第二話 恋ならば紅く染めて 一
「灰色髪のグレース!」
その少女の髪は男のように短い。
ひきしまった褐色の体は四肢が長く、背も男の平均に近い。
「傭兵グレース!」
革のサンダル、袖なしの羽織。
胸と腰へ巻いた布は踊り子のように細く、防具らしい装備は革の小手とすね当てだけ。
「巨剣のグレース!」
かついでいる武器は刃のない石剣というより、握りのついた石板だった。
身長ほどの長さ、頭ほどの幅、手首ほどの厚さで、長細い墓石にも見える。
灰色髪の少女は闘技場の声援を見渡すと、巨剣を肩で跳ね上げた。
持ち主よりも重そうな、武器と呼ぶには大雑把すぎる石塊。
それは客席まで届くうなりと共に試合場の砂を巻き上げ、少女と舞って何度も旋回したあと、ふたたびふわりとその肩へおさまる。
そのあとで少女が見せた得意げな笑顔は嫌味がなく、客席を歓喜にわかせた。
大きな目、厚めのくちびる、可憐にして精悍な顔つき。
奇跡の才能『完全なるジーナ』が失われて以来の暗さが薄まりつつある。
『地獄の島』は貪欲に新たな踊り手を求め続けていた。
「あの細い体で、どうやってあんな石板を……?」
着飾り肥え太った中年貴族ドネブもまた、グレースの爽やかな気風に魅入られる。
「腕力もありますが、重心の変化を捉えた位置どりも正確です」
領主側近のマリネラはよどみなく答え、仮面のような笑顔は変わらない。
「成長が早い。もうチャンピオンに挑戦してもいいころか?」
フマイヤが目を細める。やせぎすの全身に巻いた包帯で、表情を読み取れる部分は少ない。
「やはりジーナにはおよばないが……ああ、ドネブどの。先日はもうしわけないことをした」
そう言いながらも試合場からは目をそらさない。
「いえ……同盟締結は快諾していただけたので、わが主君への面目は立ちました」
ドネブは愛想笑いを見せつつ、ジーナの名でこみあげる心痛は隠せない。
「あの剣闘士も、ずいぶんと客に好かれておりますなあ? 元は傭兵とか」
「本人は『山賊まがい』と言っていますが、兵士としても優秀です。しかし司令官には不向きかもしれません」
ドネブはジーナの代わりを得る期待までマリネラに見抜かれ、苦笑する。
歓声の中、グレースは急に表情を険しくした。
「あんたなんかが、ジーナさんに勝てるはずがないんだ……ただのまぐれだって、思い知らせてやる!」
かまえた巨剣の先には、黒髪褐色肌の女が立っていた。
観客がどよめく。
「グレースにしては珍しく、ケンカ腰だな?」
「『あれ』を嫌わないやつがいるかよ?」
「グレースの言うとおり『あの野郎』が生きているほうがおかしいんだ」
「みんながジーナに集めていた期待を台無しにしやがって……『悪魔の娼婦』め!」
「領主の女だ。汚い手を使ったに決まっている」
「呪われろ『死神の落し子』……」
「いまいましい『狂犬』が!」
褐色肌の長身、厚めのくちびる、大きな目、整った顔などはグレースと共通している。
しかし背は拳半分ほど高く、胸や尻も豊かだった。
顔だちは柔らかく、表情と仕草はぼんやりとつかみどころがない。
なにより、観客の期待が違う。
「くたばれ『ヘルガ』!」
「死んじまえ!」
「殺せ!」
「つぶれろ!」
「『ヘルガ』をたたきつぶせ!」
領主フマイヤは深くうつむく。
「ヘルガ……」
肘当てを握りしめて震える。
「ヘルガ、ヘルガ…………ククククッ! 『思い知らせてやる』のはおまえのほうだ……なあ?」
片手を上げ、試合の開始をうながす。
「かわいがってやれ、『愛しのヘルガ』! グレースは期待の若手だからなあ……ヒヒヒヒヒヒッ!」
マリネラが金色の小手を高く上げる。
試合場の端にいたボロ着の中年女は見上げてうなずく。
貴賓席の近くにいた大男が大鎚を振り上げ、重い鐘の音を響かせた。
灰色髪がつんのめるように突出し、置き去りにされかけた石塊があとから追いかけ、豪風となって追い越し、十歩の間合いがあったヘルガの胴を薙ぎにかかる。
ヘルガは半歩下がって上体を引き、拳ひとつの間合いでかわす。
突進へ転じようとした直後、跳ねるようにのけぞり、大きく飛びさがった。
すでに迫っていた巨剣の二撃目が、足の甲すれすれにうなりを上げる。
着地したヘルガのサンダルは革紐が一本、断ち切られていた。
「一瞬でも遅れていたら、片足を砕かれていたか……アイシャ! 現チャンピオンとしては、あの巨剣にどう対処する!?」
試合場から目を離さないフマイヤに代わり、側近のマリネラが剣闘士席の最前列へ細い目を向ける。
「仮病で逃げるに決まってんだろ」
隻眼赤毛の酔っぱらい女はこっそりつぶやき、隣の巨体女『熊のプレタ』はげんなりした顔で聞かなかったふりをする。
その隣の小柄な『鼬のコルノ』も顔をそらしていた。
「どうもこうも、あのデカブツぶんまわしたあとの隙をつけりゃ、苦労しませんがねえ?」
アイシャはぼやくように解説しながら酒壺をあおり、目だけはグレースの手元を追う。
ヘルガはふたたび二連撃をかわすと、試合場の端へあと数歩まで追い詰められていた。
巨剣は踊り続ける。グレースは全身のバネで刀身へ追いつき、石塊の軌道を誘い入れ、豪風を生贄へ導く。
しかし三度目となる二連撃は、わずかに速度が落ちたように見えた。
ヘルガは刃のついた拳をのばしかけ、ふたたび直後に引っこめる。
ガギリと火花が散り、はじき上げられた拳刃の先がへし曲がっていた。
二連撃から、さらに小さな振り上げを加えた三連撃だった。
アイシャが舌打ちする。
「あの間合いの広さに、受けようのない重さだ。そいつを二連、三連と使えるようになっていやがりますからねえ?」
ヘルガはもう片方の拳刃で追撃していた。
グレースが巨剣の重量に振り回され、無防備な背を向ける瞬間。
しかしその背を隠すように石板がすべりこみ、刃は目標を失う。
「なによりグレースちゃん自身が短所をよーくわかっていて、振りを使い分けるわ、盾がわりにも使いこなすわ……」
ヘルガの一歩後ろまで壁が迫り、観客がわく。
「もう逃げられねえぞ!」
「壁を派手に飾ってやれ!」
「クソ! ここからじゃ見えねえ!」
グレースの頬は紅潮し、嬉々とはじけていた。
アイシャは酒壺を止め、冷徹な表情を見せる。
「正直なところ、だまし討ちが一番。それもできなくて、どうせいちかばちかなら……とびこまないで『つかまえ』ますかね?」
プレタとコルノは首をかしげる。
「あとは八百長しかねえ」
小声の補足を聞かされた中堅のふたりはふたたび無視に努めた。
巨剣が低く息を吐き、一段と速く薙ぎつける。
壁に両肩をつけるまで逃げれば、背骨を残して臓物を飛ばされる軌道。
ヘルガは真横へ踏みこみ、石板へ拳をたたき落とす。
速さはほとんど落ちない。
しかし剣先は膝下まで落ち、斜めになったぶん、届く範囲は短くなり、革のすね当てを裂くに留まる。
骨は見えなかったものの血しぶきが飛び、よろめいた。
グレースの顔にあせりが浮かぶ。
上半身を大きくひねり、力技で二撃目の旋回につなげる。
狙いは正確だが、一撃目ほど速くない。
ヘルガがゆらりと身をひねると、巨剣は黒髪の先を散らして空を切る。
フマイヤが肘かけを打った。
「なるほど……受けることはできなくとも、軌道をわずかでも乱せば、あの重さは持ち主の『敵』に変わるか!」
アイシャはため息をつき、酒壺をかたむける。
「な~んであのカラッポ頭が、アタシと同じ考えにいきつくかねえ?」
やはり目だけは、いつか敵にもなりうるふたりを見据えている。
「もっとも、あの剣先をとらえるだけでも、かなりの腕がいる。おまえらは戦うふりして命ごいが正解な?」
プレタとコルノは素直にうなずいた。
グレースは片膝をつき、地面すれすれまで上体をねじり、巨剣の滑空を強引に維持する。
「ぐ……う!」
手首が無理な角度に曲がり、顔がゆがんでいた。
そこまでした三撃目も、ヘルガの一撃をかすって止めるだけで、ついにグレースは巨剣を手放す。
不意をついてヘルガの両手首を握り止め、力比べに持ちこむ。
「どっちも細身の馬鹿力だけど……グレースが少し、分が悪いかな?」
巨体女『熊のプレタ』がつぶやく。
グレースの胸に刃先がじわじわと近づいた。
ヘルガの表情に迷いはない。
灰色髪の少女は悔しさで顔をゆがませ、にらみ続けていた。
「う……くっ!?」
胸元にめりこんだ刃先が血を伝わせはじめ、ようやく視線を落とす。
「降参……する!」
客席に落胆の声があふれた。
「グレースが降参を宣言した! ヘルガ! 生かしておけば倍の賞金だ!」
試合場の隅にいた小柄な中年女が、よく響くガラガラ声で叫ぶ。
しかし力比べは続いていた。ふたりの息切れがひどい。
審判女は近づいても数歩の距離を保ち、敗者の救援には入らない。
グレースは動揺する。
勝ちの確定した状況で、倍の賞金を捨て、とどめを刺す選択がありえるのか?
深く青い瞳の表情は読めない。
グレースは死を意識したが、胸にめりこんだ刃先は止まっていることに気がついた。
ヘルガの目も、どこか鋭さが抜けてくる。
そう感じたところで、不意に刃が遠のいた。
ヘルガはあっさりと背を向けて歩き出す。
「おいヘルガ! グレースの降参を認めるのか!?」
審判役は追いすがるが、ヘルガは試合場へ迷いこんでいた蝶を目で追った。
「『十歩』の間の戦闘放棄は、降参を認めたものとみなすぞ!?」
小柄な審判女は大またに歩き出す。
そして等間隔に十歩を刻んでから、大声でがなる。
「『巨剣のグレース』の降参により、『愛しのヘルガ』の捕獲勝利!」
客席の気落ちが深まり、いくらかの声援がグレースに、いつもの罵声がヘルガへ向けられる。
入場門から衛兵たちが飛び出し、勝者の護衛と敗者の確保へ向かった。
グレースは歯がみしてヘルガの背をにらんでいたが、やがてうつむく。
「ジーナさんに勝った……だけはあるな」
そう言った時には、かすかにほほえんでいた。頬もいくらか赤らんでいた。
小さなつぶやきなど誰にも聞こえるはずがない喧騒の中、ヘルガの足が止まる。
青い瞳がふり返り、ほほえんだ。
グレースはとまどったが、はにかんで笑い返す。
「いかん……衛兵!」
貴賓席でフマイヤが叫び、マリネラも鋭い手ぶりで指示を出す。
「はーやく逃げろー。試合のあとじゃ、やられ損だぞー?」
アイシャは嫌そうにつぶやいた。
試合場の衛兵は確保していた敗者のグレースへ一斉に背を向け、護衛の対象に変える。
グレースはその理由をわかっていなかった。
「……え?」
気がつけばヘルガはグレースを見つめたまま、目の前まで迫っている。
刃のついた両拳をゆらりと持ち上げた。
衛兵は一斉に槍先をヘルガへつきつけ、捕縛対象に変える。
「ヘルガ! 降参が確定したあとの戦闘は反則だ!」
「試合は終わりだ! また罰金を増やす気か!?」
口々に説得しているが、ヘルガに聞こえている様子はない。
「おまえの勝ちだ!」
「お・わ・り!」
「グレース、早く逃げろ!」
灰色髪の少女は呆然と、青い瞳へ釘づけになっていた。
年配の衛兵もおびえ、首を小さくふる。
「いいかおまえら? 『せーの』で……」
「逃げるんですね?」
「そうだ」
ざわめく観衆、とりかこんだ刃先、領主の視線……それらすべてを無視して、青い瞳は灰色の瞳の奥を探り続ける。
グレースに恐怖はなく、なにかを期待していたほほえみも薄れ、今はただ、とまどうばかりだった。
「いいか? せーの……」
ヘルガが踵を返す。
「うひいっ!?」
「うあっあああー!?」
とりみだす衛兵たちを置き去りに、ヘルガは立ち去った。
衛兵たちは客席の嘲笑を咳払いでごまかしつつ、グレースの退場をうながす。
「助かったな? おまえ、殺されるところだったぞ?」
灰色髪の少女はヘルガの後ろ姿が消えてもまだ、門を見つめ続けていた。
審判役の中年女はぼそりとつぶやく。
「その衛兵の言葉も、大げさな話ではない……ヘルガという女に限ってはな」
グレースはのどを鳴らし、身ぶるいする。
「す・て・き」
頬が真っ赤に紅潮していた。
アイシャは眉をしかめて試合場に目を凝らす。
「ん~? グレースのやつ、また例の『病気』かあ?」
プレタとコルノも嫌そうにうなずく。
「ジーナに完敗した時と同じっすね?」
「でも今、ヘルガには殺されかけたってのに?」
「おまえら、あのグレースちゃんが、ただの『素直ないい子』だとでも思ってんのか~?」
プレタとコルノは首をひねるが、アイシャの薄ら笑いを見ると、いい予感はしない。
貴賓席を見るとなおさら。
「ク……クク! 期待の星……『恋するグレース』か! ク、クヒ……! もっと……もっとヘルガにふさわしい試合を!」