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―――16
栗子はけして成績が特別いいわけではない。並だ。科目によっては並以下の時だってある。むしろ成績で言えばちひろの方がおそらくよいはずだった。
それなのに、彼女は栗子へ強要した。
出来ないと言いたかった。自分でやるべきだと言うべきだった。雰囲気に気圧された自分が口惜しかった。何も、一言でも反抗できなかったことが情けなかった。
「八代さん、出来た?」
翌日学校で笑顔のちひろを見て、栗子は蒼白になった。
「……うん」
頷きながらもノートを手渡すと、乱暴に奪ってちひろは中を検める。そしてザッと目を通すと、盛大に顔を歪ませた。その口許は僅かに微笑みの形を作っている。
「これ、間違ってるわよ」
「え?」
パシン、と音がした。
ちひろの手には開かれた彼女のノート。顔を上げた瞬間に頭を叩かれたのだと気付いたが、栗子はどうしていいかわからなかった。彼女はその表情のまま、栗子の胸倉を軽く掴む。
「こんなのも出来ないんだ。やっぱ駄目ねえ。八代さんってほーんと、頭悪いのね」
キャハハと無邪気に笑いたてるちひろに栗子は目の前が真っ暗になった。
―――17
どれくらい頑張ればよかったのか。
耐えていれば、と思っていた。そうすればいつか飽きて、そして眞子のことも自分のことも諦めると、栗子は考えていた。
「…………うっ、……くっ」
だが嵐はやまない。三日経っても、一週間経っても、栗子は耐え忍ぶしかなかった。
泣きたくなった。
助けて欲しかった。
でも誰に助けを求めればいいかわからなかった。助けて欲しいと思う相手は、栗子の方が守らなければと思う相手だった。
「……泣いてちゃ、駄目なのに」
もう二度とあんな目にはあいたくなかった。それなのに、つらくて、哀しくて、寂しくて、どうすればいいのかもう、わからなくなっていた。
……眞子は元気にしているだろうか。すごくすごく会いたいと思った。
眞子が不登校を始めて、二週間が経っていた。
―――18
その日も朝から栗子は憂鬱だった。
ここ二週間ほど、気分が悪くなかった試しがなかった。だが自分が居なくなっても変わるものがあるとは思わなかった。それは栗子の過去の経験による確信だ。
だからどんなに胃がキリキリと痛んでも、行きたくないと心底願っても、学校へ行った。そしてその日、栗子は久しぶりに笑顔になった。
「やっちー」
彼女がつけた栗子のあだ名だ。
「おはよう。ノート、すごい助かったよ。ありがとう」
「眞子ちゃん」
笑う眞子の顔に、心の底から安堵した。栗子は不意に泣きたくなり、なんとかそれを堪えるとそうっと頬を緩めた。
「……おはよう」
「どうしたの、やっちー。私がいなくてそんなに寂しかった?」
眞子が栗子の顔を覗きこむ。そして小さな声で付け足した。
「心配かけてごめん。私も一緒に頑張るからね」
栗子の髪をさわさわと撫でる。そのやさしさに、心地良さに栗子は俯いて目を押さえた。
背中をポンポンと眞子の手で撫でられた。
―――19
眞子は休み時間も一日ずっと栗子と居た。居てくれた。
ちひろとその取り巻きが二人の様子を窺っていたことには気付いていた。だが、それだけで手を出されることはなかった。けれど明日は違うかもしれない。今日一日だけの猶予かもしれない。寧ろその可能性が高かった。
だから眞子は授業が終わるとすぐさま栗子を引っ張って行った。そして小さな喫茶店に入った。
店内に入るなり眞子は栗子の両の手を握り、祈るように頭を垂れてみせた。
「……やっちー、ごめん。ごめんね」
「眞子ちゃん?」
「やっちー、私全然気付いてなかった。自分のことばかりだった。助けられてること、わかってなかった。ありがとう。ありがとう。ごめん、ありがとう」
声に涙が混じる。
ぽたぽたと、ボロボロと、零れていく滴。
栗子は濡れていくテーブルを見つめた。俯いて、旋毛しか見えなくなってる親友の丸い頭。込み上げてくるものが、あった。
「眞子ちゃん、わたし……」
「や、やっちぃ……」
栗子も眞子の手を握った。ぎゅっと固く、強く、そして泣き笑いの顔を作った。
「……負けないよ。今度は私がやっちーを守るから」
「わたしも、わたしもまだ頑張れるよ。頑張るよ」
不安だった。
だけど、いつの間にか不安は晴れていた。
―――20
翌日も、眞子は登校してきた。
眞子の姿を見て、栗子はほっと胸をなでおろす。昨日のことは嘘ではなかったのだと、安心できる。泣きそうになる。だけど、眞子が笑顔を私に向けてくれたから、笑っていられた。
「やっちー、おはよう」
「……おはよう、眞子ちゃん」
たったこれだけで、栗子は満足できた。
けれど、満足できない人も居る。
「佐久さんてば、ずーっと体調悪かったのに、もういいんだ。へえ、良くなってよかったね」
教室中に響く声でちひろが言う。わざとだ。眞子の反応が楽しみで仕方ないとでもいうような態度。
栗子は瞬間的に身を強張らせた。だが眞子が守るように栗子の前に体をずらした。
「畠さん」
眞子の喉が唾を飲み込む音が聞こえた。覚悟を決めるように息を吸い込むと彼女は口を開いた。
「わざわざ気にしてくれたんだ。ありがとう。そうなの、もう体調は大丈夫。心配かけてごめんね」
驚く栗子の前で眞子はちひろに笑って見せた。すごいと栗子は思った。
だが、だが気付いた。眞子の手は小刻みに震えていた。その手を栗子はぎゅっと握った。その手を握り返して、眞子がちひろを真っ直ぐに見る。
「私が居ない間、やっちーのことも心配してくれたみたいでありがとうね。でも本当にもう大丈夫だから」
栗子は眞子の後ろから見たちひろの顔が、歪んでいくのを見た。