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第一話 処刑場に捨てられて 一


 人が金銭で売買されない国など存在しただろうか。


 少なくともそれが非難されなかった古い時代。

 遠い辺境の海に、岩がちな孤島が浮かんでいた。

 歩いて一周しても一日とかからない、狭くやせた土地が断崖絶壁に囲まれている。

 南端だけは小さな入江があり、大きな木造帆船が窮屈きゅうくつそうに並んでいた。

 港からのびる通りに沿って、石積みの家屋が何重にもひしめき、厳しい自然環境とは不釣り合いに市場が栄えている。

 人々はこの地を『地獄の島』と呼んだ。


 島の道は中央の小山へ集まり、月に一度は大群衆が押し寄せる。

 その多くは一枚布を両肩で止め、腰を結わえただけの衣服だが、中には飾り立てたローブを羽織る者も、すりきれた腰巻だけの者も、珍しい毛皮をまとった者もいる。

 人種も年齢もばらばらな誰もが山頂にそびえ立つ円形闘技場へ引き寄せられ、ありの行列のように吸いこまれていった。

 熱狂的な歓声は場外にまで降り注ぎ、幼い少女すら漠然とした畏怖と羨望をこめて、巨大すぎる石塊を見上げていた。



 胴鎧の男たちが槍をそろえて居並ぶ大扉の奥に、罵声と声援の渦巻く底に、砂を敷きつめた試合場の中央へ、ぎらつく視線が集まっている。

 それらを一身に浴びて立つ男は浅黒く日に焼け、息をきらし、歯をむき出して笑っていた。

 粗末な腰巻は血まみれで、革の小手とすね当ては傷だらけになっている。


「ざまあみろ! オレを卑怯とののしった間抜けども! 恥知らずとさげすんだ馬鹿野郎ども!」


 汗だくの絶叫に、客席は大きな野次で応える。

 男の足元には小柄な少女がひとり、血だまりの中で息絶えていた。


「生き残るのはオレだ! 金貨の山を手にして、こんな島からは出て行ってやる! あとひとり、頭をかち割れば終わりだ!」


 不意に、観客の騒ぎ声が低くなった。


「だがそいつだけは! 腕をねじ折り! 脚をつぶし! この場で犯してやる!」


 男の笑いはひきつり歪む。

 向かい合い、長身の女が立っていた。

 同じく息をきらせ、褐色の肌は汗にまみれている。

 革のサンダルに、厚い鉄輪のついた革の小手とすね当て。

 腰にはもうしわけ程度に、小さな金属製の下着がくいこんでいる。

 豊かな胸は包帯でぞんざいに押さえているだけ。

 その裸体は肉感的な挑発と、引き締まった凛々(りり)しさが調和していた。

 艶やかな黒髪は背に届くかどうかの短さ。

 顔は柔らかく整い、厚めのくちびるに、長いまつ毛。

 少したれた目は大きく、瞳は深い青。

 男を見つめ、優しくほほえんだ。


 観客は一斉に、盛大な罵声を女へ浴びせる。

 女の足元には三人の少女が転がっていた。



 客席の後方では、飾りたてたローブの中年男が衛兵に案内されていた。

 背は平均的な女性ほどしかなく、顔も腹も肥えてたるんでいる。

 周囲の熱狂に圧倒されながら、不思議そうに何度か試合場を見ていた。


「傷つけるには惜しい美貌だが……あの女はよほどの大罪人なのか?」


 最前列の一角に設けられた屋根つきの広間へ通される。


「特使のドネブ大臣がご到着なさいました」


 衛兵が報告しても返答はなかった。

 中央の玉座に座る飾りローブの男はやせこけ、指先から顔面まで包帯に覆われている。

 隙間から見える大きな目は、ひたすら試合場を凝視していた。

 ドネブは両手をもんで愛想笑いを作る。


「フマイヤどのの剣闘好きは聞きおよんでおります。どうかお気づかいなく。ごあいさつは試合のあとで」


 包帯の男が一瞬だけドネブへ視線を向け、すぐにもどす。


「ようこそドネブどの。お言葉に甘え、しばし失礼させていただく」


 やせ細った首からは意外に大きな声が出た。


「マリネラ。席の用意を」


 包帯男の側に、子供のような背の女が立っていた。

 かっちり整った黒髪に、人形じみて白い肌、糸のように細いつり目。

 はりついたような笑顔でうなずき、手ぶりで侍女へ指示をだす。

 まもなく革張りの座椅子、銀器をのせた膳が運ばれ、ぶどう酒を注ぐ美女と、肉料理を切り分ける美女がかしずいた。


 ドネブは周囲を見渡し、ため息をつく。

 柱の精緻な彫刻、天井を覆う絵画、床に敷きつめられた大理石、侍女たちの着飾りと化粧……いずれも華やかでありながら、くどさもなく調和していた。


「いや、お見事……しかし、これだけの財物と美女をそろえ、いまだに正妻の居室は空けているとか。フマイヤどのの人望であれば、縁談にはこと欠かないであろうに」


 酒酌みの侍女は困ったような笑顔を見せ、あいまいにうなずく。


「夢中になっている愛人がいると聞いたが、これでは誰のことやら。たしか名前は『ヘルガ』と……」


 侍女の肩がビクリと震え、注いでいた酒がドネブの衣服にこぼれる。

 ドネブは穏やかな笑顔でなだめ、なにごともなかったふりをしてやる。


「なにもかも見事すぎてちぢこまっていたが、ちょっとした粗相そそうのおかげで気が楽になった」



 ドネブがあらためて見回すと、居並ぶ衛兵には野卑な顔だちも多い。

 そして貴賓席に隣接した客席へ目を移すと息を飲み、杯を持つ手が止まる。

 領民でも身分の高い者がいるべき場所に、殺伐とした風貌の女たちがひしめいていた。

 熊の血が入っていそうな巨体や、胸のふくらみ以外は男にしか見えない筋肉の塊、元の形がわからぬほど刻まれた顔……


「ま、まさか剣闘奴隷をこんな近くに置くわけが……?」


 鎖につながれていないどころか、酔っぱらって貴賓席の柱へもたれる者までいた。


「あるある。あるのですよ~う? そこの包帯野郎の壮絶な悪趣味のおかげ様で、アタシらまったくもって貴族以上で虫ケラ以下の、ごきげんな暮らしぶりよ~ん?」


 隻眼赤毛の酔っぱらい女がケラケラと笑い、酒壺をあおる。

 その飲み口へ、短刀がカキリと刺さってはまった。

 ドネブの酌はいつの間にか、マリネラと呼ばれた小柄な女に代わっていた。

 その片腕はまっすぐにのばされていたが、同じ装飾の短刀を一瞬でかまえなおす。

 笑顔は仮面のように動かない。

 赤毛女はあわてて恐縮のそぶりを見せ、巨体女の背へ隠れる。


「いえね、領主様の『風変わりな』ご趣味のおかげ様で、アタシらが生かされ肥やされ遊び暮らせるありがたさは重々承知しておりますよう? 尊敬しなくちゃですわん。ほんとほんと……」



 フマイヤは試合場を凝視したままつぶやく。


「奇異に思われるかもしれんが、あの者らが領民に捧げているものを、私なりの評価で遇している。領主として領民へ果たすべき責務は多いが……この祭儀こそ、なによりも優先すべき『政務』なのだ」


 ドネブは当惑を隠せない。剣闘といえば娯楽であり、人気を得たり権威を示せる面があろうとも、それ自体に政務と呼べる役割が含まれるとは思えなかった。


「聞きしに勝る、いれこみようですなあ? しかし政治手腕の秘訣がそこにあるならば、ぜひ学ばせていただきたいものです」


 なごやかに苦笑してみせたが、フマイヤは視線も表情も動かさない。


「なすべきことをしているだけだ。例えば、ドネブどのの誠実な人柄を正しく評価するならば、貴国との同盟は受け入れ、可能な限り条件ものむべきである」


 ドネブは喜びのあまりに立ち上がるが、駆け寄ろうとした動きはマリネラがそっと抑えた。

 フマイヤが片手を少し上げると、侍女がその包帯を取り外す。


「触れるのは避けていただこう。この奇病、薬漬けで抑えているとはいえ、触れたという噂だけでも貴殿の将来に差し障る」


 長い指は骨と皮ばかりに細って荒れがひどく、ただれていた。

 新しい包帯が用意され、薬液をつけたあとで巻きなおされる。


「これを全身、半日ごとに換えているが、それでも一日の大半はにぶい痛みに襲われ、疲労がつきまとう……この競技祭は私自身にとっても、なによりの生きがいだ」



 試合場から死体が運び出される。

 中央のふたりはすでに息が整い、男は落ち着きなく試合場の隅へ視線を送っていた。

 ボロ布をまとった小柄な審判役は、貴賓席を見つめるだけで微動だにしない。

 褐色肌の女はゆっくりと周囲を見回し、青空を渡る鳥に気がつくと、どこまでも目で追い続けた。

 容姿はきわだって優れているが、身なりはきわだってひどい。

 ほかのいかつい女剣闘士たちでも、遊女や衛兵に近い格好くらいはしている。


 ドネブは客席の女剣闘士たちをあらためて見まわし、それなりの容姿も多く混じっていることに気がつく。

 中には場違いな美形もいて、その中のひとりに目を奪われる。

 大柄な者が多い中でも目立つ長身だが、鍛えた軍馬のように均整がとれていた。

 長い金髪を後ろに束ね、色白の顔はかなり若いが、居ずまいに気品があり、切れ長の目は近寄りがたい気迫をたたえている。


「ジーナさん、こちらへついていただけますか?」


 マリネラが呼びかけると、その少女が振り向いて立ち上がる。

 ドネブは視線を読まれていたことにうろたえた。

 貴賓席へ上がってきた少女を見上げ、堂々とした体格と態度に驚く。

 遠目に見るより、はるかに高い。

 貴賓席を囲む衛兵はほとんどが大柄で、ドネブより頭ひとつは高い。

 そんな大男たちと比べても高い。

 表情は毅然として、頬に走る大きな向かい傷さえ誇らしげな飾りに見えた。

 化粧はしていないが、若さゆえかくちびるは淡い桜色をしている。


「いや、これは見事な……戦いの女神に酌を頼んでよいものか……」


 世辞のはずだったが、ドネブの顔はまじめに恐縮していた。


「失礼ながら。私は試合を解説するために呼ばれたものかと」


 ジーナと呼ばれた少女の口調はきっぱりとしていた。

 まっすぐに見つめられると、どちらが奴隷か忘れそうになる。


うたげの席には不調法でして」


 控えめに見せた苦笑は生粋の武人、あるいは大国の王女を思わせた。

 はじめは威圧感をおぼえた高すぎる背も、すがすがしい態度によって心地よい安心感に変わりつつある。

 心を洗われるような感動……しかしドネブの視線はなぜか、試合場へ引きずり落とされた。

 どこか頭の隅にこびりつく、暗いよどみに呼ばれていた。



 ジーナは試合場に立つ褐色女の武器を指す。

 両腕の革手袋は、甲の部分に槍の穂先のような刃物が固定されていた。


「取り落とす心配がなく、力も入りやすい構造です。しかし持ちかえがきかず、長さも手刀と大差ありません」


 対する男は目立つほどの大柄ではなく、筋肉は右肩から右腕にかたよっている。


「あの男は船漕ぎ奴隷か?」


「ご明察です。海賊にさらわれた漁師で、船長に気に入られて加わった最初の襲撃が、運悪くこの島でした。武術や実戦の経験がなかったにも関わらず、捕縛された九人の海賊の中ではただひとり生き残り、客からは『悪運のネルケス』と呼ばれています」


 男の武器は手首にくくりつけられ、杖のように長い鉄棒を二本と、胡桃くるみのような大きさの棘鉄球をつなげている。

 それらの連結部は輪が小さく、継ぎ足しの鎖もない。


「あの武器は間合いこそ広いものの、鎖に慣れている使い手たちをかえって窮地へ追いこんできました」


「たしかに、あれでは不規則な動きになりやすい……しかし避ける側もやりにくそうだ。経験の少なさを逆手にとり、変則的な武器で補っているとしたら、存外に目ざとい」


 ドネブのつぶやきに、フマイヤがわずかに眉のあたりの包帯を動かす。


「よい観察眼だ。職人と親しいのか?」


「貧乏貴族で、なんの才能もありませんので。なりふりかまわず職人の仕事場をまわって、税収を増やす知恵を借りねば、使用人すら養えない有様でした」


 ドネブは自嘲するが、フマイヤは真顔で感心する。


「ふむ。しかしそれはすでに、ひとつの才能といえる」


 それでも目は試合場だけにはりついていた。


「今はあの男を『花畑のネルケス』と揶揄やゆする者も増えた。女剣闘士の穴埋め試合を引き受けることが多いからだ。あの男は生き残るためには、どんな不様もいとわん。その覚悟が、人並みだった体格と技量にも勝利をもたらしてきた。とらわれないことは、それ自体がひとつの才能となる」


 ドネブは意外な賞賛を受け、いくらか得意顔になった。

 しかし試合場を見つめるジーナの顔に、暗い険しさが宿っていることに気がつく。

 フマイヤが手ぶりでうながし、マリネラが高く腕を上げ、試合場の審判がうなずいて大声をあげ、試合の再開を宣言する。



 ネルケスがわめきながら突進した。

 ぎりぎりの間合いで振り出された鉄球は女の頭をかすり、よろめかせる。

 直後に砂が蹴り上げられ、女はまともにひっかぶる。

 歓声がわく中、ドネブは拍子抜けしていた。


「あの女の実力は?」


 ネルケスの動きは巧みだったが、褐色肌の女はゆらゆらと頼りない。

 足を止めたまま砂を払う姿などは、もはやシロウトですらない。

 殺し合いであることも理解していない幼児に似ていた。


「現在の格づけは四位で、上位選手のひとりです。ひどい好不調はありますが……」


 ジーナは試合場を刺すように見据えている。

 ネルケスは女の背後へまわりこんで鉄球を振るった。


「あれはかわします」


 ジーナの言葉と同時に、褐色の裸体が宙を舞う。

 砂をあびた両目は閉じたままだった。

 鉄球を飛び越え、拳の刃は男の首元へ吸いこまれて埋まる。

 大歓声の中、ドネブは思わずジーナにふり返る。しかし展開を読めた理由は聞けない。

 切れ長の目は、自らが殺し合っているかのように張りつめていた。



 ネルケスが力をふりしぼり、女の頬を殴りつける。

 美貌は痛みでゆがんだが、怒りも恐れも見せず、もう片方の拳刃を男の眼球へ突き通した。


「あぐがっ!?」


 男は首元と顔からおびただしい鮮血を広げ、両膝をつく。


「ちくしょう…………商売女すら、抱けないまま……?」


 潮風が痛めたしわがれ声で、悲嘆の涙を流した。

 すがるように乳房をわしづかみにすると、女は痛みに顔をしかめる。

 しかし男の手はすぐにゆるみ、ずり落ちていった。


「犯して……や…………る……」


 倒れかけた体が、褐色の腕に支えられる。

 女の青い瞳は、若い漁師の血にまみれた顔をのぞきこんでいた。

 客席が低くどよめき、息を飲む。

 女は目をふせ、くちびるをゆっくりと重ねた。

 大群衆が静まりかえり、表情を失う。

 女はおだやかにほほえみ、くちびるを長くあずけていた。


 ドネブは言い知れない不安をおぼえる。

 ジーナは眉をひそめ、暗い面持ちで見守る。



 褐色肌の女は立ち上がると、刃を引き抜いて背を向けた。

 男はゆっくりと倒れ伏す。

 客が少しずつ、ざわめきはじめた。


「なにを考えていやがる」


「気味の悪い」


「またかよ。あのバケモノ……」


 だんだんと高まるどよめきの中、ドネブは奇妙な名を聞く。


『ヘルガ』


 耳を疑った。

 しかし急激に声を荒げる大群衆の罵声は、ただひとりの名を責めたてる。


「くそっ『ヘルガ』め!」


「また『ヘルガ』のやつだ!」


「『狂犬ヘルガ』!」


「『悪魔の娼婦ヘルガ』!」


「『死神の落とし子ヘルガ』!」


 極めつけの憎悪をこめた異名の数々が、豪雨のように叫ばれ続けた。


 褐色の美女は血まみれの拳刃を振り上げ、貴賓席へほほえむ。

 驕りも勇ましさもない、ただ親しげな優しい笑顔。


 玉座の包帯男はうつむき、肩を震わせていた。


「クククク……ウッククククククク!」


 頭をふり上げ、あごもはずれんばかりに叫ぶ。


「いいぞお『ヘルガ』! 『愛しのヘルガ』!」




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