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魔に見初められたもの

作者: 三月 秀嵐

 今年は暑かったな、長く続いた残暑を忌々しそうに思い出し、黒髪黒瞳の青年――アスレイン・ルクソール――は空を見上げる。つい最近まで痛みを感じさせた太陽の光は、今や穏やかに降り注ぎ、吹く風は涼しさよりも寒さを与えてくる。風で靡くとマントはそのままに、今日も見回りの仕事に精を出す。

 そう、いつもの見回りの仕事。仕事柄、街の変化は頭に入れて置かなければならない。昨日は新しい喫茶店がオープンした。一昨日はゲーム屋が閉店していた。そして、今日は団地の取り壊しが始まっていた。こういう小さな情報が集まり、広がり、大きくなる。街の成長することは良い事だ。だが、同時に街の裏側に救う闇もまた大きくなる。その闇に対処するのが仕事故に。事が大きくなる前に対処するのが最善ではあるが。

 そんな物思いに耽りながら、アスレインが歩いている道は、2棟の団地に挟まれている。左右に同じ大きさ、同じ形の団地が建っていた。その片側、アスレインから見て左側の団地だけが取り壊されていた。

何かあったのだろうか、と思いつつ、工事現場に目をやる。無論、周りは囲いがあり、中を伺う事はできない。さほど気にすることではないと考える自分がいる一方、妙に気にしている自分がいる。前者を信じるか、後者を信じるか、でアスレインは逡巡する。

 結局、好奇心に負けて、アスレインは囲いの隙間からこっそりと中を覗くことにした。すると、工事の人たちの会話が聞こえてくる。やれ、お祓いだの、子供が行方不明になっただの、自殺が多いだの、呪われているだの。ダメ押しとばかりに轟音が鳴り響く。ここからでは見えないが、何かが倒れたらしい。途端にざわめく工事現場。話を盗み聞きする限り、重機が突然倒れたらしい。怪我人が出ていないようだが、心配にはなる。

ここまで聞いて、アスレインは気づく。これは自分の仕事ではないだろうか、と。工事現場の人と話をしようと、勝手に中に入る。入った瞬間、真夏のような湿気が肌に纏わりつく。怨霊が出ているな、と直感する。

 すると、勝手に入ってきたアスレインに気づいたのか、工事現場のリーダーらしき人が大声を何事かを叫んでいる。

「おい、そこの兄ちゃん。危ないから入ってくるな」

 その声を無視してアスレインは一足飛びに距離を詰め、リーダーらしき人の前に立つ。胸元から身分証を取り出しながら、笑みを浮かべながら、

「陰陽寮特殊戦闘教導隊アスレイン・ルクソールです。怨霊に呪われていますよ、この現場。私に任せてください」

 して、今日の仕事が増えた。空は青く、日は高く。真夏でもないのに、真っ昼間から怨霊退治である。


 アパートの入り口。照明が消され薄暗いその場所は、覗き見るものを異界へと飲み込む穴のようにも見える。ここに入れば、二度と抜け出せないのでは、と思わせる印象を、アスレインに与える。

 考え過ぎか、と、アスレインは穴の淵、アパートの入り口に立って思いを走らせる。内部から漂ってくる腐臭に似た何か。濃密な魔の気配が肌にこびりつく。いつもの怨霊退治と何かが明確に違う。されど、その違いがわからない。違和感を覚えるものの、違和感の正体がわからないもどかしさ。それが妙に、妙にアスレインを不安にさせる。

「面倒だな」

 自身の不安を押し潰すようにこぼれ出る言葉は、アスレインにしては珍しい。それでも、背筋を伸ばし、恐れるものは何もない、と言わんばかりに、アスレインは足を動かし、その穴に入り込む。

 もし、もしも、誰かがアスレインの足元に広がる影を注意深く見ていたならば、12時を過ぎたばかりで、未だに太陽は天高く輝いている時間にもかかわらず、影が黄昏時のように長く伸び、怪しく蠢いていたことに気づいただろう。


 オートロック式だったガラス戸を越えて、中に入る。左右にそれぞれエレベータと階段がある。廊下はまっすぐと奥に伸び、左右に部屋があるため光が入って来ず暗い。電気は止められており、電灯をつけることもできず、闇黒に染まる廊下を進む。おかしなところは何もない。廊下の終わりには非常階段への扉がある。その扉を開けて上に。2階、3階と同じように廊下を歩いては確認していく。おかしなところは何もない。

「おかしいねぇ」

 不安を打ち消すように声に出す。

 して、4階。小さなアパートなので、ここが最上階。ここでおかしなところがないと、それこそおかしい。故に、アスレインは臨戦態勢に切り替えて扉を開く、が何もなく。

「怨霊が襲ってくるかと思ったが」

 嫌な予感がする、胸に不安を抱えながらも、今までと同じように歩を進める。歩いている途中、アスレインはふと横を見る。ドアにはプレートがかかっており、『402』と記されていた。おかしなところは何もない。何も、ない。

魔眼解放(リリース・イビルアイ)

 アスレインの黒瞳が割れ金色の輝きを放つ。金色の魔眼、そのうちの一つ。あらゆる虚飾を剥がし取り真実のみを映し出す能力を解放する。

 アスレインは再びドアを見る。

 ドアの色は何の変哲もない緑。壁が白いため、わかりやすくするためだろう。それはわかる。だが、これはなんだろう。黒くて昏い。緑色なのはわかっているのに黒く見える。アスレインの金色の瞳には黒に映る。

 ――すぅ、――はぁ。

 深呼吸。先程から募る不安が最高潮に達する。ドアのノブに手をかけ、一気に引く。果たして、

「ビンゴ」

 先程から漂っていた腐臭が強くなる。足を踏み入れたら、水の中にいるのかと錯覚してしまうほどの湿度の高い空気が体中に絡みつく。まるで、アスレインを捉えるかのように。

 玄関に入り奥を見る。廊下の先に部屋。ベランダに繋がっているであろう窓には暗色のカーテンがかけられ、太陽からの明かりを遮断している。廊下の途中には流し台が備え付けられ、それに向かい合う形でトイレや風呂に繋がるドアが開け放たれている。

 ここで一度退くか、進むか、と考え、悩んだ自分を振り切るように廊下へと足を進める。瞬間、ドアが勝手に閉まり、明かりが灯される。

 判断を誤ったかな、と思いながらも奥の部屋にたどり着く。部屋の中央には丸いテーブルが置かれ、その上には、

「5年日記? また変わったものを書いていたんだな」

 その日記を手に取り、めくり始める。最初の日付は……。


20XX/4/1

 今日から一人暮らし。これで親の目を気にせず、好きな事が出来る。まずは部屋の整理だ。頑張るぞ。


20XX/4/2

 今日は本棚を注文した。実家にいた頃は、そんな怖い本を本棚に並べるな、と言われて並べられなかったが、これで並べられる。到着が楽しみ。


 ふと、アスレインは部屋の壁を見る。左の壁一面を埋め尽くす本棚。上の方には文庫本。黒かったり、青かったり、紫だったり。知らないレーベルもあるが、見覚えのあるレーベルもいくつか見える。

「ガガガ文庫にスニーカー文庫。GA文庫まで。どういう基準で並べているんだ」

 さらに本棚の下の方を見れば無駄に箱の大きなゲームがいくつか散見できる。そのゲームのタイトルを詠み、さらに先ほどの文庫本のタイトルを改めて見る。

「クトゥルー作品の専用棚か」

 こういう分け方は好きだな、感心する。だが、クトゥルーと怨霊、どう結びつくんだ、その疑問の答えを探すかのように日記をさらに読み進める。

 足元では、蛍光灯に照らされたアスレインの影が怪しく蠢いている。


20XX/6/5

 探していたプログラムをネットでやっと見つけた。次の休みにでも調べながら使っていこう。


20XX/7/18

 妙な夢を見た。蒸し暑い夜。水を飲もうと思って蛇口を捻ったら赤い液体が流れだす。それを全く気にせず飲む夢。あれは何だったんだろう。


20XX/7/31

 排水口から妙な臭いがしたので掃除をした。夏場だし、定期的に掃除しないと腐臭がするのは当然か。でも、赤くなっていたのには驚いた。指でも切ったのか、それともどっか錆びていたのか。


20XX/8/15

 友人が泊まりに来た。酒を飲みながら話をしていたら、突然、「窓に! 窓に!」と言い出した時はどうしようかと思った。いくら、ラヴクラフトの著作で盛り上がっていたからって、その反応はどうよ。


20XX/9/1

 最近、妙に部屋が臭イ。掃除はきちんとしてイるし、ゴミも捨ててイる。芳香剤も買ってイるのに、なんでだろ。


20XX/9/25

 床ガ濡れてイる。水をコぼした記憶はなイのに、なんでだろ。最近、コウイウ事が多イカらな。除霊して貰った方が良イのカ。


20XX/9/30

 除霊師を呼んダのに来なイ。ドウやら、悪徳除霊師に引ッカカッタよウダ。クソ。


20XX/10/5

 調子ガ悪イ。気持チガ悪イ体ガ重イ。自分ノ体ガ自分ノもノデ……ナンダコレナンナンダコレコノテハダレノモノナンダワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイワカ仇品ヴィンンの死ンンふぉなぼお


 読めん、とアスレインは思う。一体、何があったのか、何がここまで狂わせたのか。乱れながらも狂ったように描かれた文字。書いたというより描かれた文字群。

 次のページを開くと、


20


 次の日以降は意味の読み取れる文章はない。ただ乱れた線がいくつも描かれ、黒く埋め尽くされているのみ。めくればめくるほど、その色は濃くなり、最後の方は紙が破れている。

 なんだったんだこれ、と思いながら、アスレインは日記を閉じる。ふと顔を上げると同時に、明かりが突然消える。

 どうしたものかな、と周りを見回して対処法を考える。明かりがなくとも、アスレインの金色の瞳には何ら支障はなく、部屋を見通す。すると、本棚に向かい合う壁に赤色の光を見つける。よく見ればパソコン用のディスプレイ。黒い画面に赤で文字が描かれている。

「起動時の文字……のわけないよな」

 見た瞬間に感じた悪寒を誤魔化すために、声を出す。読もうとすればするほど目が痛くなる。まるで、魔眼自身が意思を持ち、見るなと言わんばかりに。されど、アスレインはその痛みを無視して画面を凝視する。

 黒。画面の色。深淵の連想させる色。パソコンの起動直後の画面。覗きこむとどこまでも堕ちていきそうな印象を与える。

 赤。文字の色。人の血を思い出させる色。パソコンの文字にしては似つかわしくなくフォント。滲んだ文字は書かれる傍から滴り落ちる。

 そして、音。キーボードを叩く音。文字が進むのに合わせて、カチャカチャ、カチャカチャ、と。この部屋にはアスレインしかおらず、アスレインはキーボードを叩いていないにもかかわらず。

 あまりにも鮮やかな赤色に、痛みを忘れ、目を奪われ、ディスプレイに手を伸ばす。されど、触れても何も起こらず、ディスプレイの冷たさだけが手に残る。

 ……それもそうか、と期待した――何を期待していたのかはアスレイン自身にもわからないが――反応が起きず胸を撫で下ろした直後、アスレインの後ろで何か蠢いた。

 アスレインの影が盛り上がる。最初に現れたのは髪の毛。影よりもなお濃い黒が蠢く。その髪と髪の間に覗く顔は髪とは対照的に透き通った白。次に腕が伸びて地面を抑える。プールから上がるような動作で立ち上がったところで、アスレインはその人影に目を向ける。眼に入るのは白い顔とそれを覆う黒。

「おはよう」

 声をかけられた相手――体つきからは女性と見受けられる――は、虚ろにな瞳をアスレインに向け、まわりを見渡し、そして、またアスレインを見る。その瞳に輝きが戻り、少し慌てたように、

「ね、寝てないよ」

「おはよう。エルファス・フィルレイス」

「あう」

 エルファスと呼ばれた女性は、観念したかのようにため息をつく。

「あれだけ、影がめちゃくちゃな動きをしていたら寝てるってわかるわ。もう少し、バレないようにやってくれ。というか、寝るな」

「はーい。で、アス君、何かわかった」

「いや、何も。せいぜいこれを読んでいただけだ」

 そう言って、アスレインは持っていた日記をエルファスに渡す。

「ふーん」

 エルファスは手に取った日記に目を落とし、再びアスレインの方を見る。

「ところで、後ろの画面は放っておいていいの?」

「へ?」

 アスレインが目を戻せば、ディスプレイに描かれていた文字が滴り落ち、黒を赤く紅く朱く染め上げている。画面全てが血の色に塗りつぶされると同時に中心に向かって渦を巻き魔法陣を描き出す。描き出された魔法陣は刹那の瞬間に消え失せ、深い穴を呼び出す。呼び出された穴は、自身の淵を侵し砕き食らう。ディスプレイを飲み干し、壁を覆い尽くし、部屋を包み込む。

 この間、実に一瞬。瞬く間に成長した深淵の穴に抗う手段などあるわけもなく。

「あ」

 アスレインかエルファスか、どちらが上げた声が、もしくは、2人とも上げた声なのかもしれないが、その一言すらをも飲み込み、静寂が訪れる。


 アスレインが意識を取り戻した時に認識したのは白。白い闇。輝くわけでも照らし出すわけでもなく、白に塗りたくられた白。しかして、その闇はアスレインという存在そのものを優しく包み込む。自分自身の肉体の境界線を突き崩し、自分が自分であるという確固たる確信が揺らぐ。そこにあるのは平穏。暖かみを持った何かに包み込まれ、安心感とともにアスレインは――。












 ――否。











 ――――否!


 白い闇の一点に黒が墨汁の如き黒が現れる。その黒はより濃くより深くより強くなり、周囲を染め上げる。さらに黒い闇の中から金色の光が漏れ出す。其は反逆の意志。反抗の意思。抵抗の意志。危ういところで、アスレインは自分を取り戻す。

(危なかった)

 声に出したつもりだが、音としては響かず、頭の中に響き渡る。

(これは困った)

 エルファスを探そうにも音は出せない。目で探そうとも視界は白一色、アニメだったら手抜きとか言われそうだな、と場違いな事を考えていると、

(呼んだ?)

 エルファスの声が響く。直接、意識の中に語りかけるかのように。

(無事か)

(まあね。これくらいなら同化出来るし)

 アスレインは近くに気配が現れるのを感じる。

(で、アス君。なんなのかな、ここ?)

(さてな。『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』というし、深淵にでも覗きこまれたんじゃないかな)

(それはそういう意味で使う言葉じゃないと思うな。どっちかというと、『ミイラ取りがミイラになる』じゃないかな)

(ああ、そうだな。さて、いつまでもこうしていても仕方ないし、抜け出るか)

(何か手段あるの?)

(ただの強行突破。前にも似たような事を何度か経験しているから、なんとかなるだろう)

 アスレインの金色の瞳が、突如鮮烈に輝く。黒い闇は白い闇を侵食する。狂気と恐怖を伴った黄金の光は、白と黒の境界線を見つめる。境界線上のある一点を見つめ、その一点に、両手の指を突き刺す。突き刺した両手は、両開きの引き戸をこじ開けるように左右に広げられる。

肉体酷使(オーヴァ・ドライブ)だ)


 深淵の穴が収縮し始める。異界と異界を繋ぎ終え、己の仕事を終えたかのように。気がつけば、そこには数多の気配が溢れる。あるものは魚鱗で覆われた人間のような二足歩行の生物。あるものは昏い黒色の肌をした屈強な肉体と山羊の頭を持った生物。あるものは人間ならば首の根元にある部分に口のある生物。それらを始めとする、ありとあらゆる異界の、ありとあらゆる異形のものどもが、跳梁跋扈し始める。其れらはなべて、これより始まる狂気と狂乱に満ち満ちた狂宴の幕開けを、今か今かと待ち望んでいる。

 ――暴飲を求める。人の生き血を啜る。

 ――暴食を求める。人の肉を生きたまま喰らう。

 ――暴虐を求める。人の慟哭を享楽に、人の悲嘆を嘲笑う。

 まさに狂宴。魑魅魍魎と悪鬼羅刹による極悪無比で悪逆非道な狂宴。深淵の穴が閉じられた瞬間に始まる。まだかまだかと待ち構え、早く早くと煽りたてる。抑えきれぬ欲望が、己の体を突き動かす。足で地面を戦うもの。手に持った武器を振り回すもの。舌なめずりをするもの。その行為が不協和音を生み、不協和音が一体感を醸し出す。

 ――音が止む。穴が閉じられる。暗闇の中ですら、なお濃い黒は一点に凝縮され収縮され収束されていく。笑みが浮かぶ。異形のものに笑みが浮かぶ。これより始まる享楽と快楽と悦楽に心を踊らせる。

 しかし、しかし、彼らの野望は果たされることはない。

 穴が閉じられたと思った瞬間、穴の内側から10の指が生えた。今にも消えんとした穴の淵を掴み、広げる。次に見えたのは光。その光を見て、邪悪が一歩、わずか一歩だが後ずさる。邪悪を滅する清浄な光だったからではなく、あまりにも強い憎悪に猛る炎を宿した金色の光故に。その輝きを内在し、穴は広がり続ける。そして、


 ――世界が砕ける音がした。


 闇と光と生と死と、異次元と異次元、異界と異界。その境界線上に立つ影2つ。

 異形のものよりもなお禍々しい黄金の光を爛々と輝かす瞳と闇よりもなお昏い色の魔力を全身より解き放つはアスレイン。抜き放たれた剣と刀は闇夜を切り裂く月光の如く冴え渡る。

 対し、もう1人。エルファスは闇に溶け込み、その姿を見せぬ。白い顔も手も闇に溶け込み、影色の瞳は異形のものどもを殺さんと射抜く。

 最初に反応したのは顔のない化け物。アスレインの顔を喰らわんと牙を向く。その牙がアスレインの頭蓋を襲う瞬間、透明な黒壁にぶつかる。同時に化け物の後ろに同じ壁が現れ、押し花を作るかのように押しつぶす。

 次に反応したのは子鬼と半魚人。各々の武器を振りかざし、襲いかかる。だが、彼らは気づかない。己の身に纏わりつく糸に。糸は彼らの体に食い込み、包丁で豆腐を切るかのように斬断する。

「異界の者は、異界に帰れ」

 アスレインの言葉と同時に、闇を切り裂く闇色の杭が生み出される。

 ここは最終防衛線。己が引けば、自分たちの世界が侵攻され侵略され侵食される。

 故にここは最前線。世界の果ての激戦区。周りが敵だけならば、思う存分暴れることが出来る。

 境界線上で嵐が巻き起こる。

「全身と全霊を賭して――」

 アスレインが持つ刃が輝きを増し、必滅の意志を持って踊り狂う。

「全力と全開で持って――」

 エルファスの左手から垂れる糸。左手がピアノを引くかのように動くたびに敵が切り刻まれる。右手は山羊の頭の化け物の胸を貫く。必殺の呪いが乗った貫手は、わずか一撃で持って化け物を消滅させる。

「全壊させる」

 この狂った境界線上の小さな世界を、破壊し崩壊させんと嵐が猛り狂う。

「死に――晒せ」

 アスレインの魔力が暴走気味に暴れ狂う。闇色の杭を落とし、闇色の壁で押し潰す。輝く瞳は見た者を操り同士討ちを強要し、両の手に持った白銀の刃は縦横無尽に奔り抜ける。エルファスは髪で二丁の銃と二振りの短剣を操り、咆哮は衝撃波を生む。足元からは影色の茨を生やし、変幻自在に駆け抜ける。

 狂宴。化け物の、化け物による、化け物のための、血と狂気に塗れた狂宴。異形のものどもと人外の領域に足を踏み入れた人間による狂宴。異形のものどもは、自らが贄であることを今更ながら自覚する。だが、悲しいかな、逃れることはもうできない。故に僅かな生存を信じて立ち向かってくるのみ。立ち向かう先にいるのは、理不尽と不条理と暴力の体現者。その体現方法は嵐。その嵐の名は――。

「エル。殲滅するぞ」

「了解。アス君」

――蹂躙。


「ということがあったわけだ」

 縁側に座りながら、アスレインは、隣にいる女性――風呂あがりなのか蒼を基調とした浴衣を着ている――に話し終える。

「アホね」

「なんでだよ」

「え、だって、油断と慢心でひどい目にあった、って話でしょ」

 そう言って、浴衣姿の女性――エレミナ・フォルツテンド――は、栗色の髪をかき上げながら、湯気が昇る湯のみをアスレインに渡す。

「ありがとう。って、それは否定出来ないな」

 そう言って、湯のみに口をつける。

「でしょう」

「って、熱っ」

「ちゃんと冷まさないから」

 思わず湯のみを口から離して舌を出す。

「で、結局、今回は何が原因だったのよ」

「ネットって怖いわー」

「はっ? いきなり何を気持ち悪い声を出してるのよ」

「いや、今調べさせている最中だけど、インターネット上で『悪魔召喚プログラム』か『門開放プログラム』でも手に入れてきたんじゃないかな。どっちも異界との道を開くものだから。どうせ中途半端に発動して、次から次へと色んな世界の扉を開いちゃったんだろう。怨霊が出たのは、たまたま霊界と繋がった時に霊道でもできたんじゃないかな。その辺りはこれから調べるところだけど。ああ、報告書が面倒。『ネットって怖いわー』とか書いて終わらせたい。って、何を飲んでます?」

 アスレインがエレミナに目を向けると、彼女もまた同じように湯のみを手に持っている。

「梅酒をお湯で割ったのよ。あんたの話が長いから取ってきたのよ」

「お前……。自分で話を振っておきながら」

「あたしが聞きたいのは、あんたが何を怖がっていたか、よ」

「へ? あ、不安感の事か。あれは簡単。戦力不足」

「え?」

「俺の場合、異界の門を開こうとすると、必然的に肉体酷使――オーヴァ・ドライブ――を使わないといけないからね。リーテスがいれば、魔剣の一振りで簡単に斬り開けるんだけど。だというのに、その不安感を無視して、結果的に寿命を縮める始末。いやはや、初心忘れるべからず。油断大敵とはこのことだね。俺自身、こんな事で不安になるわけ無い、と思っていたのが失敗だった」

 そう言って、薬湯を飲み干す。

「うわ、冷めてきたら苦味が。うぇ」

「アホね。大体、それ効いてるわけじゃないのでしょう」

「……いや、充分効いてるよ。10年くらい縮んだ寿命が9年11ヶ月と30日くらい回復した感じ」

 嘘ね、とエレミナは心の中で思う。だが、その想いはおくびも出さずに、

「1秒先を生き残るために寿命を10年削る技だっけ。それは得なの?」

「魔王経由で供給される魔力を全開で使い切るんだから、それくらい仕方ないさ。それに使わなかったら、とっくに死んでいた。もう、10年以上を前にな……」

 そう言って、アスレインは空を見上げる。広がるのは輝く望月と数多の星々。

 話題を間違えた、とエレミナは思う。あの話は自分にとっても、アスレインにとってもあまり良い思い出ではないのだから。

「あんたも飲む?」

 エレミナは話題を逸らそうと梅酒の入った瓶をアスレインに見せる。

「じゃ、一杯だけ」

 そう言って、薬湯が入っていた湯のみをエレミナの方に突き出す。その湯のみをエレミナは受け取り、梅酒とお湯を1:1で入れる。

「はい」

 再びアスレインはエレミナから湯のみを受け取り、口をつける。そして、離す。

「薬湯の味が混ざって、名状しがたい味になってる」

「でしょうね」

 仕方ないと言わんばかりの顔をして、アスレインは一気に飲み干す。

「じゃ、今日はこれでお暇するわ」

 そう言って、アスレインが立ち上がる。

「ねぇ、アス」

「ん?」

「怖くなかった?」

「何が?」

「別の世界に飲み込まれた時」

「いや、それほどでも。ヤマトノオロチの時に似たような状況になっていた事があったし。それに比べれば、むしろ楽な方」

「そう。強くなったわね」

「どうだろう。ただ、周りに頼る事を覚えただけさ。今日はそれをやらなくて失敗したわけだが」

アスレインの顔に浮かぶのは苦笑。

「アホね。あたしになら、いつでも頼っていいわよ」

「頼りにしてるさ。ヤマタノオロチの時も、その前からだって、助けてもらってるしな」

「そっか」

 少し、いや、だいぶ嬉しい、そんな気持ちを隠すためにエレミナはアスレインから顔を背ける。

「頼るついでに、晩御飯はどうする? 食べていく? と言っても、そんな大層なものは用意できないけど。」

「いや、今日は家で食べるって言ってるからな。じゃ、またな」

「そう言って別れた後、アスレインはエレミナ・フォルツテンドという少女の姿を見ることはなかったのである」

「おい、何不吉なナレーションを自分で言ってる。ついでに、少女って年齢じゃないだろ」

「あら、こっちの方が良かった? その日を境に、エレミナはアスレイン・ルクソールの笑顔を見ることはなかった」

「俺を殺すな」

「言われたくなかったら、こまめに顔を出しなさい」

 手を振りながら、エレミナは冷めた言葉を吐く。

「わかったよ。じゃあな」

 後ろ姿で手を振りながら、アスレインは境内に向かっていき、闇に溶けるように消える。アスレインがいなくなったのを確認した後、エレミナは庭の真ん中に歩いて行く。長い髪が風に吹かれて靡く。

「……」

 浴衣の袖からは取り出すのは筒のようなもの。卒業証書などを入れるような筒よりも少し短く細い。それを左手で持ち、魔力を通す。すると、その筒の両端から光が溢れ、弓が生まれる。右手にはいつの間にか取り出した白銀の剣。まるでそれを矢にするかのように、弓につがえる。

 エレミナの冷めた目は天空に浮かぶ月を射抜く。銀の色を湛えて、夜の街を見守る月。その月に向かって、矢を放つ。夜を切り裂く銀の輝き。一直線に月へと向かい、流星の如く解けて消える。

「何してんのかな、あたし」

 酔っているのかな、と考えながら庭を後にする。

 天には月と星。世の栄枯を見守るように、今宵も静かに輝き続ける。

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