第八話 地獄の産声 五 呪詛の体現
剣闘興行の開催が早められ、しかし規模は変わらず、訓練教官の中年男ゴフガスはとまどっていた。
「どういうつもりだよ? 開催日は延び延びになっていたのに、剣闘士の補充もろくにないまま……やっぱりもう、店じまいの準備か? 剣闘士どもをほかの闘技場へ売ったり、兵士へ仕立てなおす品定めに……だがオレは、剣闘士どもの調教以外では食いようがねえ」
でっぷりした大男のゴフガスは若いころには粗野な盗賊で、捕縛されると体格のよさから剣闘奴隷となって勝ち続けたが、片足を失って棒義足をつけた際に引退して、教官として雇われた。
しかし大陸の闘技場では多くの訓練生をつぶしたり反則の手引きがばれて追い出され、安く『地獄の島』へ売り渡される。
「……だから『呪術師』様よう、今日はとにかく派手にやれ。もしかしたら領主は前の興行を見て、少しは興味を持ったのかもしれねえ。お前にだって、またとない機会だ……多少のことならオレがごまかしてやる」
「おや『ごまかす』とは、なんのことやら。どうせ何人たりとも、わらわの秘儀を見抜けはしまいて……ウシャシャシャ!」
独房から出された厚化粧の中年女は顔をひん曲げて笑う。
その牢内にはどうやって持ちこんだのか布きれが散らばり、石壁は天井まで黒文字の落書きで埋めつくされていた。
このころの『地獄の島』では剣闘士がまだ牢獄に閉じ込められて管理され、訓練などで試合場へ出る以外には外出の機会がない。
勝ち続けて目立てば食事の量が増えたり、恩赦や身請けの話が出ることもある。
負け続けた剣闘士は看守や教官から遊び半分に虐待されたり、女であれば賄賂と引き換えになぶりものにされることもあった。
「それと『アメリ嬢』のほうは、本当にうまくいってるんだろうな?」
「あせりは禁物だて。わらわの隣へ牢を移して以来の呪いが効きはじめ、あの剛毅なる精神にもきしみが広がっておるわ」
実際には汚物を投げ入れて臭気と虫寄せで悩ませ、大声や壁を蹴る音で眠りを妨げていた。
さらには『領主どのは剣闘を締めくくる前に口減らしも兼ねて、派手な見せしめで盛り上げたがっておる。謀反人のお嬢さんなどは、特に期待されている御様子だのう?』などと疑心暗鬼にさせる嘘の数々で疲弊させていた。
「悪霊に憑かれた姿を見せれば、側室の侍女であろうと領主どのも見限りなさる。そうなれば陰でどう扱おうが、とがめられることもない。案外とあの娘のほうから、体を開くようになるやもしれんぞ?」
試合場へ入って来た『可憐なるアメリ』は様子がおかしかった。
笑顔で手をふって中央まで歩く……それが指示された演出のはずだったが、入場門から出てすぐに足を止め、客席を暗くにらみまわす。
それでも客の多くは、紹介どおりに品のよい見た目をはやしたてた。
「そんなに私が死ぬ姿を見たいか!?」
アメリは突然に叫ぶ。
「死体が好きなら、墓へもぐればいい! 地獄へ旅だって、骨と抱き合っていろ!」
観客を罵倒しはじめるが、それは『不慣れな挑発』と思われ、気のないどやし声と失笑ばかりが返る。
アメリの愕然とした表情を見て、審判も兼任していたゴフガスは内心でにやついた。
性悪な『呪術師』は着実に、アメリの心を蝕んでいる。
心身を弱らせ、自分からすがるように仕向けて、アメリ本人にも協力させれば、担当役人に隠れて体をなぐさみものにしやすい。
「本日はとりわけ威勢のよい『アメリ嬢』に対しますは! かの強豪『灼熱のヒルダ』にも打ち勝った随一の女傑! 百戦錬磨にして熟練老獪なる『呪術師ホドゥカ』が極めし妙技絶芸のほど、ご高覧あれ~!」
入場してきた中年女は同じ装備の小剣と胴鎧だが、全身のあちこちにボロきれを巻きつけて垂れさげていた。
「あの布きれをつけたままでは、不正な武器を隠せてしまう……!」
アメリは抗議するが、ゴフガスは笑顔のまま大声でさえぎる。
「またしてもどのように看守の目を盗んだのか!? 妖力すさまじき『呪術師』は入場の一瞬に儀式の準備を済ませた様子! しかしあくまで飾りにすぎません! 呪術に使えるからと、女性の髪や飾りまで奪い去るのも野暮というもの! それとも客人がたは……」
強引に話の焦点を反則行為から呪術へずらし、話し相手を抗議した対戦者ではなく観客へずらし、声量だけで抗議をつぶす。
しかし領主が側近たちとなにかを話し合っていたため、あせったゴフガスは試合の開始を早めた。
ホドゥカの長身は『灼熱のヒルダ』に匹敵し、筋肉の厚みでは劣っても腕の長さは上回る。
剣さばきはヒルダと対照的で、正面から押し切る豪快さには欠けるが、身のこなしと太刀筋の変化がめまぐるしい。
あちこちから飛び出す牽制で撹乱し、陽動で気を引いたりしながら、不意をついての痛打を好んだ。
ねちねちとした嫌らしい技巧だったが、アメリを追いこむ手際ではヒルダと互角かそれ以上となる。
「どれほど死力をつくそうとも、そなたは負ける宿命と定まっておるのになあ?」
ホドゥカは武器を持っていないはずの左手で不意に、アメリの腕を裂いた。
「おや。爪をひっかけただけでそこまで裂けようとは。そなたの祖先までも、わらわを敬いたがっておる」
ホドゥカは爪を長くのばしていたが、それとは別に訓練中の相手から小剣の刃先を折り取って盗み、試合前に手の中へ隠していた。
「イカサマ師が! ほざくな!」
「そのような思いちがいにとらわれる浅はかさが、加護の薄さを招いておるのう!?」
戦意を失わないアメリが前に出た瞬間、ホドゥカの軽い蹴りが出される。
「……うくっ!?」
腰の入っていない、膝だけで振ったような足先が、アメリを激痛で止めた。
ホドゥカの足と革紐サンダルの隙間から、木の串が出ている。
「客の投げこんだゴミまでが、わらわに味方をしたがる。すべては霊力の導きじゃ」
訓練に使う丸太の破片を隠して持ち帰り、削って作った隠し武器だった。
この当時は剣闘奴隷たちの拘束や罰則こそ厳しいが、監視や身体検査などは粗が多く、反則行為の抜け道も多い。
「審判! どこを見て……」
逃げるアメリへ、ホドゥカは拾う間などなかったはずの砂をたたきつける。
全身に垂れ下がる布のいくつかは、結び目に砂を仕込んであった。
観客の多くも不自然さに気がつきはじめ、歓声は煮えきらないで濁る。
「これほど呪術を好きに使えることこそ、わらわが領主どのと懇意である証とは察しておるだろうに?」
アメリが青ざめる。ホドゥカが嘘つきのイカサマ師とは思っていたが、領主が反則を黙認しているかもしれない疑念は深めてしまい、抗議の声を止めてしまう。
「わらわの伝手があれば、そなたを破滅の宿命からも逃がしてやれよう。その身を預けさえすれば、悪いようにはせんて……」
アメリはホドゥカの話などでたらめの出まかせばかりだと思いながらも、危険を冒してまで反撃する意味が薄いように錯覚し、戦意を奪われてしまう。
やがて一方的に、丸めこまれたように蹴り倒されて降参した。
勝負が決したにも関わらず、観衆は盛り上がりに欠け、ホドゥカはゴフガスの気まずい目配せにも気がつき、横たわるアメリを踏みにじりだす。
「残念だがのう、もっと大きな声で哀れったらしく! お客がたの同情も集まるほどに泣きわめかなければ! わらわを見守る神霊たちも怒りがおさまらぬようでのう!?」
陰惨な光景に観客の反応も少しは大きくなるが、ゴフガスは貴賓席を見てあせった。
領主の側にいる老人が自身の足先や手の平を指して、なにかを説明している。
ゴフガスは手振りで入場門の係へ指示を出し、小声でホドゥカの注意も引いた。
「おいっ、すぐにきりあげて次に備えろ!」
「む……領主どのの側に控えておるのは、衛兵の間では『海賊狩りのゼペルス』と知られる古豪であったか?」
ホドゥカはうずくまるアメリから離れて両腕を空に突き上げ、ゴフガスも決着宣言を大声で吠えたて、すぐさま次の試合を早める宣言まで続ける。
「あのジジイ、最近じゃ剣闘にのめりこんで、見る目も肥えているらしい。ありゃ、おめえの仕込みを細かく言いつけてやがるぞ?」
「ちっ、わらわとて相手が『灼熱のヒルダ』ほどの強豪であれば、小手先はひかえて『奥の手』だけで勝ったわ。しかしアメリごとき二流どころの自暴自棄でつまらぬ手傷を増やしたくなかったのじゃ」
「とにかく次で盛り上げろ。それでおめえとヒルダの再戦を見たいと思わせりゃ、それまではしのいでどうにかできそう……どうした?」
ひそひそ話すゴフガスのもとへ、入場係が駆け寄っていた。
「はあ!? 控え室で斬りつけたあ!? なんだって、こんな時に……いや、もうかまわねえ! なにか口出しされる前にさっさと入れちまえ! オレらは仲間を斬りつけたバカヤロウの処刑を『領主様のために』急ぐだけだ!」
紹介や楽隊の演出もなしに入場門が開かれ、のそのそと黒髪褐色肌の長身女が歩いてくる。
まだ敗者のアメリすら意識を失って転がっているままだった。
ゴフガスは大声の口先だけで強引に盛り上げようとする。
「なんと怪物女が突然の襲撃でございます! あの血まみれの刃こそ、つい先ほどフマイヤ様の忠実なる腹心を惨殺したばかりの凶器! あれほどの大罪人を許してよいものか!? 貴兄らの前で見せしめなくてよいものか!? 領主様の御威光を守るべく! 罰の厳格なるを知らしめるこそ! まさにこの闘技場の……」
いっぽう貴賓席ではゼペルスが冷静に報告していた。
「入場係の奴隷番が浅く斬られただけのようです。今日は特に『呪術師』の不正と審判役の作意がひどい様子ですが、中止なさいますか?」
「私は剣闘の演出に詳しくない。判断は難しいが……」
フマイヤは不快そうに顔を渋らせていた。
ただでさえ残虐な見世物の殺し合いが、競技としての公正まで欠いては、人命の尊厳を二重に冒涜する理不尽に思えた。
ゴフガスは貴賓席の様子に気がつき、あせった小声でホドゥカへ伝える。
「派手に殺せ! あいつの腕もヒルダほどじゃねえし、アメリと違って余計なことを言える頭は持ってねえから、好きにやれ!」
黒髪の下の青目は無表情に近づいていた。
「これぞ地下牢で生まれ育った殺人鬼! 『墓下のヘルガ』でございます! ではいよいよ注目の一戦……おい、そこで止まれって……おい!?」
ヘルガはゴフガスを無視してホドゥカへ迫る。
「ちっ……では試合、はじめえ!」
ゴフガスが離れ、ホドゥカは蹴り脚を伸ばす。
わずかに届かないはずの間合いだが、足先に隠していた木串がふたたび飛び出ていた。
しかし木串がヘルガの太腿へ刺さることはなく、ホドゥカ自身の足首を貫く。
「うげあ……!?」
ヘルガは退屈そうな表情で、ホドゥカの足先から抜き取った木串を握っていた。
老兵ゼペルスは驚く。
『控え室からは前の試合が見えないはずなのに、なぜ仕込みがわかった?』
審判ゴフガスも驚く。
『あの疫病女、イカサマを疑えるような頭じゃなかっただろ?』