第一話 処刑場に捨てられて 二
「私は試合がありますので、これで失礼いたします」
ジーナが静かに辞儀を向ける。
「お? ……おお、うむ。ご苦労だった……」
ドネブはようやく我に返った。
立ち去るジーナと入れ代わりに、侍女たちの騒ぎ声が近づいてくる。
貴賓席の通用口に褐色肌の長身女が現れ、ドネブはふたたび呆然とした。
数人の侍女がすがりついて刃物つきの革手袋をはずし、血まみれの体をぬぐっている。
奇怪な美女ヘルガは気にもとめない様子で、はだけた胸の包帯を玉座までひきずり、領主の膝へもたれて寝そべった。
侍女たちは必死に動き回り、血脂のこびりつく小手とすね当てもどうにかはずし、太腿から大理石の床へ落ちた血糊もあわててふきとる。
「あの男はいい眼をしていただろう? 殺す前に抱かれてやりたかったか? クフフフフフッ!」
フマイヤは上機嫌で黒髪をなで、侍女たちはその手を避けて額の傷へ包帯を巻き、頬のあざには湿布をあてる。
ヘルガはされるがままにほほえんでいた。
「いくらなんでも、剣闘奴隷を妾にするなど……」
ドネブはそれ以上の非難めいた言葉は飲みこむ。
不思議なことに、観客席の騒ぎは収まりつつあった。
試合場におけるヘルガの奇行には激烈な罵声を浴びせていた群衆が、全裸も同然で君主にもたれる奴隷女には驚く様子すらない。
「……この島の領主どのと領民、そして剣闘奴隷の関係に、大陸の常識はあてはまらないようですなあ?」
なにも理解できそうにない無力感を思わず口にする。
「ふうむ?」
フマイヤは顔を上げ、もの珍しげにドネブをながめる。
「貴殿ほど理解の早い者もいるのだなあ?」
真顔で感心していた。
「しかしヘルガは……妾ではない」
ドネブは聞き返そうとしたが、突然の歓声にかき消される。
女剣闘士がふたり、試合場へ並んで入っていた。
しかしジーナの姿はない。
ひとりは大柄な男なみの巨体で、それでもジーナに比べれば少し低いが、厚みは倍以上ある。
握っている棒は杖に少し足りない長さで、先端についた二本の突起は斜め後方へかえり、普通に振り回しても刺さりにくい角度になっていた。
もうひとりは頭ひとつ低いやせぎすで、それでも女性の平均くらいの背はあるはずだが、対比でやけに小さく見える。
その右腕に固定された大鎌の刃はまだしもわかりやすい殺傷力を示しているが、太った女が身につけているような革の胴鎧はない。
「あのふたりは『熊のプレタ』と『鼬のコルノ』と呼ばれる中堅選手で、しばしば上位選手にも勝利している実力者です」
玉座の傍らにいるマリネラが、はりついたままの笑顔で解説を加える。
ドネブは出場者たちの武器を見て、その扱いにくそうな形状に眉をひそめた。
「降参や気絶など、相手を生かしたままの『捕獲勝利』は賞金が倍になります。大陸の剣闘を見慣れているかたには、刺激が足りないかもしれませんが……」
素直に受け取るなら、武器の不便さも試合での死亡者を減らす意図だった。
しかし真剣の代わりに竹刀で立ち合うならともかく、のこぎりを持たせて残酷さを抑えられるか……浅い良識ではなく、深い悪意にもとれる工夫だった。
不意に、爆発的に歓声が大きくなる。
遠目にも映える、ジーナの入場だった。
武器は右腕に固定された両刃の剣で、刃渡りは手刀よりも拳ふたつ長い。
純白の外套は取り払われ、期待に違わぬ堂々とした肉体がそびえている。
胴部は下着のような布だけが包み、小手とすね当ては金色に輝く。
腹や太腿まで露にしていながら、荘厳さすら漂う立ち姿。
ドネブの感嘆と同じ思いが、好意的な歓声の多くにこめられている。
神聖な存在へ対する畏敬の眼差しが、剣闘奴隷の少女に集まっていた。
「ジーナさんはもはや、このように組まないと賭けの成立も難しくなっています」
「まさか……ふたりを相手に?」
「新人ふたりの相手でも、上位選手でようやく五分の賭けです。中堅ふたりの相手は極めて異例になります。しかしジーナさんが更新中の連勝記録も、突出しすぎていますので」
重い鐘の音が響くと同時に、中堅のふたりは左右へ分かれる。
『熊のプレタ』はジーナに追われ、戦鎚で細かく牽制をくり出しながら跳びすさる。
見た目よりも手さばきと足運びが細かい。
『鼬のコルノ』は呼び名どおりの素早さでジーナへ追いすがり、挟み撃ちとなる位置へ巧みにまわりこむ。
長身のふたりが打ち合い、その足元を大鎌が狙った。
ジーナが鎌へすね当てをぶつけてしのぐと、その隙に戦鎚が攻勢に転じて押し返す。
「ああ~、あのふたりの連携は即興ではない! ひとりずつ仕留めることは難しい!」
ドネブはあせるが、マリネラは仮面のような笑顔を小さくかしげた。
「いえ、ジーナさんはなぜか、意図的にふたりをまとめていますね?」
「そんな!? 防ぐのもやっとではないか!?」
ジーナの両小手はめまぐるしく火花を散らし、ふたりの同時攻撃を受け流していた。
戦鎚の振り回しと大鎌の振り上げが重なった瞬間、ジーナの動きが急加速する。
剣で戦鎚を打ち落としながら、太った巨体へ足をかけて姿勢を崩す。
同時に鎌をかわし、つかんだ腕をねじ上げる。
『鼬のコルノ』の喉元に、ジーナの剣刃が触れていた。
『熊のプレタ』の喉元に、ジーナが押さえる大鎌の刃が触れていた。
観客がどよめく。
「降参する!」
「……降参だ」
太った女はすぐに武器を捨てて叫び、小柄な女も悔しげにつぶやく。
「『熊のプレタ』と『鼬のコルノ』の降参により、ジーナは両者に捕獲勝利!」
試合場の端にいたボロ着の中年女はがなり声を張り上げて宣言し、大歓声がわく。
鐘が続けざまに三度鳴り、決着を告げた。
「抵抗しても、先に喉を裂かれていたでしょう。的確な判断です。健闘とは言いがたい試合内容でしたが」
マリネラは笑顔で淡々と解説し、フマイヤは小さくうなずく。
「引き離して各個に仕留めるほうが安全だったろうに、あのふたりの二手先まで読まなければ不可能な芸当にあえて挑んだか。やはり研究の量でもずばぬけている……マリネラ!」
小柄な側近はうなずくと日なたへ進み出て、右腕を真上にかざして振る。
侍女と同じように肩と胸元を出す薄着だったが、右腕だけは金色の小手が肩近くまで覆っていた。
華麗な装飾が日の光にきらめくと、歓声が急速におさまる。
フマイヤが立ち上がり、その細い体からは信じがたい大声をあげる。
「ふたりを相手にした『捕獲勝利』は過去にも例が少なく、さらには中堅選手ふたりを相手に、見事な手際! この快挙に対しては、五倍の報酬をもって評する!」
客席が大歓声を盛り返す。
「『天才ジーナ』!」
「『英雄ジーナ』!」
「『革命者ジーナ』!」
惜しみない賞賛の数々が降り注ぐ。
満場を驚嘆せしめた勝利を飾り、なお堂々と落ち着いた少女のほほえみに、呼び名はだんだんとまとまり、やがてひとつになる。
「『完全なるジーナ』!」
「ジーナの父親は島の有力貴族だったが、私が身分を剥奪した」
フマイヤの唐突なつぶやきが、会場の高揚に溶けこんでいたドネブを引きもどす。
「そ……それなら恨まれているのでは? なのに、あれほどの人気を与えては……なぜ、試合参加を認めているのです!?」
全身包帯の怪人はなにくわぬ顔で玉座に腰を下ろし、足元で果物をむさぼる褐色美女の口元をぬぐう。
「この島では誰であれ、この闘技場の剣闘士になれる。勝利に対しては見合った報酬が与えられる。私が領主として宣言した『約束』だ」
ドネブは息を飲んだ。
「いかなる『約束』であっても、必ず守るという評判は聞いておりましたが……いやはや」
衛兵に囲まれ、ジーナが貴賓席へ上がってくる。
列席していた諸国の要人たちは一斉に立ち上がり、王侯貴族を迎えるように群がった。
「お見事です! あと一勝ですなあ!? 側室の件、どうか考えてはいただけまいか?」
着飾った黒人の青年が宝石だらけの両手を差し出すが、褐色肌の中年男が押しのけて黄金の兜を捧げる。
「いえ、ジーナどのは武人であってこそ! 我が王妃の護衛隊長を引き受けてくださるなら、黄金の馬車も用意させましょう!」
ドネブは争奪戦の激しさに圧倒されながら、ついひとことをはさむ。
「私なら、一軍を任せる将軍として迎えたいですなあ。小国ではありますが……」
要人たちが一斉にうなったことでドネブは気がつく。
大国の彼らは財貨をはずむことはできても、高い役職を剣闘奴隷、それも若い女に与えることは難しい様子だった。
ジーナが視線を向けてかすかにほほえみ、ドネブの胸は高鳴る。
集まる嫉妬に身をちぢめ、ひそかに優越感も味わう。
「しかしフマイヤどの、本当にこの『完全なるジーナ』を手放すおつもりですか?」
賓客のくやしまぎれの質問に、フマイヤは顔すら上げないで、退屈そうな声を出す。
「ジーナは次の試合でチャンピオンに勝てば自由の身。それが『約束』だ」
賓客たちは『約束』のひとことで息を飲んでうなだれ、侍女たちのうながしで渋々と席へもどる。
「ん? チャンピオンとは? ジーナが最強ではないのか?」
ドネブの独り言へ、柱にもたれる隻眼赤毛の酔っぱらい女が応える。
「いやあ、新しい格づけが間に合わなくて、いまだに一位は『酔っぱらいのアイシャ』さんなんだよねえ?」
赤毛女はもうしわけなさそうに会釈する。
「ども。歴代最弱と評判のチャンピオンでっす」
儀礼の様式が整えられ、ジーナが玉座の前で片膝をつく。
差し出された金貨の山を見ても表情はない。
「興味がないなら、別のものを用意しよう。今日の勝利にふさわしい望みはあるか?」
フマイヤに尋ねられ、切れ長の目は鋭さを増す。
「試合を!」
迷いのない、はっきりとした宣言。
フマイヤは無表情に見下ろし、膝にもたれるヘルガはぼんやりと見ていた。
賓客たちに動揺が広がり、ドネブは思わず立ち上がる。
「な、なぜ? あと一戦で自由だろうに……将軍の件は戯れ言ではないぞ?」
ジーナはうつむき、苦しげな表情を見せる。
「もうしわけありません……くだらぬ意地です」
しかしふたたび瞳へ気迫をみなぎらせると、声の限りに宣言する。
「『ヘルガ』との試合を!」
賓客たちがうめき、ドネブは呆然とする。
「『約束』しよう」
フマイヤは口を大きく開けて笑顔を見せ、膝にもたれるヘルガはぼんやりと見ていた。
日が暮れ、闘技場の出入り客も少なくなったころ。
長身の人影が独り、外套の頭巾を深くかぶったまま正面玄関へ近づく。
門番は呼び止めるが、ジーナの顔を確認するだけで通した。
「外出許可は聞いている。監視も必要ないそうだ」
闘技場を囲む広場から大きな通りがのび、貴族の邸宅が並んでいる。
それが港へ近づくと民家、宿場、そして市場となり、月明かりを頼りにした出店でにぎわっていた。
路地の奥の一角に、庭が荒れ放題の広い屋敷がある。
石畳の隙間からも雑草が長くのび、石柱には蜘蛛の巣がいくつも連なっている。
ジーナは朽ちた玄関へ踏み入れ、つらそうに眉をしかめた。
誰もいない静寂で、記憶があふれてくる。
かつては多くの使用人が立ち働き、風格を維持してきた生家だった。
幼いころに亡くした母の棺も、同じ玄関で閉じられた。
「なぜ女などを産んだ……こんな荷物ばかり残して先に逝きよって……」
父は政争に明け暮れ、母は死後にも優しい言葉をかけられなかった。
「図体ばかり大きくなりおって! 貴様のような大女では縁談もままならぬ!」
使用人たちはジーナの長身を褒めそやしたが、それも大人の男の背を追い抜くまでだった。
「こんな体たらくで、どうやって地位を取り返すというのだ?」
父は策謀をめぐらし、しかし思い通りにはならず、常に苛立っていた。
「ええいっ、あの包帯男さえいなければ、今ごろは……」
やがて父は酒におぼれ、人望も財産も失う。
「酒を持ってこいと言っておる! 酒代くらい稼いでみせろ役立たず!」
ジーナは顔へ杯を投げつけられる日が増えた。
「バケモノの体を買う物好きもいないだろうがな!」
その言葉で意を決した。
「この金は……?」
父は久しく見ていなかった大きさの銀貨袋を渡されると、当惑していた。
「剣闘? おまえ、こんなに強いのか……?」
父の怯えたような顔が悲しかった。
ジーナが寝食を惜しんで鍛錬を積み、選手たちの研究を重ねた結果だった。
初戦から連勝を続けたが、はじめてぶつかった上位選手には苦戦を強いられた。
気迫をふり絞って、浅い経験をどうにか支える勝利になった。
「私にできる限り、賞金を稼いでお届けします。それで少しでも、家のお役に立てるのでしたら」
「お? ……おお」
他人行儀の呆けた声。
頬に大きな傷をつけられ、顔半分を血まみれの包帯で覆った娘に、父の言葉はそれだけだった。
「お父様、ただいま帰りました」
急速に技量を高め、ふたたび大きな勝利を得た夜、上機嫌で重い金貨袋を卓へのせた。
邸内に灯りはなく、酒の臭いがこもる父の寝室を燭台で探る。
「いい話がきています。王妃の護衛として雇ってくださるという大国が……」
笑顔がこわばった。
寝床の父は苦悶の表情で固まり、目を虚ろに見開いている。
「国王が直接…………会いに来たのですよ?」
呼吸を確かめるまでもなく、腐臭が漂いはじめていた。
笑顔がひきつり、震えだす。
「あれほどお酒は控えるように……と……」
闇の中、眼光に激怒が噴き出す。
刃が閃き、遺体を四分五裂に撥ね飛ばした。
冷えた血にまみれ、無言で立ちつくした。
回想を終え、暗闇の廊下も渡り終える。
「私はなぜ、戦い続けているのでしょうか?」
月明かりに照らされた寝台に、白骨と化した頭部が転がっていた。
「囚人は自由を、貧しい者は富を、武芸者は名誉を求め、闘技場で命を賭け合います。しかし私にはもう、あてもない意地しか残っておりません」
ようやく父へほほえむ。
「あなたの憎む『包帯男』は、たしかに人でなしです。反逆者の娘へ機会を恵み、公平な評価を下し、諸国の要人と引き合わせ……本当にひどい男です」