第四話 咲き競い 九 向き不向き
通路番の衛兵たちが立ち去る背を見て、ドルジェはゆっくりうなずく。
「ふざけあいは好き勝手やらせるわりに、きなくさいことには目ざといねえ……見る目のある客も多いし、オレのいた拳闘場に比べりゃ、ここは天国だぜ?」
入れ代わりに別の衛兵たちが来ていた。
「ドルジェの試合時間を早めてもらってもいいか? 少しは手当ての金もつく」
「問題ないっす。あとオレも無傷の速攻で勝つ予定なんで、そうなった時の追加試合、今から頼めますかね?」
「伝えておく。それはマリネラ様も歓迎だろう」
平然と笑うドルジェを見上げ、ルチカは口をとがらせる。
「ずいぶんな自信ね? 雲ひとつない空で残念……雨でもないのに『雨女』に負ける最初になっちまえ」
「がんばって祈りな」
ドルジェは見事に勝ってしまった。
開始早々、『雨女ネクタ』の鋭い棒さばきをかわして間合いを詰め、ほんの三発、顔と腹へ拳をたたきこんで気絶させてしまった。
ルチカは認めざるをえない手際の良さに、長いため息をつく。
「ずっと賭け拳闘をやっていたやつなんて、別枠にしてくれりゃいいのに」
「拳闘場はここより人死にが少ないとはいえ、ここの中堅なみには鍛えられているな。それでも格づけを譲るほどじゃねえが」
コルノはそっけなく返し、アイシャなどは酒壷でこづいてくる。
「つうか、ここじゃ新人だって、いきなり上位陣ともあたる。やつはそれを望んでいるし、実際あと少しでダッキーちゃんには勝てた。それくらいじゃねえと十戦を残って『ベテラン』になるのは難しい……ん? その薮蚊ちゃん、帰ってこねえぞ?」
「あやつが相手であれば、新人といえど不足なし! このラカテラ、喜んで胸を貸そう!」
無駄に声の大きい筋肉女が、領主の側近マリネラの提案を受けたようだった。
その声量は試合場の中央まで届いたようで、ドルジェは対戦相手を見上げ、心から嬉しそうにニタつく。
ルチカには憎らしく、恐ろしく、なぜか少しだけ誇らしい。
「拳闘使い『鋼鉄のラカテラ』対、拳闘使い『薮蚊のドルジェ』!」
審判が指を三本、立てて見せる。
「なお、ドルジェには『鐘三回』の調整を与える!」
観客は盛り上がるが、意欲的な新人への応援は少ない。
「でしゃばるな新人!」
「『薮蚊』が『鋼鉄』に刺さるかよ!」
「ラカテラ! 派手にたたきつぶしちまえ!」
ルチカは複雑そうに苦笑する。
「ドルジェのやつ、嫌われてるなあ?」
「そりゃ、もともと見てくれも態度もまずい上、今までの組み合わせがなあ?」
「『雨女』は勝率が高いのに見た目はいたいけで、妙な人気があった」
容姿について語ることが少ないプレタとコルノも、いくらか同情を見せる。
長身の『幸運なるダッキー』はわざわざ立ち上がって豊満な肉体を誇示する。
「アタシは売春宿でも看板だった顔と体に愛嬌だから、ちょっとアザをつけただけでもお得意様はぷんぷんよ~お?」
一部の客が試合場から目を放して謎の歓声を上げる。
「初戦からして、ちっちゃなシロウト新人ちゃんが倒れても蹴り続けた人でなし……」
銀髪のモニカが話を最悪の流れへ持っていき、ルチカは眉をしかめる。
声に出せない反論がわいた。
殺し合いなら、相手が武器を放してひれ伏すまで、容赦しないのは当たり前。
ドルジェが蹴り続けたのは、まだ戦える相手と認めていたから。
「……って、たいていのお客人は思うかもね。でも『玉座のお客人』は見る目がありすぎて、試合組みでも高い評価をなさっているから、薮蚊さんは気にしていないでしょうよ」
銀髪の美女『ささやくモニカ』は時おり、心を見透かすようにほほえむ。
やせぎすなドルジェと対峙する筋肉塊は、何倍もぶ厚く重く見えた。
どちらも長身で、男の平均に近い。
「格づけ五位の筋肉バカ……『幸運なるダッキー』にも越えられない壁をぶつけてきたか。しかも拳闘使いだとなおさら、あの肉鎧を通す攻撃は難しい」
アイシャが言うまでもなく、ラカテラは骨格からして尋常ではない太さで、眉まで太くて濃すぎる顔も常人ばなれしている。
立つほどに短い髪、帯でしめたそでのない衣服。
「でもあの……ラカテラさんの装備って……」
ルチカは首をひねる。
筋肉塊のあちこちに、厚い鋼鉄の板をつけていた。
すねが守られ、足の甲や腿はむきだし。
前腕が守られ、拳や上腕はむきだし。
腰、胸、肩が守られ、腹、背中、首、頭は無防備だった。
「全選手で最も頭が悪い選択をしたひとりだ」
アイシャが深くうなずく。
「あんなすごいお肉に、あそこまでぶ厚い鉄板をのっける意味がどんだけあるんだろね~?」ダッキー。
「両手を開けて防具を重視するにしても、あんな厚みより面積を広げるべきだ」プレタ。
「せめて首や腹を優先して固めろよ!」コルノ。
ここぞと競うように批判がぶつけられる。
「あの重さをものともしない肉の厚みと、効率の悪さを考えないでいられる精神の厚みときたら、上位陣に入れちゃうほどなわけ」
モニカの解説に、ルチカは得体の知れない寒気を感じた。
開始の鐘が響く。
ルチカは自分や『雨女』を一瞬で沈めた拳闘術の恐ろしさを知っている。
しかし鉄輪を握ったドルジェの拳がめりこんでも、ラカテラの笑顔は崩れない。
「腹へ斧を直撃させたのに『降参していいか?』って声かけられた時には謝りそうになったわホント」
「アイシャさんの斧でそれなら、ドルジェの拳なんて、まさに薮蚊の……」
「この戦いは『薮蚊』の名を返上する良い機会だ! 『吸血コウモリ』となるか『流血鬼』となるか、その技量のすべてを示してみよ!」
ラカテラは笑って激励しながら、腕もかまえずに直進して打たれた。
ドルジェは壁へ追い詰められないように大きく回るように後退し、ギリギリの間合いを保つ。
射るように素早く左拳を放って、すぐに離れる動作をくり返していた。
「んじゃ、遠慮なく」
何度目かの左拳のあと、不意に、ほとんど同時に、重い右拳の追撃が加わる。
ラカテラの前進がついに止まる。
頭が跳ね、鼻血を噴き出し、嬉しそうにうなずいた。
「我が『鋼鉄』の肉体より血を奪えるならば、誰も『薮蚊』とは呼べまい!」
そしてようやく両腕をかまえる。
ドルジェは素早く間合いを離しながら、嬉しそうに冷汗を噴き出す。
「顔面にきめてそれかよ。半歩くらいさがれっての」
開始から一回目の鐘が鳴る。
「へえ……あれならいけるかも? アイシャがコツを教えてあげたの?」
モニカは杯を止め、ドルジェの鋭敏な動作に目をこらしていた。
「薮蚊のほうから教わりにきやがったよ。冗談まじりに将来の勝ち星までちらつかせて。拳闘使い同士で早めに当てられそうなことも、相性が悪いこともわかっていた」
ルチカは驚く。
「あれで勝てるんですか?」
「やつのにぶさは恐いが、弱点でもある。あの筋肉バカ、本人が思っているほど頑丈じゃねえ」
ドルジェの戦術は変わらず、左拳で牽制しながら逃げまわり、時おり右拳の強烈な追撃を狙う。
しかしラカテラの頭は鉄板つきの太い両腕に守られ、直撃はほとんど狙えなくなっていた。
「並の剣闘士の何倍もしぶといバケモノだが、さっきみたいな即死でもおかしくない直撃をもう何発か……多くても十発か二十発くらい打ちこめたらいける」
ラカテラも単発の豪拳で反撃をはじめた。
打つ瞬間は、ぶ厚い体がドルジェに近い速さで踏みこむ。
ドルジェは腕の長さに鉄輪を加えた有利な間合いを徹底して保ち、ギリギリで巧みにかわし、時には同時に打ちこんでいる。
「うまいね。頭を狙うふりして、腹もじわじわ削っている。あのバカはにぶいから『気がついたら体が動かない』降参をやらかす。まあ、それまで百発、二百発と鋭く攻め続けられる技術と体力は結局、中堅以上になるんだが……」
「運だけシロウトのアタシより、ドルちんのほうが技術も経験もありそうだし、アイシャ様っぽい手口も得意そ~」
ダッキーは苦笑いしたが、アイシャは眉をひそめた。
「……一番の心配はそれだ」
二回目の鐘が鳴っても、ドルジェへの声援は盛り上がらない。
「目だ……砂をすりこんだ!」
アイシャに言われても、ルチカにはドルジェの右拳が浅く入ったようにしか見えなかった。
しかしラカテラはひるみ、右目を閉じている。
「これで死角が大きくなる……」
ルチカは期待したが、アイシャとモニカの不安顔に気がつく。
「ちょっとお、ちゃんと教えてあげた?」
このふたりが試合場での卑怯や無礼を非難するわけもない。
ドルジェはなにか、本人の損になるまちがいをした。
「あれくらいならまだ……しかし『バカは怒らせるな』と言っておいたのに……」
ドルジェは死角をねらい、何発も打ちこむ。
軽く見えた一打で、ふたたびラカテラがひるんだ。
「耳だ……平手をうまく当てると、鼓膜は簡単にいかれる」
ラカテラは耳を押さえながら、防戦一方になる。
「やべえ。すぐに降参……いや、攻めまくってとどめに賭けろ!」
アイシャに言われるまでもなく、ドルジェはここぞと回りこんで、渾身の連打を浴びせていた。
筋肉塊がはじめて大きく跳びさがって逃げ、アイシャは舌打ちする。
ラカテラは自分で自分の耳へ平手を打ちつけた。
客席は異様に盛り上がる。
「小指には小指を!」
「耳には耳を!」
三回目の鐘が響き、ようやくドルジェへの声援も聞こえてくる。
「一気に勝っちまえ!」
「三割なんかで逃げんな!」
ドルジェは攻め続けている。
しかし守りに専念しているラカテラを警戒し、慎重になっていた。
「あの耳、なんのつもりです!? 『降参は聞かない』というおどしとか!?」
「前にだまし討ちで小指を折られた時も、自分でもう片方をへし折っていた。『なんのために?』って聞きたいだろうが、本人も『むしゃくしゃしてやった』としか、わかってねえ」
ルチカの背に、ふたたび寒気が走る。
「気をとりなおすために、自分の顔をひっぱたくことはあるけどねえ?」
モニカがつぶやき、アイシャは酒壷をあおる。
「やつの頭の悪さは弱点だが、恐さでもある……」
がっちり守った太い両腕の下、濃い顔は獣じみた憤怒で真っ赤になっていた。
「あの筋肉バカ、本人が思っているほど度量がでかくねえ!」
ドルジェの顔にはじめて、とまどいが見えた。
「ようやく状況に気がついたか? だが……」
アイシャのつぶやきが聞こえたかのように、ドルジェは両手を上げて『降参』を宣言し、大きな罵声を集める。
ラカテラは足を止めた。
真っ赤な顔を上げて見せると、眉をつり上げたまま口もつり上げて笑い、ゆっくり首を横にふる。
相手が認めなければ『降参』は成立しない。
勝者は『降参』を無視して殺害する権利がある。
戦闘不能による『降参』の自動成立も、殺害のために十分な『十歩』の時間を待ったあとで下される。
『地獄の島』の競技祭は常に、本来の目的だった『処刑』を執行する権利が『約束』されていた。
ドルジェは真顔で試合場の端にいる審判女を見て、アイシャたちのいる剣闘士席を見て、両拳をかまえなおす。
そしてふたたびニタと苦笑すると、指先でちょいちょいと試合の再開を誘った。
ようやくドルジェに、相手と同じ量の声援が送られる。
アイシャは真顔で親指を下に向けて『死にたくなければ殺せ』と指示を出していた。
ルチカもようやく、状況がわかってくる。
「あの鋼鉄女、いつまで守り続けるつもりですか……?」
誰も答えなかった。
毎朝毎晩、大岩を背に駆け続ける筋肉女の姿は、訓練場の見飽きた風景だった。
「ドルジェの息が続く間に、しとめられるかどうかだ」
アイシャがボソリとつぶやく。
ドルジェがふたたび、連打でたたみかけてまとわりつく。
ラカテラの牽制に対しても、ギリギリまで飛びこむ。
息がすでに、きれかけていた。
「すげえぞ新人!」
「上位陣を本気にさせた!」
「たいした『薮蚊』だ!」
「いけえ! 『流血鬼』!」
ラカテラは時おり牽制を見せるだけ。
当てる気もなく、ひたすら守りを固め、ズシズシと迫り続ける。
「ああなったら、刃物や組み技で決着を狙えない相性の悪さがどうしようもねえ。だがすでにかなり当てている。あのバケモノの限界まで、直撃をあと一発か二発か……数発もねえはずだ」
アイシャはそう言いながらも、酒が苦くなったように飲み口を離す。
ラカテラは豪拳を振るっていた時のほうが、その隙をついて、勢いも利用した強烈な反撃を当てられた。
今もドルジェはむきだしの部分に当て続けているが、効いている様子はない。
厚すぎる筋肉にはじかれ、足を止めるほどの威力はない。
ドルジェは苦しそうな顔になっても、素早く正確な連打をどうにか続けていた。
ほんの少し、腕が止まり、大きく息を吸った瞬間。
ラカテラが両腕を腰にかまえて守りを捨て、怒涛の反撃に転じる。
試合場に血がまき散らされ、歓声と悲鳴が錯綜した。
「あ~あ! 『薮蚊』が使いもんにならなくなっちまうよ!」
「うひゃ~あ! 『流血鬼』のラカテラはひさしぶりだ!」
ルチカは目をこらし、やせぎすな体がめった打ちにされながら、いつまで戦おうとしていたか、やせこけた顔がグシャグシャにつぶされながら、いつまで笑おうとしていたか、目に焼きつける。
血まみれの鬼は眉をつり上げて笑ったまま、動きもしない亡き骸まで砕き続けた。
観客が声を低めるのと、決着の宣言と、どちらが先だったか、ルチカの記憶にない。
流血鬼が手を止め、多くの衛兵に遠巻きに囲まれ、ふらふらと退場する。
入れ代わりに大きな麻袋が持ちこまれ、ルチカはようやく人の減った客席に気がついた。
ふたたび試合場を見下ろし、麻袋へ詰めこまれる残骸をじっと見つめる。
『虫ケラなみの死にざまなら、虫ケラなみの命ってことだろ?』
「あんたがそんな、あだ名どおりの死にかたすんなよ」
この闘技場に来てはじめて、他人のために涙が流れた。