第四話 咲き競い 十一 成熟未成熟
「小剣使い『銀胡蝶シアン』対、小剣使い『子猫のルチカ』!」
一日目の全試合が終ったあと、翌朝の第一試合の組み合わせが発表される。
「おまえひょっとして、いかれ頭どもに気にいられたんじゃねえか?」アイシャ。
「新人が申請した追加試合なのに、一晩の休憩をもらって、相手も新人……ずいぶんな優遇だよなあ?」プレタ。
「だからってヘルガも領主も『まともな人間にありがたいひいき』なんかしねえだろ?」コルノ。
ルチカは客席でおとなしく聞いていたが、つい笑顔になりがちだった。
「おおい、そんなに喜ぶなって。アレが関わるとろくなことにならねえんだ。それとも人気者のチョウチョちゃんをそんなに刺したかったか?」
アイシャに黒髪をかきまわされてもルチカはうれしそうだった。
「いえ、だんだんと初勝利の実感がわいてきて……みっともなくても、勝ちは勝ちなんで」
「うへ~、ういういしいねえ。んじゃ、賞金もらってこい。落ち着いてな」
衛兵が今日の試合の勝利者に声をかけてまわっていた。
一段高い貴賓席へ案内されると、あらためて剣闘士席との近さに呆れる。
「あいつらが一斉に襲ってきたら、オレらだってどうしようもねえ」
ルチカの表情を読んだ中年衛兵が小声でからかう。
「武器はここで預かる。あとは指示されるとおりに、おとなしく従っていれば問題ない……ヘルガが近づいてきた時だけは、逃げてもおとがめなしだ」
はじめて玉座を間近に、ほんの十歩ほど先に見る。
全身包帯の領主は尋常でないやせかたをしているが、背は高そうだった。
褐色の美女は珍しく手足をそろえ、背をのばして腰かけている。
ただし乗っているのは領主の膝で、自分の席のように落ち着いてほほえんでいた。
アイシャはヘルガについて語りたがらないが、ルチカから見ると妬んでいるようにも思える。
絶世の美女で、天性の勝負強さから歴代最強の剣闘士を討ちとっていた。
奔放な性格で、罰金行為は『壊れたルドン』すら上回る常習者らしいが、それだけの賞金を稼ぎ続ける実質の最強という噂もある。
それに賓客が居並ぶ中であのようにふざけても許されるなど、領主からよほど深く信頼されているように思えた。
「前が見えん」
領主がボソリとつぶやくと、ヘルガはふり返って包帯頭に抱きつく。
紐のような下着がくいこんでいるだけの尻がルチカに向けられ、目のやり場に困る。
目をそらすと、居並ぶ衛兵も決して穏やかな顔ではなく、その後ろではアイシャがこっそりと親指を下に向けて見せ、ルチカへ抹殺の指示を出していた。冗談かどうかは怪しい。
「すまん。はじめよう」
謁見の第一声で主君に謝罪されてしまい、奴隷のルチカは片膝をついて顔を伏せたまま、どんな表情をしていいものか悩む。
ただでさえ、試合場とは別の緊張で体が固まっている。
領主の顔は見えるようになったが、ヘルガは横向きに座りなおしただけで、ひとりの側近をのぞく全員がとまどっていた。
ルチカはなぜか、ヘルガの青い瞳が自分を向いてほほえんでいるように感じる。
名を呼ばれた『屠殺人リュノ』が進み出て、衛兵が小声で出す指図にぎこちなく合わせながら、賞金を受け取っていた。
布きれの上に、銀貨がひとつかみ。
だまし討ちで『鯨のコーナ』の首を裂いた報酬。
この島で剣闘士となる者は、金銭を借り入れて隷従の契約を結ぶ。
囚人であれば刑罰も借金として換算され、試合の参加資格を得ていた。
勝利報酬の四分の一は、解放の時にまとめて支払われる。
残りは借金の返済、つまり勝ち抜け解放の条件にあてることができた。
ほかにも一時外出の許可や家具、衣服、酒食、男娼を買う用途にまで使える。
ルチカも呼ばれ、同じように賞金を受け取ってもどる。
捕獲勝利だったのでリュノの倍あり、片手だとあふれそうな量だった。
故郷の父が一年がかりで稼いだ額と同じ。
自分と父が一年は暮らせる額が、たったの一日、鐘がいくつか鳴る間だけの働きで、手に乗せられてしまった。
浮かれた気分は不安に代わり、息苦しさになってくる。
三ヶ月の間、ボロボロになるまで鍛え続けた成果でもある。
リーシーンの指を裂き、頭をくりかえし打ちすえた報酬でもある。
リーシーンはこの銀貨を娘へ送るために、ベフィへ鎖を振り下ろし、ルチカやシアンに斬りつけられた。
『鋼鉄のラカテラ』も『薮蚊のドルジェ』を殴りつぶした報酬を受け取っていた。
引き返す時に見た顔は珍しく冷たい無表情で、わずかに視線を向けられた。
ルチカは憎しみよりも恐怖を強く感じる。
手にしている銀貨の山も、重くなってきた。
たった一年分の稼ぎが、ドクリドクリと鼓動していた。
中堅以上の試合の勝者は、さらに何倍も大きな銀貨の山を受け取る者もいた。
しかしヘルガの青い瞳はなぜか、ルチカの銀貨袋だけを見つめる。
『死神の落とし子』はルチカの視線に気がつくと、目を合わせてほほえんだ。
ルチカはようやく、観客が『悪魔の娼婦』と罵る気持ちを少しだけ理解した。
人々はこの豊かな交易地を『地獄の島』と呼ぶ。
内外から圧倒的な支持を集める名君フマイヤには『悪魔公』の異名があった。
謁見が終わってもルチカはプレタの牢の宴会場には寄らないで、まっすぐに下位選手用の宿舎階へ向かう。
明日の早朝に試合を入れてしまったので、気を落ち着かせたかった。
狭い通路の分岐で、ベフィがおどおどした笑顔で待っていた。
「初勝利おめでとう……試合前はごめん」
「わたしこそ……部屋に来てくれる?」
牢といっても閉じこめられるのは夜だけで、内側からも簡単なかんぬきをかけられる。
寝台、毛布、水桶なども用意され、ルチカがひとりで使うには故郷の家より贅沢なくらいだった。
いっしょに寝台へ腰をかけると、ベフィも手伝って胴鎧を脱がせる。
「正直、うらやましいなあ。でもわたしだけ全敗になったら、なんだか少し気が楽になったかも」
「連敗からベテラン以上になった人も多いらしいよ?」
「あきらめたわけじゃなくて、ようやく思いだしたの。鍛えて強くなったつもりだったけど、自分が小さくて貧弱で、気もきかないグズだって」
ルチカは以前、ベフィの包帯を換える時に、背にたくさんの傷跡を見ていた。
昔の手伝い先で、おかみさんの鞭に打たれていたという。
「それでもここでは、まともな食事を毎日くれる。ケガで動けないのに、量を減らされることもない……それにまだ、生きている」
ベフィは枕元におかれた鉢巻と髪留めを見ていた。
血の染みた鉢巻は最初に『事故死』したギルマのもの。
ルチカはわずかな時間でも世話になった仲なので、いつか遺族や知り合いに会う機会があれば、渡すつもりでもらっていた。
髪留めは先月に事故死したミュラのもの。
木の玉が両端についただけの紐だが、ギルマと同じように形見として欲しいかと衛兵に聞かれ、断る理由もないので受け取っていた。
「死ぬなら自分が最初だと思っていたのに、まだわたしはケガさえ治せば戦える。こんなに恵まれたことなんて、はじめてなんだ……ルチカ? どうしたの?」
ほほえむベフィの腕が、ルチカにつかまれていた。
「わたしは……怖い」
ベフィが心配そうに寄せてきた肩へ、すがりついていた。
「勝ってみたら、解放まで何戦も勝ち越しする難しさが急にわかってきたし……負けた時のみじめさとは違う、自分が自分ではなくなるような、嫌な感触があるんだ」
手が震え、涙が浮かんでいた。
「降参したリーシーンを打ち続けたわたしは、わたしだったのかな? 勝つたびにああいう風になっていくのかな? それでいつかは、ラカテラやテルミンみたいに……」
「わたしも一勝できるようにがんばるよ。少なくとも、相手を傷つけられるくらいに。ルチカがドルジェを追いかけていたように、わたしもルチカを追いかける」
「待ってる……早く来て……」
「ルチカは生きて勝ち続けて。ルチカがドルジェに願っていたように、わたしもそう願うから」
翌朝。ルチカが夜明け前に起きると、通路の水くみ場にはすでに迎えの衛兵たちが来ていた。
「ここは賞金でなんでも買えるって聞きましたけど、武器も買えます?」
「形見か? おまえは刑罰での収容ではないし、部屋から持ち出さない条件なら、許可は安く済むはずだ」
衛兵たちは察しよく話を進める。
「ドルジェの手甲と……ベレンガリアの頭飾りも?」
「あ、お願いします」
「コーナの網は在庫が増えるまで待つかもしれないが、使い手がいないなら払い下げも早まるか? 問い合わせておこう」
妙な話題で盛り上がりながら控え室へ着くと『熊のプレタ』が待っていた。
ルチカがあいまいな苦笑で会釈すると巨体が立ち上がり、目の前をふさぐように上から見下ろす。
「勝って、とまどって、浮かれて、怖くなって……その次は?」
いつもの温和な顔ではない。
「次は死ぬぞ」
衛兵たちが見ている目の前で、ルチカはむなぐらをつかまれ、よこっつらを張り飛ばされた。
今までどんな大人の男にひっぱたかれた時よりも、体の芯に響く。
中堅選手は上位陣のバケモノを倒すこともある、バケモノじみた猛者だった。
体がすくんで動けない。
「試合で最も大事なことは?」
「うまく負ける……生きのびる」
「そうだ」
反対側も張り飛ばされ、口に血の味が広がる。
「試合前に、死んだやつのことなんか考えるな。リーシーンと戦う前の気持ちを思い出せ」
ルチカが震えてうなずくと、巨体は衛兵をかき分けて去った。
「あの……」
「規則だから報告はする。だがおまえが望まない限り、マリネラ様はプレタに罰金をつけたりはしないだろう」
そう言って出迎えの衛兵も去ったあと、控え室つきの中年女の衛兵は小声で笑った。
「あの熊、つくづく人がよくて、剣闘士には向いてない。なのになんでか生き残っている。そういう先輩様のありがたい助言だ」
それからは誰もひとことも発しなくなる。
ルチカは両頬がビリビリとしびれていたが、嫌な痛みではない。
熱いのに温かい。
まだ朝の冷えこみが強かった。
観客のざわめきが少しずつ大きくなる。
『鴉のブレイロ』と呼ばれる審判女が試合場でがなりはじめた。
やがて控え室へ入ってきて、ルチカの装備と全身を調べると、早足で出て行く。
控え室から入場通路へ出されると、扉の隙間に白んできた空の光がもれていた。
歓声が大きい。初戦から三連勝している新人『銀胡蝶シアン』に期待した応援が多い。
ルチカに声がかかり、大扉がきしみながら開く。
その瞬間にはいつも熱風を感じた。
緊張しているが、手足の感覚はしっかりしている。
あらためて頬の痛みに感謝して、自分へ言い聞かせる。
これからわたしはシアンを殺す。
それができないなら、うまく負けて生きのびる……ほかのことを考えていいのは、余裕のある強豪になってから。
ここは殺し合いを見世物にする処刑場。
自分はまだ、人殺しのバケモノになりきれていない。
雲のない空がみるみる明るくなる。
中央に立って紹介を受けた時、闘技場の最上段にある柱が朝日を浴びて輝きはじめた。
向かいに立ったシアンは心なしか、容姿に一段と磨きがかかっている。
ルチカは教官から練習量を抑えるように注意されがちだったが、自分が訓練場にいる時にはほとんど、シアンの姿もあった。
あの硬い無表情のまま、飽きる様子もなく徹底して基本に集中し、教官との打ち合いでは常になにかを試しているように見えた。
観客はシアンの涼しげな容姿だけを見て『繊細で優雅』などとほざく。
あの刃先にこもる気迫と執念を嗅ぎ取れば、可憐な異名など、たちの悪い冗談でしかない。
似たような体格と技量からはじめ、今日まで生き残った同期だが、これから殺し合う。
これから殺し合うが、今日まで生き残った同期で、最も誇らしい戦績を挙げている。
いつもどおりの冷徹な鋭い眼に見つめられると、なぜか安心できた。
開始の鐘からふたりで跳ねまわり、細かい突き牽制の応酬になる。
ルチカは最初の何呼吸かで、鍛えた手足がシアンにも通じることを確信できた。
次の何呼吸かで、自分が少しずつ不利に、押されがちになってあせる。
手数や足さばきは劣っていないはずなのに、なぜか打ち合いにくい。
教官やプレタを相手に稽古した時のような、地力の差ではない。
アイシャが酒をあおりながら、からかい半分に打ち合った時に近い。
『実にバカ正直で読みやすい太刀筋だねい? カモの見本だねい?』
読みや感覚をずらされるやりにくさだった。
シアンの足が時おり不自然な動きをしていることに気がつく。
半端に止めるような、急に目の前でのびるような。
訓練場では見せない『隠し芸』を仕込むこともまた、当然の工夫だった。
わざと歩幅をずらしていると気がついたところで、どうなるものでもない。
落ち着いて、自分の間合をつかむ基本が試されていた。
シアンに大きく回りこまれた瞬間、ルチカは小剣を左手へ持ちかえながら背を向け、身を沈めながら振り向きざまに斬り払う。
今度はシアンがあせりを見せ、ルチカの細かく速くなった突きの連撃に押される。
ルチカは自室で、両手ききの練習をしていた。
しかし左ではどうしても振りが軽くなる。
右拳で殴るかまえも見せながら、手数でごまかしていた。
シアンの鋭さならすぐにも見抜かれてしまいそうで、驚いている内にたたみかけたい。
砂を蹴り上げながら、ふたたび持ち手をかえる。
まだ左に持っているふりで拳を出すと、シアンは身をちぢめてかわす。
その首筋へ斬りつけた瞬間、シアンはさらに這うように体を沈めてかわし、足払いをかけていた。
ルチカは横倒しになり、馬乗りにされ、剣を握る腕はシアンの足の下になってしまう。
それでもまだ体勢は不安定で、変えられそうだった。
シアンが振る剣よりも早くはねのければ……ルチカはそう考えながらも、直感で小剣を手放す。
「降参!」
「う……う!?」
シアンのおびえて苦しげな顔をはじめて見た。
ルチカはのどへ押し当てられた刃の冷たさを感じ、下腹のあたりがギュウと緊張する。
「降参を、認める……」
ふたりとも息がきれていた。
シアンへの喝采と同じくらい、ルチカへの嘲笑や罵声が飛ぶ。
「情けねえなあ! まだやれたじゃねえか!」
知ってるよ。
「腰ぬけ! 刺し違えてでも殺してみせろ!」
自分でやれよ。
そんな客への悪態を考えていたら、なぜか落ち着いてきた。
馬乗りになったままのシアンがとまどっている。
「なにを笑っているの?」
「アイシャたちに言われた『うまい負けかた』をできた気がして。『勝つよりも生きのびろ』ってしつこく言われたこと、今は感謝している」
シアンは怒ったように顔をしかめた。
「負けて笑うなんて……私はもう、みじめな思いだけはしたくない」
ルチカは驚いたが、はじめてシアンの素顔を見たような嬉しさも感じる。
「でもシアンなら迷わず斬ったでしょ? わたしが動くよりも速く」
返事はない。
「四連勝おめでとう。でも五連勝より、生きのびることを考えて」
ルチカは衛兵に囲まれて退場しながら、客席を見渡す。
「あんだけやれるならもっと粘れ! 次は粘れよ!?」
賭け札の都合だけで好き勝手を言う観客の声はいつもどおりだが、なぜだか嬉しかった。
しかしシアンが今回も追加試合を申請したようで、すべての注目と歓声を奪われる。
控え室にはアイシャたちが待っていた。
ルチカは照れながら会釈する。
「おかげでどうにか生きのび……」
「ぶぁ~か! ああいうクソまじめな新人はだまし放題なんだから『いやあっ、助けて!』とか悲鳴を聞かせて、隙を誘ってつけこめ! それがダメそうなら降参すりゃいいんだ!」
「……あらためて格づけの頂点がアイシャさんて、どういうことなんでしょうね?」
酔っぱらい女はルチカの首へ腕をまわし、頬へぐりぐりと拳を押しつける。
「てめ~、ようやく一勝できただけのガキがえらっそ~に! 股に腕つっこんで祝うぞコラァ!?」
「邪魔だ。牢でやれ」
まとめて衛兵に追い出された。
アイシャはさっさと先に客席へもどり、酒壺をかついだコルノも追う。
ルチカが通路分岐の小部屋でよろよろとへたりこむと、プレタが残っていた。
「なんだか急に、負けた落ちこみが……一勝三敗だと、解放の目安になる五戦の勝ち越しは、最短でも七連勝かあ……」
「天才様でなけりゃ、あせらないことだ。これ、姐さんから」
プレタは大きなかごを差し出す。中に入っていたのはドルジェの手甲、ベレンガリアの角つき頭飾り、フロッタの盾、コムリバの鍔なし小剣。
「コーナの網も届くらしい」
「初勝利のお祝いがみんなの形見?」
「貸しにはならないから気にすんな。亡くなった時の貯金は、借金や埋葬の手間賃とかを引いた上で、指定の送り先に届けられる……ドルジェのやつ、なぜか姐さんに指定していた」
「身寄りがないからって、なんでまたあんな人に……もらった情報のお礼? それならアイシャさんがお酒でも買えばいいのに。なんだか不機嫌そうだったし」
「姐さんも変なところだけ意地が残っているから……ドルジェのやつ、そのへんも見抜いていたのかな? 姐さんを指定したら、おまえのためになる使いかたをするって、わかっていたのかも」
ルチカはかごを抱きしめ、長いため息をつく。
「どこまで憎らしい薮蚊だ」