26-30
―――26
「仲尾くん?」
夕暮れ西日を背中に浴びて、教室の中に入ってきたのはクラスメイトの仲尾雪峯だった。
「もしかしてって思ってたけど、いじめられてるの?」
いじめ、という言葉に眞子が身を固くする。だが雪峯は眞子の様子に確信してしまったようだ。
「ああいうの僕も好きじゃないんだ。黙って見てるのも気分がよくないし……僕で手伝えることがあるなら手伝うよ」
「いらない」
手助けが欲しいと眞子は思った。それは言葉だけじゃなく、本気だったけれど眞子は雪峯を即座に断った。それに驚いたのは栗子だった。
「え? えー、なんで? 眞子ちゃん、折角仲尾くんが助けてくれるって言ってるのに」
「その気持ちはうれしい。だけど嫌」
「なんで?」
雪峯も怪訝な表情になる。栗子も首を傾げる。だけど眞子はもう一度嫌だと言った。
「仲尾くんは男子だから駄目。これは女の戦いなの。それに私とやっちーは本当に胃が痛くなるほどの被害に遭ってるけど、笑って手を貸すなんて言ってくる人は信用できない」
「笑って……それはごめん。別にふざけてるつもりはないんだよ」
雪峯は申し訳なさそうに眉尻を下げた。だけど、彼は身を翻すことはしなかった。
「でも、見ていてつらいんだ。 僕にも何か助けさせて欲しい」
栗子たちに向かって彼は頭を下げた。丁寧に、深く。栗子は眞子の顔を窺った。眞子も栗子を見ていた。困った顔で、どうしようと悩んでいた。
―――27
栗子は単純に味方が増えるならと喜んだ。だけど眞子にはそれではいけないという思いがあった。味方が増えるならそれはうれしい。だけど、やはり躊躇いがあるのだ。
「手伝いはやっぱりいらない」
「え?」
栗子と雪峯の声が重なった。
「でも、もし私がこれだけ断っても何かをさせて欲しいって言うのなら普通にして」
これは女の戦いだ、と眞子は言った。そう本当に思っていた。原因不明の中で誰かの手を取ることは逆にちひろの神経を逆撫でするかもしれない。その原因がそもそもわかっていないのだから余計にだ。
だから眞子は雪峯に求めた。
「教室に来たらおはようって挨拶して。帰る時はまたね、バイバイって言って。移動教室で私たちが遅れてるの見つけたら授業が始まるよって声を掛けて。いつも友達としてるみたいに普通に会話して。普通に、同じように」
ただそれだけでいい、と眞子は真っ直ぐに雪峯を見た。
「それが無理なら、もう話しかけないで」
本気だった。教室内で自分たちが何かをされているのはもうほとんどの人が気付いている。その中で普通に挨拶をしてくれる。そういう存在がいればそれだけでその日の気の持ちようが違うのだ。影から何かを手伝うよりも、普通にすることの方が難しい。それを眞子は十分わかっていたし、栗子もわかった。
「……わかった」
雪峯は一拍置いて、頬を緩めた。右手を顔の位置まで上げて、振った。
「じゃあ、明日学校で。またね」
眞子と栗子は顔を見合わせてから、彼に手を振った。
「うん、またね」
「バイバイ」
―――28
「おはよう」
と、声がした。栗子は一瞬それが自分に向けられたものだと思わなかった。
「八代、おはよう」
もう一度言われ慌てて顔を上げた。
「お、おはよう……」
少しぎこちない様子だが、そこには雪峯が居た。席の横を通り抜ける時に挨拶をされたらしい。
たったそれだけ、一言だけだけど、栗子の胸にはじんとした温もりがが広がっていた。最近は眞子以外と挨拶もろくに交わしていなかった。そう思うとなお一層嬉しかった。
だが感動していたせいで、教室内に小さなざわめきが起きたことには気付けなかった。教室の後ろで今の様子をちひろが食い入るように見ていたことも栗子は知らなかった。
雪峯は眞子が登校してくると、同じように声をかけていた。栗子はただ嬉しくて、笑っていて、だから眞子がおはようと返した後に眉を顰めたことにも気付かなかった。
―――29
「一緒に食べてもいい?」
昼休みに入って、雪峯がまたもや声をかけてきた。彼はこの日何度と栗子と眞子に話しかけている。栗子はいいよ、と言おうとしたのだが、眞子が素早く断りを入れた。
「駄目。話しかけてくれるのはいいけど、いつも他の男子と食べてるのにいきなり混じるのは普段どおりじゃないよ。それにお昼はやっちーと二人で食べたいの」
雪峯は気分を害した様子もなく、わかったと頷いていつもお昼を共にしているクラスメイトのところに混じっていった。栗子は何だか納得がいかない。
「ねえ、眞子ちゃんってなんだか仲尾くんに厳しいね」
「そんなことないよ」
「そう? でもさっきだって別に一緒に食べてもよかったんじゃないの」
何が駄目なのだろうか。もちろん眞子と二人で食べるのでも異存はないのだけど、不思議で仕方がない。眞子は周りにちひろが居ないことを確認してから、小声で言った。
「原因がまだわかってないから必要以上のことはしたくないんだ。だって、朝もかなり睨まれてたんだよ」
「え?」
「やっぱり気付いてなかったんだ」
呆れたように笑う眞子に栗子は慌てて謝った。浮かれていて本当に気付いていなかったのだ。
「でも、さ。畠さんって私が、というよりも私についた何かに怒ってる気がするの」
「……まあ、確かに」
直接の理由ではなさそうだと栗子は思った。
そしてこの時はわからなかった理由は、案外すぐに判明する。
―――30
雪峯が話しかけるようになって、少しずつ挨拶をしてくれる友人が戻って来た。怯えがないわけじゃないけれど、少しでも話してくれるのが栗子は嬉しかった。
ちひろは近くに居らず、眞子は席を外していた。少しの間でも前は一人になるのが怖かった。けれどその子たちと話していれば怖さは和らいだ。
その歓談の最中、雪峯の話題が出た。
「仲尾くんってさ、知ってる?」
「何を?」
「あのね。これ、内緒よ。私が言ったって言わないでね」
「うん」
栗子の耳に口を寄せる。そして小さな声で彼女は言い募った。
「畠さん、仲尾くんに振られたんだって」
「ええ!」
「ほら、仲尾くんってすごく格好良くはないけどやさしいじゃん。だから結構人気あるんだよ」
「へえ」
それは知らなかった。あまり接点がないせいもあるけれど、栗子は男子が得意じゃない。更に人の色恋にも疎かった。
「で、さ、佐久さんがその、因縁つけられてたのって多分……仲尾くんのせいじゃないかな」
栗子は首をかしげた。何故そこで眞子の名前が出てくるのだろうか。察しの悪い栗子に友人は焦れたように囁く。
「仲尾くん、好きな人が居るって言ったらしいんだ。もしかして、それが佐久さんだったんじゃないのかな」
「え……」
思わずぽかんとしてしまう。そんな理由だなんて全く思いつかなかった。もっと詳しく訊こうとしたところで、ちひろが教室に戻ってきてしまった。栗子は友人たちから離れ、眞子になんと伝えようかと迷った。