった。
アルピヌスはマリネラが黙し続けている様子だけ確認する。
「みんなの言いなりでありながら、誰の言うことも聞かないあたりもヘルガさんらしい姿に思えます。フマイヤ様に何年も忘れられていたのも、今さらつきまとわれるのも、どちらも同じことでは?」
「むう…………ふむ……」
闘技場の中で剣闘士たちが入れる施設は増え続け、賭け札の券買所も格子ごしに石板の表示をのぞけるようになっていた。
しかし剣闘士に限らず、文字は自分の名前しか読めない者も多く、それすらわからない者も珍しくない。
それでも文字を読める者に尋ねたり、客の話し声を聞き取ったりして、自分と殺し合う相手を知ろうと立ち寄る。
「しゃっ、すんまっせん、オレの相手、わかりませんっすか?」
魚に似た顔の少女は黒鬼ブムバへすがったが、不機嫌そうにふりはらわれた。
「新入りの名前なんか読めっかよ。自分の名前でもごちゃごちゃしてっと埋もれやがるし、相手が上位陣でなけりゃどうでもいいのによ……おいルネンバ、オレの払い戻し、あれって安いほうだよな?」
青鬼ルネンバは目をこらして数字を読み、あまり自信のない記憶をたどる。
「そうだねえ。相手が中堅以上ではなくて、新人の時に見るような低さらしいねえ?」
「じゃあ楽勝か。ていうかおい新人、相手はおめえじゃねえのか? 弱そうだな? 見た目だけでいいから鍛えておけよ? だめなら武器だけでも目立って変なものを持ちこめば、勝ったオレも少しは見ばえするから、よく考えておけ」
ブムバは無愛想に、やせた新人の胸をどんとたたく。
「え。あの、本当にオレが相手っすか?」
「だから知らねえって。オレは明日の午後で最初だから、当たりそうならどうにかしろ」
ルネンバはブムバの一方的な受け答えを聞いて、新人に同情する。
「ちょいと新人ちゃん、アンタの名前はなんていうのさあ? アタシに読めるかどうか、わかんないけどさあ」
「しゃっす、スビアっす。『砂鮫スビア』で呼ばれてるっす」
「ああ、初戦でかみついて勝った新人がいたとか……ス……ス? え~と……」
ルネンバは石板へ目をこらすが、首をひねって迷う。
ブムバはすぐにあきらめた。
「というかおめえ、自分の名前くらいは読めるようになっておけよ。草とか動物とか、似たような形を思い浮かべるのがコツでよ、それを順番どおりに頭へたたきこめたら、忘れないうちは少しだけ便利だしよ」
「あれ……ではない気がするねえ? でも……」
迷うルネンバの前に、すっと指がのばされる。
「ん? ……ああ、たしかにあれは『ス』と『鮫』っぽいねえ? なら新人ちゃん、アンタは初日の夜明けだあ。相手はわからないけど、そんなに強い相手じゃないさあ」
ルネンバがふり向くと、新人スビアだけでなく、指をのばしていた『墓下のヘルガ』まで目に入った。
ヘルガは何気ない表情で、ぼそりと声を出す。
「ジュリカ」
「あっ、知ってるっす! 『人狩りジュリカ』が相手っすね!? あの短戟使い、動きはいいのにやる気ないんでっ、無理はしないでも生きられそうっす! どうも助かりました姐さんがた!」
新人は喜んで駆け去る。
ルネンバも立ち去りたかったが、ブムバはヘルガへ声をかけてしまう。
「そういやおめえ、前から字を読めたよな? 剣闘士でまともに字を読めるやつなんざ、アメリくらいだと思っていたがよ。呪術士のババアが書き散らしていた呪文なんざ、本人も読めねえデタラメだったらしいし……おい無視すんなって」
ヘルガは少し笑顔を向けただけで立ち去り、ブムバもわざわざ追いはしない。
ルネンバは嫌な予感がして背後を確認すると、小柄な領主の側近に肩をつかまれてしまう。
「少々お話をうかがいたいのですが……『前から』とは、ヘルガさんはいつから文字を読めていたのでしょう?」
影の領主とも噂されるマリネラは頭を抱え、あまり余裕のなさそうな笑顔を見せていた。
ブムバとルネンバはほとんど強制的に衛兵の詰所へ連れ去られる。
しかし茶と茶菓子をふるまわれ、話を聞かれただけで退室を許された。
ところが戸口を開くと、目の前には壁がある。
視線を上げても、頭のように大きな両乳房までしか見えない。
首どころか胸元まで戸口に隠れ、潜りこむように入って来た巨体は直立すると天井に髪が押しつぶされ、つむじがほとんど接していた。
黒人の女教官ヒュグテは戸を開けた相手が衛兵ではなかったことに気がつくと、軽く頭を下げて退室を妨げた非礼を詫び、体をどけて手ぶりでも通路を譲る。
侍女の少女は新たな客人への茶をいれて来た。
「マリネラ様つきの侍女を務めているデルペネと申します」
デルペネの体格は細く低めだが、勝気そうな顔つきと大きくうねるくせ毛で、質素な化粧と飾りでどうにかまとめている。
ヒュグテはかすかにうなずき、差し出された茶をつまむように飲みほした。
侍女デルペネはブムバたちの退室を確認してから首をひねる。
「ヘルガさんとなじみだった娼客に、わざわざ字を教えるような物好きがいたのでしょうか? 何度も通えるほど裕福なかたは少ない客層だったようですが……それといくらなんでも、訓練をはじめたころから石板の記述を読めていたという噂は、誰かの読みあげを耳にしていただけに思えます」
「当時の移動範囲である地下牢と試合場、およびその連絡通路から見える文字を考えると……貴賓席の旗などには図柄のほかに文字が入っているものもありますが、それだけで足りるとは思えません……演劇や公開処刑、式典などでは儀礼で書かれている文字も多いですね?」
『地獄の島』では木を薄く切った木簡が記録や書状に使われるほか、樹皮や石板も書きとめや連絡に使われているが、文字が使われる場所は限られていた。
文字を読める者が少ない場所では、表示も図柄が中心となる。
「あの、マリネラ様? ヘルガさんの目がどれほどよくても、文字が『見える』だけで『読める』ようにはならないのでは?」
「文字を読む声も聞き取れて、その時の視線も追えたなら……多くの言葉を見比べるうちに、読みの法則を推定することも不可能とは言いきれません。いえ、もちろん私では解読までに何年もかかりそうですが、素質によっては……」
ずっしりと黙していた教官ヒュグテはマリネラに視線を向けられ、ボソボソと低い声を出す。
「私もまだ読み書きはおおよその発音と、いくつかの名前しかわかりません」
侍女のデルペネは、ヒュグテがたった二ヶ月前まで、言葉がまったく通じなかったことを知っている。
マリネラはかなり広い言語を学び続けていたが、複雑な交渉にまで使える言語は数種に留まっていた。
デルペネもマリネラの補佐役として言語を増やす努力はしていたが、習得にはマリネラの何倍も時間がかかってしまう。
そんなマリネラでさえ、ヒュグテの学習の速さには驚き、格別の敬意を払っていた。
「ヒュグテさんは、近隣部族の言葉を数年で数十も使いこなせるようになられたとうかがっております」
ヒュグテは重々しくうなずき、表情はわずかほども動かさない。
「故郷の周辺では共通する言葉の特徴があり、互いの言葉を使って教え合える相手も豊富でした。そうして数十の言葉を身につけることは、仕組みの大きく異なる言葉をひとつ身につけたり、生まれて最初の言葉を自分ひとりで身につけるより、はるかにたやすい試練かもしれません」
デルペネは簡単な案内をできる程度の言葉でも、数ヶ国語を身につけるまでに何ヶ月もかかり、それもまだ多少の粗相は許される相手にしか使えない片言であるため、なにが『たやすい』のか理解に苦しむ。
「文字の読み書きとは別の試練になるかもしれませんが、会話に関する限り、戦士アンナは私よりも賢者の天性に恵まれているかもしれません」
マリネラは仮面のような笑顔で聞いていたが、デルペネはとまどいの硬直を察する。
「彼女は一ヶ月で私の部族の言葉をおおよそで聞き取れるようになり、私がこの島の言葉を身につける大きな助けとなりました。彼女は様々な部族の大群の中で会話を頼りに育ったことで、言葉や風習の通じない地で生きぬく強さは私よりも勝っているようです」
「アンナさんには、そのような素質もありましたか……」
マリネラは『名無しのアンナ』が訓練中とその前後でヒュグテへ延々と話しかけている姿を見かけて、てっきり迷惑がられているものと思っていた。
いっぽうデルペネはヒュグテの体格であれば、言語など関係なくどこでも生き抜けそうに思えたが、黙っておいた。
「戦士ヘルガは、さらに素早く言葉を身につけているかもしれません。確信はありません。しかし私の部族の言葉を知っているかのような表情を見せたことがあります」
デルペネはヘルガを嫌っていた。
気まぐれに凶暴なふるまいを見せる狂人でありながら、たちの悪い偶然か、飛びぬけた美貌と無邪気な表情が備わっているばかりに、人格や才質に過剰な期待を持たせて迷わせがちな怪女に思えた。
そのような自身の見解は、そのままマリネラへ伝えたこともある。
マリネラは笑顔で『冷静な分析』と評しながら『私にもわかる正しさしかありません』と奇妙な苦言をつけ足した。
「戦士ヘルガは悪霊憑きの子供のようであり、年経た賢者のようでもあります。戦士アンナと似ています。ふたりは心を風のように相手へ預けてしまい、生きながらに悪霊のようです。そのためか、人ならざる深さで言霊や武勇を吸い取るように感じます」
デルペネはヒュグテの言う『悪霊』がどのようなものか理解しかねるが、蛮族の迷信と決めつけて軽視すれば、それこそヒュグテの理知を察しえない野卑な頑迷にも思える。
かといって『ヘルガ』の奇行こそが正しいものと讃えるくらいなら、自身は凶暴な狂人として蔑み罵られたほうがましにも思える。




