第十話 邪神の慈悲 三 不具の達人
訓練場を出たアンレイは身だしなみを整え、闘技場にも近い領主の居館へ向かう。
塀越しに見える高い樹木はナツメヤシで、痩せた土地でも栄養豊富な果実をたくさん実らせ、葉や樹皮は敷物やかごなどの編み物にも使えた。
庭の中まで入れる男性は衛兵でもごく一部に限られ、女性のアンレイもまだ島へ来て日が浅いため、領主の腹心アルピヌスにつきそわれて案内される。
「助かっておりますよ。各地から武芸者を招待するようになって以来、マリネラ様まで急に腕を上げて、いい相手が減っていました。もはや私のような凡人では、まるで相手が務まりません」
「私がもし暗殺者なら、貴方は並の剣闘士よりも危険だと判断します。貴方のような護衛が三人いれば、ふたりは斬られながらでもしがみつき、ひとりは仲間ごと刺してくるからです」
「アンレイさんの怖いところは、暗殺する必要などなくても襲ってきそうなところです」
アルピヌスが明るい苦笑で暴言をもらし、いっしょにつきそっていた侍女たちは呆れかえるが、アンレイはうれしそうに口元をおさえた。
「フッフフ! まさか貴方がそう見抜いてくださるとは……いえ失礼。良い意味で、そのようには見えない穏やかな居ずまいでしたので」
「周囲に物騒なほど才能にあふれたかたが多いせいで、才能以外のあら探しで自分をなぐさめるくせがついているかもしれませんね」
殺伐とした剣闘士たちと、狂気の『悪魔公』と、その懐刀マリネラが並ぶ風景でも、アルピヌスも立っている限りは、どこか全体に人間味をおびて見える。
この島の統治はフマイヤとマリネラで互いを支え合っていたが、その苛烈な剛腕を多くの『才能が足りない』臣下たちへなじませている要衝が、この気さくで気の抜けた高官……そのようにアンレイは感じていた。
そして『悪魔公』とマリネラの真価は、アルピヌスという人物の作用までも評価し、配置へ組み込める鑑定眼かもしれないと思い当たる。
アンレイはそれでもつい、マリネラにはそんな才質すら余分だと感じてしまう。
指導でマリネラと手を合わせていれば伝わってくる。
演習でありながら常に死力をつくし、必殺の集中力をしぼりきって食い下がってくる。
獰猛なまでの観察力と分析力で、それなりの武芸者でさえ一ヶ月ともたずに技術を奪いつくされていた。
しかし……それらを活かしきれる体格と体力だけが欠けている。
常人なみの背と息であれば……もしその片方でもあれば、この島の女剣闘士をすべて圧倒しうる資質だった。
もしその両方が克服されたなら……アンレイはそれだけを望んだが、マリネラほどの人物がいかに努力しても、それらだけは得られなかった。
マリネラは護衛隊長や訓練教官としては、すでに一流以上と言える。
しかし武芸者としては……試合場であれ戦場であれ、二流の相手であろうと逃げまわられたら対応に窮し、防戦して粘れる熟練者が相手となれば、さらなる不様をさらすしかない。
領主の側近たる機能しか持つことを許されない、呪いのような体質だった。
「実に……惜しい」
アンレイは次々と技術をさらし、好きなように盗ませる。
全身を連動させ、無駄のない最速最短で攻防の効果を高める肉体の操作方法。
相手の動きに合わせ、腕力の差を奪う身のこなし。
肉体構造を利用した投げ、絞め、極め。
……それらの吸収が早いほどに愛おしく、悲しい。
アンレイは『地獄の島』へ渡った当初、フマイヤをうわべでしか『雇い主』と見ていなかった。
それも見抜かれている様子だったが、なおも平然と厚遇してくるので利用価値は高かった。
そして『狂気の名君』はアンレイを雇う際に、まだ聞いてもいない『アンレイの望み』がかなうように努力し続けると、奇妙な『約束』をした。
アンレイは多くの新人に混じっていたアンナを見つけた時、そしてヒュグテという逸材を目の当たりにした時、その『約束』には呪術じみた実効があることを認める。
本心からの畏敬も抱くようになった。
しかしまだ足りないものが多すぎる。
だからマリネラへ、できる限りをたたきこんでおく。
マリネラは精神面でも武芸者として一流の資質を持っていながら、自身をどこまでも『フマイヤの補助』としてつきつめる執念のほうが上まわる。
しかしそれが人の域を逸脱しているために、アンレイが探求する人材の発掘と研磨には最高の手駒だった。
そしてそんな意図すら説明しないでも察している様子で、利用し合える関係を進んで引き受ける目の前の気迫に、本心からの敬愛も深まっている。
「あまりに……惜しい」
普段は本心を読みにくいアンレイが指導中にだらしなく未練の言葉をくりかえし、見守る衛兵たちは妙な艶かしさをおぼえた。
「どうしても今でも、マリネラ様の命を奪いたいうずきにかられます」
囲んでいる衛兵たちが見えていないかのような告白まで漏れ聞こえてしまい、マリネラも眉をひそめて苦笑する。
「光栄です。しかしフマイヤ様の『約束』に疑問を持っていない限りは、早まらないでください」
呼吸の限界に達したマリネラがふらりと崩れて片膝をつき、その細い首にアンレイの剛足が襲いかかる。
マリネラはまともに動けない。倒れるようにのけぞってかわしながら、木剣でアンレイの軸足を薙ぎ、投剣を首へ放つ。
薙ぎは跳んでかわされ、投剣も打ち払われてしまう。
しかしアンレイはそのあがきへの評価も含め、心からの笑顔を地面へこすりつけ、横たわるマリネラへ礼を示し、指導を終了させた。
アルピヌスはその姿に、あまりに完成された生きかたの見事と、あまりに欠落した人間らしさの悲哀を感じる。