第八話 地獄の産声 十一 可憐な泥沼
アメリは体を起こすが、へたりこんだまま絶望しきった顔をさらす。
審判ヒルダも、観客も、剣闘役人も、もう『可憐なるアメリ』は壊れきったと感じた。
フマイヤとマリネラも手詰まりを感じていた。
今からでも腹心ゼペルスが長年の功労と引き換えに孫娘の恩赦を願い出て、アメリ自身も懇願すれば、身代金を重く課して鞭を打つなどして、公正を補う手段もあるかもしれない。
しかしふたりは正気を失ってなお『罰の厳格な執行』だけは撤回しない。
彼ら自身を追いつめている強固な律儀は、島を繁栄へ導いたフマイヤの病的な公正さに従いつくした結果だった。
幼いころのフマイヤは、父が重篤になって実母も失くして以来、自分やマリネラの護衛を任せて安心できる者はゼペルスとアルピヌスだけになっていた。
それ以前からも父フラドルバは政務と闘病しか頭になく、すべての妻子を道具のように冷たく見ていた。
ゼペルスは実父の代わりにフマイヤの成長を見守って褒めちぎり、あわてふためいて心配し、心苦しげにいさめもしてきた。
『フマイヤ様のために不埒者と刺し違えるなら、文句もない死に様でしょうなあ?』
幼いフマイヤを守るためであれば、相手が重臣や領主の側室であろうと強情ぶりを見せつけ、手出しをはねのける気概を見せ続けた。
それが娘や孫娘と向き合えない罪悪感を元にした執着であろうと、フマイヤにとっては実父よりも恩を受け続けた実感が濃い保護者だった。
玉座のフマイヤは肘掛けを握りしめて動揺を隠し、傍らのゼペルスを見つめる。
老人は憔悴しきって不様に涙ぐみ、体を震わせながら、かすかに笑ってさえいた。
「私の孫娘は……育てば、あのように美しくなりそうでしてなあ?」
正気だったころのゼペルスの意志を裏切ることになるが、領主の権限で強引にアメリを救い出し、公正の示しは別の形でつける……その検討はマリネラと何度も重ねていたが、踏み切れない原因もまた、ゼペルスの意志にあった。
かつての威厳を失った今なお、助命ではなく観戦に執着し続ける異様は、本当にただの狂気なのか?
迷うフマイヤへ、連絡役が近づく。
「またしても『墓下のヘルガ』が控え室でもめごとを起こしました。今回は衛兵を突き飛ばした程度ですが……」
「出場を嫌がっているのか?」
「いえ、『呪術師ホドゥカ』の時もそうでしたが、むしろ出場を急いでいるようです」
フマイヤは『呪術師ホドゥカ』に破れたアメリが不様にいたぶられ、客席にあふれていた失望感を思い出す。
その後で急にヘルガの試合が開始され……残虐な勝利は罵声を集めたが、そうされるだけの関心も植えつけていた。
今のアメリから渦巻く息苦しさはさらにひどい。
「試合の開始は……」
フマイヤは直感的に開始を早めたいと思ったが、休みをとれないアメリが不利になってしまう。
「……アメリの同意を得られるなら早めてくれ」
試合場へ言伝が届けられると、アメリは悪霊のように笑い出す。
なにかをわめいているようだが、観客の騒がしさで聞き取れない。
試合を急かしていることだけはわかった。
演出などは短く切り上げられ、入場して来たヘルガはアメリだけをじっと見ていた。
頭の奥までのぞきこむように、見つめたままゆっくりと近づく。
そんなヘルガを凝視するアメリは、自分へ捧げられた生贄を愛でるように凶暴な笑顔を向けていた。
審判ヒルダは開始前の口上など両者に無視される気配を察し、紹介も省いて開始の準備に入る。
合図が出たかどうかでアメリが飛び出し、獰猛に襲いかかった。
粗い乱撃だったが、きわどく踏みこみ、思わぬ角度から鋭い蹴りや拳を混ぜこむ。
審判ヒルダは寒気がして大きく距離をとった。
技術や経験とは別に『戦ったらまずい相手』のにおいがする。
もし自分が対戦していたなら、観客の目などおかまいなしに手足をせこく刻んで、可能な時に首や腹への一撃でとどめを刺さないと、逆に自分が殺されそうな危うさ……救えなかった魂が、魔物を生んでしまった。
フマイヤには意外なほど、ゼペルスは冷静に呆けたように観戦している。
「あの太刀筋と立ち回りは、私とよく似ています……」
若いころの血気盛んなゼペルスは、乱戦を得意としていた。
敵が多くて味方が少なくても、あるいは自分ひとりでも、迷いなしに飛びこんで暴れまわり、優位と思いこんでいた相手の出鼻をつぶし散らす。
大型船の海賊に襲われた時も、自分ひとりで複数の相手へ次々と襲いかかってひるませ、どうにか戦線を保った。
しかし息を整えたわずかな時間に、すっと冷静になる。
同じ無茶をもう何度もこなして生きていられるほど、幸運は続かないと察した。
少しは押し返せたが、数ではまだかなり不利だった。
そのうち押し返されて、兵は皆殺しにされ、自分も死ぬ。
賊の侵入路である渡し板は何枚もかけられていたが、空いている一本が目に入った。
どうせ死ぬなら。
仲間と船を逃がせる可能性に賭け、もう会えない妻子へ、自分が遺す恩賞を届けてもらったほうがいい。
そう思った時には「かまわず船を引き離せ」と言い残して相手の船へ渡り、まだ甲板に残っていた賊たちへ踊りかかっていた。
囲まれる前に甲板下へ飛びこみ、暗い船倉を逃げまわる。
奴隷がいれば解き放って味方につけたい。
追手をひとり斬り伏せ、物音を探るが、天井の甲板が騒がしく、それらしい気配は見つけられない。
それなら火でもつけて混乱させてやろうと、火口かその代わりになるものを探したが、ろくなものがない。
ふと気がつくと意外にも、後続の追手がいまだに来ない。
ひとり斬られたことで慎重になり、身を潜めて不意打ちでも狙っているのか?
ゼペルスも物陰に隠れたまま動きにくくなる。
たった独りで息を整える時間ができてしまうと、余計な思いもわいてくる。
このまま味方の船が脱出できようとそうでなかろうと、自分だけは多くの海賊に囲まれて殺されるしかない。
まだ死にたくない。
理不尽なことに、死ぬしかない状況へ自分を追いこんでから、恐怖を感じはじめてしまった。
弱気をごまかしてふたたび暴れるために、誰かを斬らねばならないあせりを感じる。
背後の物音にびくりとふり向き、潜んでいた足元の人影へ不様な斬りつけかたをしていた。
まだ立てるようになったばかりのような幼い女児が、顔へ刃をたたきつけられて呆然としていた。
傷は浅くないが、死ぬほどでもない。
しかしその時のゼペルスは『かわいそうなことをした』とは感じなかった。
自身の娘と同じような小さすぎる体を恐ろしいと感じつつも、その頭を抱えこむと『楽に殺せる相手でよかった』と思ったし、そう思った時には首を裂いていた。
不意に甲板から味方の衛兵が続々と入ってきて、ゼペルスはそれきり誰とも戦わないまま助かってしまう。
ゼペルスが相手の甲板にまで渡って暴れたことで、衛兵も海賊も形勢を勘ちがいする者が増え、ゼペルスの勇姿に奮起した衛兵たちは逆転を実現し、英雄を救出するために競って敵船へ乗りこんでいた。
その後のゼペルスは昇進を続け、人望も集め続ける。
ゼペルスは衛兵隊でも随一の古豪と呼ばれ、前領主フラドルバとその長子フマイヤの信任も厚かった。
孫娘のアメリも幼いころから侍女としての出仕を期待されていたが、ゼペルス自身が護身の技術を教えることは一度もなかった。
孫娘の誕生日などには贈りものをふんだんに届けさせながら、顔もまともに見ないで、目をそらし続けた。
アメリは幼いころから祖父へ敬意を払いつつも、どこか得体の知れない不気味さを感じていた。
祖父が家族へ示す愛情は表向きだけで、フマイヤへ示す忠節はどこか病的に見えた。
祖父の名声で親類縁者の多くが恩恵を受け、自分も領主の後宮つきの侍女にまでなれたが、その境遇をどこか空虚に感じていた。
そんな心の隙間へつけこんで、フマイヤの第五夫人は『暗殺』ではなく『重い病身の領主様には静養していただく』という名目で、統治権限の委譲……謀反計画への協力を頼みこんできた。
アメリは自分がどこまで騙されていたのか、どこまで気がつかないふりをしていたのか、判断がつかない。
心のどこかではフマイヤを陥れるか、あるいは自身がその咎を責められることで、祖父の本当の表情を見たがっていた気もする。
しかし祖父は顔のないバケモノのまま、家族の記憶まで失ってしまった。
アメリはもはや、自分の愚かしさを笑うしかない。
一族を威光で支配する祖父に、漠然とした期待をかけ続けていた。
すでに心の一部が欠けていた老人に、大きすぎる願望を抱えてしまった。
失望と絶望、孤独と恐怖の底へ落ちてみて、ふと気がつく。
他人へ振る刃は楽しい。
『海賊狩りのゼペルス』の身内は、武芸と勇壮を期待され続ける。
女子のアメリまで家風に従っていたが、本心では好きになれなかった。
それが今、こんな時になって、はじめておもしろいと感じる。
乱撃を受けきる『ヘルガ』は自分と互角か、調子によっては格上と感じる相手だったが、思ったとおりに打ち崩せる。
今まで心がけていた堅実さを捨ててみると、なにをすれば守る側が嫌がり、どこから不意をつけるか、肌が勝手に嗅ぎとり、攻め筋を伝えてくる。
それを活かしきれない鍛錬不足の肉体がもどかしい。
噂に聞く祖父の戦いぶりは、このような技能だったのか?
わずかに視界へ入った貴賓席では、祖父や領主が呆然とした顔を見せている気がした。それもまた、おかしくてしかたない。
このような非道蛮行を楽しむための見世物だろうに。