第八話 地獄の産声 四 死を許される条件
領主フマイヤの寝室は装飾よりも衛生の保ちやすさが重視されていた。
高価な建材も多いが、貴人の生活空間というより、神殿の祭壇じみている。
この日のフマイヤは息苦しさでたびたび目をさまし、気がつくと夜明けが近づいていた。
空には雲が厚く広がっている。
この『地獄の島』で雨が降る日は少ない。
しかし湿気の濃い空模様だとフマイヤの奇病は悪化し、無数の虫にかじられているような痛みとかゆみが全身の肌へ広がる。
体が熱を持ってだるくなり、精神まで弱気に蝕まれていった。
身をよじることも億劫になり、腕を伸ばすだけでも意識を集中し、自身を叱咤しなければくじけそうになる。
枕元の呼び鈴を鳴らすと、侍女たちよりも早くマリネラが入室してきた。
「今朝は朝もやが濃く出ていましたので、特におつらいかと思いまして」
そう察してもらえると、もうフマイヤはかすかにうなずくだけで済むが、あと少しだけは気力をふりしぼり、かすかな笑顔だけでも忠心をねぎらう。
マリネラは手際よく包帯をはずし、フマイヤの視線や、わずかな動作から察してかゆみのひどい部分からしぼった布でぬぐい、それを小まめに換えてくりかえす。
子供のころから変わらない、症状におびえた表情と、丁寧な看護に安堵した表情と、両方をさらせる相手がいることへの感謝……マリネラがそれらまで察して、わずかに見せる照れた様子も含めて、幸せを深く感じられる時間だった。
侍女たちも来るころにはだいぶ楽になり、体を起こして気を張った表情も見せられるようになる。
「今日はひさしぶりに稽古をつけてもらおうか」
フマイヤは護身のために小剣と鞭を身につけている。
足腰や腕力を鍛えるような体力はないが、振りを正確にして、相手の動きを予測し、より効率のよい動作でかわし、逃げきるまでの訓練であれば、集中力で補える部分も多い。
マリネラはフマイヤが幼いころから衛兵隊長たちと相談して、限られた体力でも可能な護身術を研究していた。
それはマリネラ自身にも合う戦闘技術だった。
子供なみの小柄というだけではなく、息切れも早い。
それでも気力で補い、フマイヤの訓練相手として最も信用できる自分自身を鍛え続けている。
寝室や看病中でもフマイヤの側にいられる女性の中で、最も信用できる自分自身を刺客への懐刀として磨き続けている。
フマイヤが領主を継承する直前に親族を殺戮して以来、マリネラの集中力は一段と病的に高まっていた。
苛烈な非道に手を染めた以上、同じような報いを受ける危険も増えている……そして実際に、対立派の残党を潰しきるには数年を要した。
島は小さく、殺された中の誰かと血縁や親交を持つ者はかなりの割合になる。
フマイヤの乾いた物腰は子供のころにも増して、自身に見切りをつけたような覚悟を濃く漂わせていた。
幼いころから深め続けた無力感が、絶望的に澄みきった使命感を熟成させている。
必要と判断できれば、自身すら平然と断頭台へ送ってしまうであろう危うさを強めていた。
マリネラはフマイヤを護衛するための鍛錬にのめりこみ、そうするだけの価値があることを無言で訴え続ける。
もたなくなった息が胸に激痛を刺しこみ続け、めまいと手足のしびれに襲われても、かわして反撃を突き入れる。
「そこまで」
訓練相手を務めていたアルピヌスは心配顔で冷や汗をかきながら、努めて冷静に宣告し、倒れかけたマリネラを支えた。
先に休憩していたフマイヤは侍女たちを引き連れて駆け寄る。
「稽古と呼ぶには度の過ぎた無理だ。もう少し早く止められないのか?」
アルピヌスは困ったようにうなずく。
「私もそうしたいのですが、この手前で止めてしまうほうが、マリネラ様がより苦しい思いをなさる気がしましたので」
マリネラはまだ言葉も出せないほど苦しげな息をしながら、手だけでフマイヤを抑え、苦笑してアルピヌスへうなずく。
侍女たちはそんなマリネラと、いまだに正妻を決めない領主フマイヤと、婚約者が投獄されても別の女性を探さない重臣アルピヌスの関係をどう考えてよいものか判断がつかず、不思議そうに見ていた。
運動をした日は、フマイヤの包帯交換が多くなる。
マリネラは運動量にも増して汗がひどく、自身の体をぬぐって着替えてから、寝室での看護に加わった。
自然に歩けるまで回復した姿を見せると、フマイヤの無防備な安堵が伝わってきて、マリネラは侍女たちに照れと動悸を気取られないように努める。
「マリネラ。人が争わないで健康に暮らせることは、豊かさの最たるものではないのか?」
マリネラはてっきり、自分がフマイヤへ似たような心配をかけていることを指摘されてしまったものかと思った。
しかしフマイヤの思案顔と、体調が悪いにも関わらず運動へ出た判断から、剣闘について考えていたことを察する。
あるいはあの、黒髪青目の少女について。
「私もそのように思っておりましたが……死の間際であれば、あるいは余命が少ない場合には、その時に感じられる『豊かさ』とはなんでしょう?」
マリネラ自身も首をかしげる。
「む……それはつきつめると、死んだあとにも残したい価値、その者が生きていた価値を定めることになるか?」
マリネラは少し考えてから小さくうなずき、フマイヤも考えを整理する。
「すべての人間は金銭によって買う側と買われる側に分かれる。本質的には誰もが、金銭の量で奴隷か奴隷商としての生きかたを決められている」
金銭によって、衣食住や医療や防災の用意をできる。
金銭によって、他人から金銭を奪える武器を調達できる。
金銭によって、他人から自身を守れる軍隊を準備できる。
金銭によって、他人を奴隷として使役でき、あるいは奴隷の立場から解放できる……つまり奴隷商の立場へ移せる。
「しかし貯めた財産は、命の終わりという期限によって使えなくなる……その価値を自身の死と共に終わらせないためには?」
「生前の意志どおりに、その財産を使える代理人を残すこと……つまり、意志を継承できる相手や、より正確に継承できる手段が、将来的な価値を大きく左右しますね?」
「私にとっては、マリネラの治世を領民へ残すことが私の価値だ」
マリネラにとっては、自身のすべてを注いだフマイヤを守り残すことが自身の価値だった。
「地位や名声、技術や学術だけでなく、思想や芸術も含め、それらは発生させる金銭の量で価値をはかることもできる。しかしいっぽう、それらが金銭の発生源となる理由もまた、生きかたの継承に深く関わっている……それらを子孫という形で集約できれば、多くの者は理想に近いと感じやすい……はず」
フマイヤが沈んだ表情を見せ、マリネラはゼペルスを思いやっての心痛と察する。
孫娘が恩義ある主君へ大罪を犯し、その罰として殺し合いの見世物にされ……それを支持するしかないつらさが、ゼペルスを物忘れへ追い込んでいた。
しかし、つらすぎて忘れたいはずの『アメリの剣闘試合』にのめりこむ理由は、マリネラにも不可解だった。
無意識にも孫娘の助命を望んで剣闘を批判するならともかく、アメリの生き残りに安心は見せても、剣闘に関しては否定どころか肯定の意識が強まっている。
無意識にも規範を重んじて身内の粛清を求めているにしては、観戦しながら怯え震える姿があまりに痛ましい。
ひどく老けこんできたゼペルスは、孫娘が殺し合いを続ける姿にどのような『価値』を見出しているのか。
フマイヤでさえ理解が届かず、苦しんでいた。
「私はこの島に、整備された市街、公正な規律、諸侯に頼られる親交を残すことによって、マリネラから学んだ生きかたを領民へ伝えられたら、死ぬことも許されると思っていた」
マリネラは『許しません。許しません。許しません。許しません…………許しません』という絶叫をひとつずつ飲みこんでこらえる。
少しずつ落ち着きをとりもどしたあとで、自分では『許す』ための条件を見出せないことに気がついた。
フマイヤを守って生かすことは支えられても、いつかは訪れる最期をふさわしい方向へ導けそうにない無力を自覚してしまう。
『私にはフマイヤ様しかいないから、私ではフマイヤ様を救えない?』
なぜかふと、黒髪青目の少女を思い出す。
フマイヤをじっと見つめていた姿が、無性に腹立たしくなってくる。
マリネラはそれが嫉妬であると即座に断じ、自身の懊悩は念入りに噛みつぶし、嫉妬できるほどの価値について分析をはじめていた。
「マリネラ。あの『墓下のヘルガ』は、自身をどのように許して剣闘試合へ出ているのだろうな?」




