第八話 地獄の産声 二 未熟な地獄
「気がかりなようでしたら、ちょうど試合も近いことですし、観戦の手配をしておきましょう」
ゼペルスはいそいそと、片足を引きずりながら退室する。
その背が見えなくなってから、フマイヤは心配そうに眉をひそめた。
「地下牢の子供については、あれほど記憶がしっかりしているのだが……?」
マリネラもかすかにうつむく。
「老いてからの物忘れは、興味の順とは関係ないことも多いとは聞きますが……若いころの記憶が、心を蝕んでいるのかもしれません」
若いころのゼペルスは商船の護衛も務め、海賊を返り討ちにしたことがある。
不利な戦力だったが、誰よりも暴れまわって奮戦し、相手の船にまで乗りこんで形勢を逆転させた。
その際、物陰で動く気配へとっさに斬りつけたが、それはまだ立つのもやっとの幼い女児だった。
『部下も言っておりましたが、海賊の子なら海賊になるだけ。生かしておいても逆怨みされるだけです。すぐにとどめを刺して楽にしてやりましたが、それよりほかにできることもなかったでしょう』
ゼペルスは当時のことを落ち着いた様子で語っていたが、別の者の話によれば、同じくらいの年齢だった自身の娘に近づくことが減った。
衛兵としては働き者だったが、前領主フラドルバへ仕事ぶりを示す以上に、幼いフマイヤへの気づかいに早くから執着し、しかしフマイヤの幼い弟の抹殺は率先して引き受けた。
『まだ若い者にはやらせたくない仕事です』
地下牢の子供を不気味がりながらも深く同情していた。
忠誠を示す際に『幼い孫娘を生贄に捧げようとも』という言葉も出ている。
「どういう形であれ、幼子には罪や罰を結びつけて考えがちのようだな」
フマイヤは継承の直前に、はじめて自らの指示で人を殺させた。
父が多くの者を排除してきた姿は見ている。
それが甘かった時に、父が大切な身内や臣下を失ってきたことも知っている。
自分とマリネラも、あの殺戮は断行しなければ遠からず消される立場だった。
しかし異母弟たちも当初は、心からフマイヤを慕っていた。
対立させた義母たちにしても、自分の子を出産するまではフマイヤに親身で、病状にも心からの同情を寄せていた。
それらは毒を盛られて槍に貫かれ、一晩で動かぬ肉塊と化し、墓下へ埋められている。
フマイヤは親族を大量に、もの言わぬ死体に変えて以来、他者の生死を左右しやすい領主という立場が、領地全体を背負った奴隷である実感をいっそう強めていた。
たびたび気を失うまで仕事へかじりつき、なおも飢えた目で領民への奉仕をあさりまわる。
人であることを否定した『悪魔公』という陰口にこそ、心地よい落ち着きを感じるようになっていた。
フマイヤは老いたゼペルスを気づかいながら、自身の傷跡も見つめている。
当時の『地獄の島』は剣闘試合の開催が不定期で、形式も大陸に近い。
絶海の孤島でも可能な範囲で、大陸の娯楽をどうにか模倣していた。
片足に棒義足をはめた中年大男の訓練教官は試合場では審判も兼ね、声をはり上げる。
「続きましてはようやくの目玉! この『地獄の島』でも随一の女傑! 男まさりのいかつき巨体! 凶暴を極めし野獣にして、豪放なる火山の化身……『灼熱のヒルダ』が勇姿、とくと御覧あれ~!」
粗末な楽隊もはやし立て、大柄な女が四方の客席を大げさに威嚇しながら試合場へ進み出る。
フマイヤは観客の盛り上がりを観察しながら、演劇と似た部分の多さを考察していた。
審判男は領主の冷めた態度をたびたび気にかけ、むやみに声ばかり大きくする。
「対するはこちらもとっておき! ご多忙なる領主フマイヤ様も今日はひさかたぶりの御観覧! よもや出し惜しみなどできるはずもなし! お客人がたの期待とて百も承知の組み合わせ! この者をおいては……」
もったいぶった紹介の長さに観客の罵声が大きくなり、審判男はわずかに言葉をとぎらせて早口になる。
「……この闘技場が誇る、最も美麗なる女剣闘士! 『可憐なるアメリ』をお見逃しなく~!」
後から入って来た細身の女は紹介のとおり、剣闘士にしては色白できれいな肌だが、かえって手足の刀傷が目立っていた。
顔だちも対戦相手に比べれば上品に整っていたが、化粧でも隠しきれない疲れとすさみようがにじみ出ている。
ゼペルスが『若いころの女房に似ている』と気にかけていた剣闘士だった。
フマイヤが玉座の脇を盗み見ると、護衛についているゼペルスは悲しげにうろたえた顔で『可憐なるアメリ』を見守っている。
「これなる『アメリ嬢』はなにゆえ剣闘士などへ身をやつし、むごたらしき斬り合いに柔肌をさらす宿命を背負いしか!? この美貌からは想像もおよびますまい! これなる女は恐れ多くも、領主様へ刃を向けし大罪人! かの名君フマイヤ様の御身命をおびやかすなどもってのほか! 即座に吊るし上げるが当然のところ、このような沙汰は深い御慈悲か!? はたまた念入りなる……え~……では開始しますぞ!?」
フマイヤの冷たい無表情はわずかほども動かず、審判男は焦り苛立って口上を打ち切る。
アメリも女性としては長身で鍛えた肉づきだったが『灼熱のヒルダ』はすべてがひとまわり大きく、顔つきまでも男の衛兵と遜色がない。
同じ装備の小剣同士で最初は対等に打ち合うが、ヒルダの腕力がみるみるアメリの腕をしびれさせ、一方的になってくる。
隙に入った拳の一発でアメリは倒れこみ、すぐさま追撃の蹴りも何度かたたきこまれ、うずくまって動けなくなる。
「その顔を切り刻んでやろうか!? 両腕と両脚を斬り落とすほうが好みかい!? どっちがいい!?」
ヒルダは得意げにアメリと観客へ吠える。
しかしフマイヤは無表情につぶやく。
「あのヒルダという者は、相手を傷つけないように戦っているのか?」
「ええ、ええ。余裕をもって勝てる相手なら、生かしておくほうがくり返し勝てますから。それにアメリのように見ばえがよい人気者は、負けても客を集められます。よい引き立て役なら、なるべく長持ちさせたい……はず……」
ゼペルスはそう答えながら、自分が殺されそうな表情で怯え、ひどい汗を浮かべていた。
「なんだ度胸のない客どもだな!? 血の雨をかぶりに来たんじゃないのかい!? まあいい、アメリのやつもだいぶ打ち合えるようになった! その首を客席まではね飛ばすのは、次の楽しみにしてやろう! せいぜい鍛えて、もっと歯ごたえのある的になりな!」
ヒルダは芝居がかった挑発をふりまき、アメリは衛兵に引きずられて退場する。
ゼペルスは長いため息をついた。
「あのとおりです。あの女は毎試合のように、あのように吠え立てながら、実際に殺す者など三人にひとりもいません。そうできるだけの余裕がある実力者ということですが……」
降参の規定が練りこまれて『生かしておくほうが倍も稼げる』ようになる前から、興行試合となった時点ですでに『殺し合い』としては不自然な意図が入りこんでいた。
フマイヤはむしろ、拳闘などで公平と全力を徹底させるほうが、より真剣な勝負としての緊張感が高まるようにも思えた。
「……とはいえ、以後の対戦相手に殺されないものと思われて無理押しされてもやっかいですから、時おりは見せしめを出す必要もあって……今日は特に、フマイヤ様のご観覧を変に勘ちがいされるやもしれず……」
ゼペルスはすでに助かったアメリの身ばかりを案じていた。
それでも剣闘の廃止を望むどころか、観戦にのめりこむ心情がフマイヤには理解しがたい。
フマイヤはゼペルスの妻の顔はよくおぼえていないが、アメリの目元はほくろの位置も含めて、ゼペルスとよく似ていた。
「おっと、フマイヤ様は気分を害されておりませんか? 次は『墓下のヘルガ』も出るはずですが……」
ヒルダは試合場にとどまって『戦い足りない』と吠え続け、さらなる相手を望んでいた。
審判男は『荒ぶるヒルダをなだめるために仕方なく!』などと言いながら、すでに賭けの準備まで整えていた追加試合を発表する。
「対するは地下牢獄で生まれ育った呪われし娘! 置き去りしはいづこの悪魔か死神か!? 人の心も言葉も持たぬが、殺しだけは大好物にして大得意の怪物女……『墓下のヘルガ』を見逃すなかれ~!」
賭け札を売る時間も兼ねて長い休憩がとられたあと、ふたたび『灼熱のヒルダ』が大げさに登場すると、客も見慣れて飽きてきた反応を見せる。
しかし楽隊が急におどろおどろしい演奏をはじめ、対戦相手の入場門が開くと、どよめきが広がった。
ヒルダに近い男なみの背、ボサボサにのび放題の黒髪。
おおよその形ばかり同じ胴鎧をつけていたが、ボロボロに割れた半壊品をひっかけているだけで、褐色の全身はまだらに薄汚れていた。
フマイヤは眉をひそめる。
わざわざ灰や煤を塗って肌を汚しているようだが、体つきは悪くない。
娼婦として売れる程度にはまともな食事を与えられてきたように見える。
地下牢で獣のように育ったという話は試合演出の誇張だった気がして、拍子ぬけした。
しかし無防備にとぼとぼ歩いて、大観衆の喧騒を庭木のように見まわす姿は、正気が残っている者の演技とも思いにくい。
その足が途中で止まる。
長すぎる前髪の隙間から、無表情な青い瞳が、じっとフマイヤを見つめていた。