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第六話 死神の饗宴 三


 最終戦の一試合前。

 クレアは剣闘士用の客席でいらだちを隠していた。

 買収済みの『蛇使いドモンジョ』と『黒猫ルチカ』は予定どおり、午後からは客席に姿が見えない。

 しかしクレオニールからは『午後に決行』と伝えられていたが、もうすぐ夕方になる。

 トーリヤス公が直前になって、ヘルガとの決着まで待つ気になったのかと期待したが、なんの連絡も合図もない。

 酔っぱらい相手の雑談を続けるしかなかった。


「へえ、けっこう顔が広いんだな?」


「旅芸人でこれだけの美貌はそうそういませんから。実は『さる高貴なかた』のご依頼で人材も探していますので、よければご検討をお願いします」


「え、なに? アタシらでもできるようなことなの?」


 領主フマイヤの暗殺と『地獄の島』の制圧。それは剣闘士の多くを味方につけなければ難しい。


「仕事内容と高額の報酬をいつどのように伝えるかは少し待っていただきたいのですが、提案にはどうか、迷わず即答でおねがいします」


「ほへ~! やっぱ儲け話ってのは、美人に聞くもんだぜ!」


 決行の際に乗せやすいよう、愛想をふりまくしかできない。

 衛兵の迎えが来て、しかたなくもう一度だけ貴賓席を確認するが、トーリヤス公は相変わらず緊張しきったままで、平静を装うだけでも必死な様子だった。

 有名な『フマイヤ嫌い』がかえって企みの有無をわかりにくくしているが、計画の進行具合も判断しがたい。



 クレアは控え室で装備の確認を受ける。

 警備と同じく、一見ゆるいようで油断はできなかった。

 審判を務める小柄でやせぎすな中年女は、かつて『からすのブレイロ』と呼ばれ、現チャンピオン『酔っぱらいのアイシャ』も恐れる暗器と裏技の達人だった。


 初戦の直前、クレアは髪と服にしこんでいた針をはずしたが、そうしていなければ見つかっていた。検査は手早いが、恐ろしく勘がいい。

 この島では元剣闘士や大陸からの逃亡者などでも、有能であれば身分や前歴などに関わらず、高給で雇われている。

 衛兵にただならぬ気配の者が多く混じっていたので、慎重を期してよかった。 


 ブレイロが去り、試合場への通路に入ってからも衛兵が見張っていた。

 持ちこめた針は一本きり。

 気のあせりか、待たされる時間を長く感じる。

 あるいは対戦相手である『愛しのヘルガ』がまた、なにか騒ぎを起こしているだけかもしれない。客席の歓声がやけに大きく長い。

 ようやく開いた試合場には、奇妙な光景が待っていた。



「いやあ、私は二度目ですが、やはり落ち着きませんなあ? どうにも迫力がありすぎて」


 試合場の端で、太って小柄な中年貴族が汗をぬぐっていた。


「なにもここまでつきあわずともかまわんのだが」


 全身包帯のやせた長身男に、子供のような背の側近女もいる。

 さらにはトーリヤス公までもが、侍女たちを連れて試合場へ入っていた。


「これがこの島の流儀ならばかまわんぞ! 庶民風情に見下ろされる光景は不快だが!」


 トーリヤス公と侍女たちは日差しを避けるそぶりで距離をとる。

 フマイヤとマリネラも、ドネブ大臣を残して逆方向へ離れる。


「念のためです」


「は? ……はあ……」


「ドネブ様のご案内には、そちらの教官を」


 マリネラが手で示したドネブの背後の壁際には、杖を手にしたローブ姿がうずくまっていた。

 中央にはいつものように審判の小柄な中年女が立っていて、黒髪褐色肌の長身女もゆっくりと入場して来る。


「これは、いったい……?」


 クレアは『風変わりな趣向』に驚くふりをした。

 審判女は陰気で無愛想な表情を変えない。


「領主どのがいつもの酔狂だ。試合場へ踏み入ったからには、どう巻きこもうともとがめられん」


 クレアは予想外ながら、悪くない状況と判断する。

 狂君フマイヤが試合場での観戦を望み、トーリヤス公は肝心の首を逃がさないために追いかけてきたらしい。

 フマイヤは衛兵を連れていない。

 それなら試合でヘルガを殺し、勝利後には礼を示すそぶりでフマイヤも殺し、すぐさま侍女たちと共にトーリヤス公の守りにつける。

 戦場の最前線に自分の主君などは邪魔だったが、襲撃の報酬を呼びかける人材としては最高だった。

 客席の護衛たちとも合流し、船員に化けていた兵士たちが駆けつけるまで持ちこたえれば、脱出まで守りきれる。

 クレオニールたちが主だった衛兵隊長を消していたなら、引きこむ剣闘士の数次第で、一気に島も制圧できる。

 ……なぜか余計なデブもまぎれこんでいるが、逃げても死んでも影響はない。


 決心したクレアは正面にかまえてようやく、対戦相手の異常に気がつく。

 あちこちに返り血がつき、前髪などはまだ乾ききっていない。

 ぼんやりと退屈そうに、舌でなにかを転がしている。


「ブレイロさん? ヘルガさんが口に含んでいるものは、登録した装備ではありませんよね?」


 審判女はなぜか、食べ途中のイチジクを手にしていた。

 ヘルガの口内にあるものも、同じくらいの大きさだった。


「そうだが、問題ない」


 ブレイロは無愛想につぶやくと離れてしまい、クレアは眉をひそめる。

『問題ない』とはどういう意味か……吐きつけられるものならば、イチジクですら補助の凶器になりうる。

 そういった規定は厳格に守られているはずだった。



「拳刃使い『愛しのヘルガ』対、足剣使い『美しきクレア』!」


 開始の鐘が響き、クレアは守りの厚い小手をかまえる。

 ヘルガは両手をだらりと下げて立っている。

 目はどんよりとして、対戦相手の動きをまともに追っていない。

 全身の返り血は、直前に私闘でもしたのかとクレアは考える。 

 あるいは下女や医者見習いを気まぐれに惨殺しただけかもしれないが、ともかくも好不調の激しい剣闘士とは聞いている。

 特異な素質は多くの強豪も認めているが、今日に限って意欲が乏しいなら、それに越したことはない。


 慎重に間合を詰め、左拳の素早い牽制で様子を見る。

 あごに浅くかすったが、ヘルガはかまえもしないで立ちつくしたまま。

 中堅どころかシロウト新人にまで負けることが多い、気分屋の変り者でもある。

 決して油断はできないが、勝てるなら理解する必要もない。

 横へ回りこんでもう一度あごを狙うと、今度は振り向くが、やはりめんどうそうな表情で、ぞんざいに片手で受けた。

 その瞬間、クレアは跳びさがりながら足剣で薙ぎつける。

 跳んでかわした空中のヘルガへ、追撃の刃が振り上げられる。

 黒髪青目の無表情は変わらないまま、拳刃を足剣へ打ち下ろしていた。


「う……!?」


 見かけよりも腕力があり、足首を痛めかねない重さを感じる。

 クレアは姿勢をわずかに乱されながら、間合をとって立て直す。

 ヘルガの追撃はなく、また口をもごもごと動かして突っ立っていた。

 意欲はともかく、動きは鋭い。

 空中でもとっさに刃を合わせてきた技量はやはり、鬼才と見るべきだった。

 クレアは両腕をかまえて口元を隠し、奥歯の一部を噛み割って、小さな針を舌で取り出す。

 かつて異物を口中に入れ、歯と同じ色で塗りこめる程度では見抜いた前例があるという。クレアは本物の自分の奥歯をあらかじめ割り、ふたたび接着させていた。

 くちびるに挟んだ針の溝へ、口紅の下端を塗りつける。

 広めの間合いを保ち、慎重に隙をうかがう。



 試合場の端では、ドネブが美女同士の技巧の応酬に両拳を握っていた。


「どちらも独特の大胆な動きをする、いわば『軽業師かるわざし』同士……君はどうみるかね?」


「あいにく、茶番は専門外でして」


 背後に座っているローブの女はしわがれ声で笑う。


「賭け札を買うのがめんどうでなければ、全財産をヘルガに賭けていたでしょう」


 フマイヤは無言無表情で首をひねりながら観戦していた。

 トーリヤス公は不機嫌そうに試合を追いながら、何度も両腕を組み直す。


 クレアは足剣、両拳、また足剣と流れるような連続技でたたみかけるが、ヘルガは手先だけでなんとなく、といったさばきかたを続ける。

 クレアも見せかけだけ派手になるように軽く浅く攻めていたが、見透かされているようで、いい気はしない。それでも体勢は作れた。

 かまえた両腕で自然に口元を隠し、誰にも……特に審判からは見えない角度で、拳撃にまぎれて毒針を吹きだす。

 頬に命中し、あとは薬の効果が出るまで、わずかな時間を稼ぐだけ。

 ヘルガもようやく、口中の球体を吐きかける。

 それはクレアの足元に転がり、同じ緑色の瞳を向けた。


「クレオ……!?」


 驚愕と恐怖。それでも叫びは小さく抑え、過酷な訓練で染みついた気迫で、拳刃の奇襲をはじく。

 ヘルガが弟の眼球を踏みつぶしながら追いすがっても、肩や頬に薄い斬り傷をつけられるだけでしのぎきった。

 不意にヘルガの動きがにぶる。

 拳刃をクレアの小手に払いのけられただけで、足をもたつかせて転ぶ。

 跳ね起きようとして、中途半端な姿勢でふたたび倒れる。


「よくも弟を!」


 褐色の首筋をめがけて白い脚が振り抜かれる。

 足剣は見当ちがいの宙を裂き、クレアは不様に転んだ。


「うぷ……!?」


 起き上がろうとしたが視界がまわり、ゆがんでいた。



 審判女は大声でがなる。


「ヘルガの刃先には『同じ毒』を塗った! ヘルガもまた、クレアが毒を持っていたことは知らなかった! 口へ含んだ『異物』についても、互いに知らなかった! これは事前に『対等な条件』と判断されている! 試合は今もって有効!」


 クレアはまわる視界の中で思考を整理する。

 事前に……事前に!?

 毒がばれていた……弟は殺されていた……どこまで知られている?

 すべてがばれているなら、トーリヤス公やその侍女、護衛たちもすでに捕縛されているはず。

 フマイヤ公もわざわざ試合場へ降りてくるような、無謀な真似はしない……はず。

 観客も驚きざわめいているが、一部では美女たちの不様に笑いや歓声があがっていた。

 クレアは剣闘士席に、金髪細身の『蛇使いドモンジョ』が縛られて座っている姿に気がつく。

 しかも縄を握ってニヤつく少女は『黒猫ルチカ』だった。


「あんた、親友への思いまで『悪魔公』に売ったのかい!?」


 ドモンジョが毒づくと、顔に十一本の斬り傷を持つ少女は笑みを暗く粘つかせる。


「け。マヌケの誘いに乗って早死にするほうが、よほど『親友』への裏切りだっての」


 その隣では赤毛の酔っぱらい女がバカ笑いしながら酒をあおっていた。


「つーか、アタシが黒猫ちゃんに探らせたんだけどな!? 毒針の手がかりと合わせて、領主様に高く売れたわけよ! いやあ、イタチちゃん、よくぞクレ公を追いつめ、毒を使わせてくれまちた~!」


 愕然とするクレアへ、よく通る男の声が告げる。


「どうした? 望みは私の首だろう? 手間をはぶいてやろうと降りて来たのだ。ヘルガに勝てば申請などしなくても、目の前にあるぞ……『美しきクレア』……『道化のクレア』……『生贄クレア』! クヒヒヒヒヒ!」


 観衆は対戦するふたりの名よりも大きく、狂気の名君『悪魔公』の異名を讃える。


「あの君主にして、この領民ありか……」


 客席を見渡すトーリヤス公のうめきで、クレアは一縷いちるの希望を見出す。

 やはり黒幕までは知られていない。

 ルチカたちにはそこまで教えていないし、弟たちが口を割ることもありえない。

 トーリヤス公が襲撃を断念していない限り、まだ自分が生き残れる可能性も残っている。

 それならせめて、ヘルガだけでも……あの『悪魔の娼婦』は常日頃、この地の領主、領民、剣闘士の奇怪な関係の中心で話題を集めていた。

 本来なら『この島における常識』こそ非常識だと思い出させ、正気の判断へ導くために、惨殺して見せつける意味は大きい。

 這いずり続ける『非常識の象徴』は、倒れているクレアの足元まで近づいていた。

 クレアは脚を振り上げて斬りかかるが、拳刃にはじかれる。

 即座に振り下ろしへ転じたが、かわされて地面に刺さってしまう。


「く……っ!?」


 客席に笑いが巻き起こった。

 もがきながら、刃を折らないように引き抜くと、拳刃を引っかけられた服が破れる。

 闘技場いっぱいにあふれた『地獄の住民』たちは、さらなる哄笑と歓声を盛り上げた。


「こんなはずでは……このバケモノを早く始末して、領主も……」


 フマイヤはぎらぎらと見つめていたが、だんだんと無表情になり、ふたたび首をひねる。


「まさか、ほかにはなにも仕込めなかったのか?」


 ふたりの美女は砂にまみれ、のたのたとからみ合う。


「こと不様な戦いはヘルガの得意とするところ。それでは勝ち目という以前……」


 包帯から小さなため息がもれる。

 互いに狙いの乱れた殴り合いになり、鎧でかためた両腕より、刃のある両拳のほうが脅威となった。

 クレアはどうにか足を振り上げ、ヘルガの背後から首へ斬りかかる。

 ヘルガはフラフラとしながら、その一瞬だけはクレアの太腿へ拳刃をめりこませた。

 ついに悲鳴が上がり、闘技場の興奮は頂点に達する。


「トーリヤスどのの刺客なら、もう少し善戦してほしかったが……」


 フマイヤが思わずつぶやくと、トーリヤス公は目をむき、そっと手を上げた。

 マリネラはそれに気がつき、フマイヤへ手ぶりで伝える。


「おっと、すまないクレア。決着前に口がすべった」


 しかしすでに『生贄』は馬乗りにされ、その両目へくり返し刃をたたきつけられ、絶叫するばかりだった。



 客席にいたトーリヤス公の護衛たちが、次々と試合場へ飛び降りてくる。

 ひとりは角笛を鳴らし続けた。

 下の地面までは人の倍以上の高さがあり、着地に失敗して足を痛める者も出た。

 トーリヤス公が連れていた六人の侍女たちは駆け出してドネブの前を素通りし、隠していた小剣を抜いてフマイヤへ迫る。

 その前に子供のような背の女が独りで立ちはだかり、腕を閃かせた。

 投げつけた短刀の一本はひとりの侍女の首を貫き、さらに二本はもうひとりの腕と目に刺さる。


「フマイヤ様へ刃を向けたかたを、楽に死なせたくありませんが……」


 マリネラは仮面のような笑顔でつぶやくと、肩近くまで覆った金色の小手をキリキリと鳴らし、体を沈める。

 小さな体が一気に跳ねてすれ違うと、残り四人の侍女は首や腹から一斉に血を噴いた。


「……フマイヤ様の無事を優先しなければ」



 ルチカをはじめとした古参でない選手は、はじめて見るマリネラの実力に、騒ぐのも忘れて青ざめる。


「うわー、こえー。有能だなんだと言われつつ、この島の男剣闘を暗黒時代にぶちこんだ元凶だけあるわ~」


「なんですそれ?」


 アイシャはルチカに、貴賓席を挟んだ反対側の客席を指す。

 そこには男の剣闘士たちも座っているが、数は女剣闘士の半分以下で、態度も全体につつましい。


「あんな調子で男の剣闘士をゴッソリ減らしちまったせいで、なかなか増えなくなったんだよ」


 観客が今度は一斉に『鉄面鬼』の異名を讃えはじめ、マリネラの貼りついたような笑顔がひきつる。

 アイシャはあわててプレタの背へ隠れた。


「オレらそろそろ、アイシャさんのそばにいると危ないんじゃ……」


「ま、待て! 見捨てるな!」



 フマイヤの衛兵部隊も試合場へなだれこんでくるが、トーリヤス公はすでに自分の護衛に囲まれ、ふたたびフマイヤの首を狙わせる。

 しかし客席にはなんの混乱もなく、いまだに娯楽としての野次や声援で盛り上がっていた。


「外の兵士はどうした!? なぜ角笛の合図で突入せん!?」


 トーリヤス公への返答に入場門のひとつが開き、大勢の船員が捕縛された姿をさらす。

 ドネブ大臣は手を揉みながら苦笑した。


「船乗りには見えない古傷や体つきが多く、衣類にしては重そうな荷物も多かったので、私がお伝えしておきました。しかし港の衛兵も、すでに怪しんでおりましたよ?」


「ドネブ、貴様~!」


「何度もおいさめしたはずです! 私はフマイヤどのに恩義があり、裏切れないとも……」


 トーリヤス公の護衛兵たちは主君の意をくみ、ドネブにも数人が迫ってくる。

 ドネブの背後にいたローブの女は杖にすがって、ゆっくりと立ち上がった。


「領主はあっちだ。もっと大勢で、同時に襲ったほうがいい……こんな御方にかまっている場合か?」


 護衛兵の大男たちは無言で刃を向けたが、しわがれ声の女が背を伸ばすと、自分たちの誰よりも高いことに気がつき、眉をひそめる。

 女は深くかぶったフードの下で乾いた笑みを浮かべ、杖をひねって仕込まれた刃を抜く。

 長い両腕で、仕込み刀とその鞘を次々と護衛兵の腹、のど、脚へ突き入れ、まるで打ち合わせた芝居のように、滞りなく地面へ這わせてゆく。

 わずかにフードが跳ね上がり、ドネブは金色の髪と、頬の大きな向かい傷を見た。


「生きていたのか……」


 女はすぐにフードを下げなおす。


「おひさしぶりです閣下。人でなしの悪い冗談で、生き恥を味わっております」


「また会えて嬉しいが、『こんな御方』呼ばわりはひどい。これでも私はフマイヤどのの盟友を自負してここにいる」


「ドネブ様も物好きになられましたね。『こんなやつ』と言い改めなくては」


 その時だけはいたずらっぽく、少女らしい笑みが口元にあった。


「自力で脱出なさってください。わき腹が穴だらけの病人などあてにせず……コフッ、コホッ!」


「な!? 無理をするな! おとなしくしておれ!」


 ドネブは逃げるどころか小剣を抜いてかばおうとしたが、そのころには闘技場の衛兵たちが駆けつけていた。



「マリネラ、だいじょうぶか? 邪魔でなければ手伝おう」


 フマイヤの周辺には侍女六人のほかに、すでに大男まで何人も倒れていた。


「おそれいります」


 マリネラは苦しげに息をしながら、いつもより柔らかに、嬉しそうな笑顔を見せた。

 フマイヤはうなずくと腰から鞭を抜き、手近な標的へ正確にたたきつける。


「いまだに暴力は苦手なのだが」


 剣闘競技の主催者がそっけなくつぶやき、打たれた側は納得できない表情で叫び転がった。



 試合場は間もなく、フマイヤの衛兵たちがトーリヤス公とその護衛たちを競って追いまわす見世物になった。


「おとなしくしろ! ひさしぶりに男の剣闘士を補充できるのだ!」


「死に急ぐな! 頼むから!」


 仕込み杖の女は背を丸めて息を整え、壁際へ腰を下ろす。


「気のきいた試合が少ないからと、このような騒ぎまで呼びこむなど……つくづく呆れた領主です」


 ドネブも隣にへたりこんだ。


「またずいぶんと危うい酔狂だが……こんな事態さえ茶番だと?」


「少なくとも『死神の落とし子』は、そのように嗅ぎつけていたようです」


 トーリヤス公の刺客たちは試合の勝者にも近づこうとしたが、審判女によってことごとく斬り伏せられていた。

 かつて『鴉のブレイロ』と呼ばれた元チャンピオンは、呆れ顔で足元を見る。

 ヘルガは自分で作った惨殺死体を枕に寝そべり、寝息をたてていた。

 フマイヤたちもやって来て見下ろし、マリネラは首をひねる。


「抜けやすい毒のはずですが……?」


「どうやら退屈させてしまったようだな」


 包帯男は騒動現場の中心で腰を下ろし、褐色美女の黒髪をなですく。


「まだ少しかかるようだが、たまにはのんびりするか」


 マリネラは苦笑してうなずく。

 晴れ空に夕焼けが広がりはじめていた。

 観客は試合後の余興にいつまでもつきあい、笑い続ける。

 そんな光景も『悪魔公』が治める『地獄の島』では、日常の一部だった。






(『死神の饗宴』 おわり)






(『愛しのヘルガ ~地獄の島の女剣闘奴隷譚~』第一章 日常編 おわり)






あとがき


 ここまでの完読、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 丁度一章を読み終えたところです。 とても面白く、知らず知らず引き込まれてしまいした。 題材上、ガンガンキャラがフェードアウトしていくので、一章終盤では「ああ、ルチカ。お前もか」と思ったとこ…
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