使えない理由
「だいたいね、あんたはどうしてアースをそこまで悪く言うのよ!」
未香はため息をもらしながら、首を振った。
昨日の帰りは特に話すこともなく、他愛もない話をしただけだった。今朝だってアースについて少しだけを話していただけだ。
しかし、この柔らかな太陽の下、和樹は彼女から説教を受けていた。意見の違いからこうなってしまったのは言うまでもない。
なぜ彼女がここにいるのかといえば、意外と和樹の家から近く、バス停も普段は彼と同じ場所を使っているからだ。昨日はたまたま遅れ次のバス停で待っていたのだ。
民家の庭先に植えられた木々が日差しに照らされながら、春の暖かな風を受けて揺れる。
その光景はまるで説教を受けている和樹を笑っているようにも感じられた。
「いい、アースっていうものは夢のある技術なのよ」
「そうですよね……ふわぁ」
和樹は彼女の言葉を聞きながら空返事を返して欠伸をする。目の下にはうっすらと寝不足の証が貼り付いていた。
「あんたしっかり聞いてるの? 怖いとか言って逃げてる場合じゃないのよ」
「わかってるよ」
「あんたはあの大手セキュリティ会社の次期社長にあそこまで言わせたの」
未香は家に帰ってから赤城大知のことを調べたようで、今朝は自分の汚染が治るかもしれないと笑顔の花を咲かせていた。
――まあ、昨日みたいに不安定な精神状態よりはマシだな。
和樹は彼女の笑顔に一安心した。
「大知は大げさなんだよ」
彼が自嘲気味に頷いていると、彼らの前に学校まで向かうバスが停車した。
「ほら、話の続きはバスの中でね」
「私も来週にはアース端末を使う生活に戻れるわ」
上機嫌な未香は、まるでステップでも踏むように車内に乗り込んでいく。
そして、一人掛けの座席に座ると、
「あんたはあっちに座るのよ」
通路を挟んだ座席を指さす。あっちに座れ、とでも言いたげな目だ。
和樹はその意味を読み取って、ため息を漏らしながら指示に従った。
「だから、昨日押し倒したのは事故だって言ってるだろ?」
「まだ信じられないわ。無意識にあんたが興奮したかもしれないでしょ」
「見上さんは自意識過剰なんじゃない?」
「なんですって!」
確かに整った顔立ちは可愛らしい。可愛らしいのだが、どこかあどけなさが残っている。
今も、怒っている姿はお菓子をもらえない子供のようだ。
「ところで、治療は今日から始めるんだっけ?」
「いろいろと決めるそうよ。その時に、和樹の意見も聞きたいって書いてあったわ」
「大知がいろいろ考えてるんだろう……ん? 和樹って呼ばなかった?」
「っへ! っあ、うん。その地島ってなんだか呼び難いし、これから呼び合うのにも不便でしょ?」
彼女は指を絡ませながら恥ずかしそうにした。
「確かに……見上さんのことはどう呼んだ方がいい?」
「っべ、べつに好きに呼べばいいでしょ。人から命令されてその言葉に従う訳じゃないでしょ?」
「それもそうか。だったら、見上でいいかな」
さすがに下の名前で彼女を呼ぶ勇気はない。
「ふ~ん。別にいいけど」
どこかご機嫌斜めな様子になる未香は、頬を膨らませて明後日の方向を向いた。
「そういえば、見上はどうしてバグに汚染されたんだ? しかもクライアントメモリなんてところに……」
和樹が訊ねると、未香は顎に手を当てて記憶をなぞるように口を開いた。
「一年も前のことだから詳しくはおぼえていないんだけど、たしか駅に行った時だったかしら」
「駅?」
「そうなの。そこで両親を待っていた時に突然視界が真っ暗になったの」
少し手が震えていた。それは和樹にも理解できた。きっとその時のことを思い出すといまでも体が自然と反応しているのだ。
「見上、怖ければ話さなくても……」
和樹は心配して声をかけた。
「いいえ、少しでも治療に協力したほうがいいでしょ?」
しかし、彼女は首を振って話を続けた。
「それはたしかにそうだけど……」
「なら話すわ。――真っ暗になる時に、私の前を綺麗な金髪の少女が通り過ぎたのはおぼえているわ」
「それを最後に周りが見えなくなったんだね?」
「うん。それからアースの再起動画面が出てきて、見たこともない文字が表示されてから視界に映るアース画面にアプリのウィンドウが大量に映し出されて意識を失ったの」
「そうか……完全にバグの汚染例と一致するね」
和樹は頷きながら不可解な点を洗い出した。
まず、アース端末使用時のブラックアウト。これはまず構造上起こり得ないことだ。通常のアース端末ならば人間の体温を動力源としている。
つまり、アース端末を身に付けている時に電源が切れると言うことはまずなく、切れたとしても、視界が遮断されることはないはず。
第二に、再起動の画面上に出てきたとされる文字。彼女も見たことがないというならば、おそらくアースに関係する文字だろう。すると、それはおそらく。
――EC言語か……
それしか考えられない。あれは和樹による創作プログラミング言語だ。彼女の証言にも辻褄が合う。
ならばなぜそれらが出てきたのか。それは和樹にもよくわからなかった。
なので一旦考えることをやめた彼は、未香に気になったことを訊ねた。
「意識を失った後は大丈夫だったの?」
和樹がしばらく一人で考えていたので、未香は暇だった。
しばらく道路の道行く人々やバスの利用客をうらやましそうに眺めていたが、和樹に呼び掛けられて視線を戻した。
「っえ? ええ、その後にちょうど両親が到着したからすぐに電脳課に連れていかれたわ」
「そうか。とりあえずは不幸中の幸いだったんだな」
「そうかもしれないわね。それよりも、アースの画面が待ち遠しいわ」
彼女は補助端末を握りながら腕を上下に振った。
しばらく会話をしていると、窓の外に学び舎の姿が見え始めた。
『古井高校~古井高校~』
もう何度も聞いているので習慣として腰が浮く。和樹は席を立ちあがると、バスを降りた。未香も座席を立つ。
二人は並んで玄関口まで歩いた。
すると、
「っあ! そういえば連絡先交換してなかったわね」
「そうだった。治療のこともあるから交換しておくか?」
「そうしましょ」
そして、道を歩きながら補助端末を突き合わせた。
補助端末同士の間で連絡が行き交う。少し経つと、送受信完了を知らせる音が鳴った。
交換を終えると、和樹はもう一つ送信したほうがいいのか訊ねた。
「大知の連絡先は持ってるか?」
「赤城くんか……悪いけど、治療の連絡はあんたから送って……」
未香は苦笑気味に困ったような表情をして断った。
「ん? わかった」
すぐに送信中止のボタンを押して、補助端末をポケットに仕舞った。
和樹が顔を上げると、未香は気まずそうに目線を逸らしていた。
「連絡先なくても大丈夫なのか?」
治療のこともあるだろうし、大手の会社という社会的信用は確実にあちらのほうが上だ。
しかし、彼女は再び苦笑した。
「私、あの人ちょっと苦手なのよね」
「大知のことか?」
「そう。夢に向かって輝いているっていうか、それを見てると自分がみじめな気分になるのよ」
「夢か……」
きっとアースを通して見つけた夢に向かっている彼が羨ましいのかもしれない。彼女自身がアースを使えていないからこそ、その思いは大きなものだろう。
「うん……私も夢のために治療頑張らなくっちゃっ!」
未香は握りこぶしを作って気合を入れる。そうこうしていると、自分たちの学年の階についた。
「たぶん放課後に連絡を送ると思う」
「わかったわ」
二人はそれぞれの教室に足を向けた。
和樹は彼女と別れて自分の教室までの廊下を歩く。今日は朝は晴れていたが、夕方からくもりの予報だ。空には薄い雲が広く伸びていた。
「雨にならないといいけどな」
廊下ですれ違う生徒たちは窓の外など気にすることなく、小テストの対策や教師に対する不満を学友たちと談笑していた。
彼らもまたアース画面の時計を気にするなど、生活の中にすっかりアースネットワークが入りこんでいる様子が見て取れた。
その中で、未香と同タイプのアース端末を使っている生徒を視界の隅に捕えた。
「問題なく使えてそうだな……」
その生徒は女生徒であったが、指でアースの画面を操作しているような素振りをしていた。アース端末に問題が起こっている様子もない。
「なにか他にも問題があったのか……その辺りもわかると対策を練りやすいんだけどな」
聞いた限りでは、前例のないバグが見つかることになることを、和樹は予想していた。
「あとは大知と相談だな」
教室に向かう歩幅を僅かに広くしようとした時、彼は後ろの声を耳にした。
「僕となにを相談するのだ?」
「ん?」
和樹が声の聞こえる方向に振り向くと、今回の治療責任者が立っていた。
「大知か……って、おまえ、昨日はよくも送らずに帰ったな! 見上だけでも送ってやればよかったのに……」
「それはすまない。気付いてはいたが、彼女の治療スケジュールを組むために急いで帰りたかったのだ。それに、見上さんとアシスタントのコミュニケーションを図らせるためということもある」
大知の言葉に、和樹は胡散臭そうな顔を向けた。
「どうだか……。それで、どうにか彼女を治せそうか?」
「いや、検査をしてみないとわからないことが多すぎる」
未香の治療にあたった前任者から受け取ったのであろう資料を、大知は難しい顔で睨んでいた。
横から覗き見ると、彼女が持っているアース端末に関する調査結果と彼女の脳を調べた診断表が書かれていた。
「この結果を見る限り、異常が見られないのだ」
「それって……」
「正直いきなり座礁に乗り上げたと言った方がいいかもしれない」
和樹は顔を伏せた。今朝咲き誇っていた未香の笑顔が散ってしまうかもしれない。
その可能性が高くなってしまった。
「僕の力不足だ。情報がないとなにも始められない。長くなるぞ」
事態を重く受け止めた大知は悔しさを表情に滲ませていた。
「でも、できるだけ彼女のためにも早く完治させてやろう」
「そうだな……っお、もう馬場先生が来てるぞ」
「僕は治療方法を考えてよう」
二人は並んで教室の扉をくぐり、自分たちの席に座った。教室内は生徒たちの話し声に溢れ、馬場先生は連絡事項を黒板に貼っていた。
ちなみに、教室内の黒板は情報教室とは違い、チョークで書くことができる大きな黒板と、連絡を知らせる小さな電子黒板に分かれていた。
馬場先生が腕を大きく振りながら操作をするのは電子黒板。そこにはアースネットワーク上に保存しておいたデータを貼ることができるのだ。
こんなところでもアースの技術は欠かせないものとなってきていた。
「地島に赤城も来たな」
教室に入ってきた生徒二人を一瞥すると、馬場先生は机を軽く叩いて生徒全員の視線を自分に集中させた。
生徒達もそれに気付くと、それぞれ口を閉じて前を向いた。
「連絡事項だ、知っている者もいるだろうが、昨晩この辺りで不審者が目撃された」
馬場先生の話を聞き、生徒たちからは不安の声が漏れた。さらに話は続く。
「フードをかぶり顔などははっきりとは確認できなかったみたいだが、同時刻に学校のアースネットワークサーバーに侵入の痕跡が見られた。」
「なんだって」
驚きの声を上げたのは大知だ。
そんな彼に対して目を合わせると、先生は冷静に対応をした。
「ああ、赤城、君が驚くのも無理はない。ここのセキュリティには〈赤城ソフト〉の最高技術が使われている。教師の中でも波紋は広がっている」
法人、個人などのアースサーバーへの侵入は刑事処罰の対象である。そんなことを堂々と学校におこなった者がいるのだ。
彼女は咳払いをすると、教室全体に顔を向けた。
「電脳課には通報した。おそらく犯人はその不審者だろう。アースを悪用する技術者の疑いもあるので、帰り道は気をつけるように」
馬場先生からの注意に生徒たちは素直に返事を返した。しかし、和樹の前の大知だけは顔を伏せて立ちつくしたままの状態でいた。
拳を握りしめ悔しさをにじませている。
「大知、まずは座ったほうがいいぞ」
「……っ! っそ、そうだな」
険しい表情から我に返った大知は、自分のイスに深く座った。天井を仰いで放心状態。
相当セキュリティを破られたということが堪えたようだ。今まで自信を保っていたはずの彼からは想像もできなかった落胆ぶり。
すると、
「ちょっといいか、二人とも」
朝礼を終えた馬場先生が落ち込む大知と、彼を心配して見守る和樹に声を掛けた。
「なんですか、先生」
和樹は首を動かして彼女を見上げた。こちらも深刻そうな面持ちだ。
「実はさきほどの話を詳しく話したい。宿直室まで来てくれるか」
「わかりました」
「あたりまえだ」
大知はゆらりと這い上がるようにイスから腰を浮かせる。
「ババタロウ、僕も詳しく聞きたいところだ」
さきほどま肩を落としていた大知だったが、彼の目は闘士のように熱く燃えている。
そこには自分の技術を破った者に対する尊敬の念と挑戦の意が湧き上がっていた。
「こんな汚い所だけど座ってくれ」
彼らが座ったのは長年、本来の用途では使われていない宿直室だった。
畳が敷かれたそこは、最近では教師の休憩所などとして使われているらしく、雑誌やお菓子などが低い背の木製テーブルに置かれていた。
壁際には家庭用の冷蔵庫と食器棚が設置されている。
汚いと言っていたが、使われているだけあって、宿直室の中はホコリなど大きな汚れは見当たらない。
馬場先生は食器棚からグラスを取りだすと、冷蔵庫を開けてお茶のペットボトルを掴む。そして、それを机の上に置くと、グラスにお茶を注いだ。
「授業に間に合うかな……国語の亀田だしな……」
和樹は壁に掛けられた時計を見上げて、眉を寄せた。国語の教師、亀田は無断で授業を抜け出した者には『放課後の居残りナイトフィーバー』と呼ばれる補習を行うのだ。
そうなれば、未香の治療を延長することになり、彼女の治療に対する気分も最悪になること必至。
色々なことを心配する和樹に、馬場先生はあぐらを組みながら言い放った。
「一時限目の国語ならば、校長から話をつけてもらった。成績などに関係することはないから心配はいらない」
「そうですか……よかった」
ホッと胸を撫で下ろす生徒に彼女は微笑みを浮かべる。
「意外と普通のことを気にするのだな。でも――」
そして、和樹のとなりに座ったもう一人の生徒に視線を動かした。
「赤城、君はそれどころではない様子だな。もっと大きなものが心につっかえているな」
「あたりまえだ。ここのセキュリティが破られたのだぞ。呑気にしていられるか」
これは〈赤城ソフト〉のセキュリティソフトに対する信用の失墜にも繋がる。それを理解している大知は、混乱していた。
しかし、馬場先生は人差し指を立てると、それをメトロノームのように左右に振った。
「破られたっていうのは正確じゃない。詳しくは通り抜けたんだ」
「通り抜けた……?」
大知と和樹は彼女の言葉に首を傾げた。
法人などのアースネットワークサーバーに侵入する場合、たいていセキュリティソフトが起動しているのでそれを破らないといけないはず。
これはセキュリティに穴を開ける必要があるのだ。それ以外の方法ではネットワーク側からサーバー内に入ることはできない。
馬場先生が通り抜けた、と表現したのは破られた痕跡が見つからなかったからだろう。
「修正した痕は?」
和樹と同じことを考えていた大知は、一応状況を確認した。
「ワタシがセキュリティの全面を調査したのだが、特に変わった様子はなかった」
和樹は彼女が情報と数学の教師であったことを思い出す。
――そういえば、馬場先生もアースの免許を持っていたな。
学校で情報の授業を行う際は、政府の電脳課が発行する免許が必須。彼女は技術者並みにアースに対する知識を有しているのだ。
そんな教師が調査をしたということは、見落しなどはまずない。
馬場先生は腕を組んでため息を漏らした。
「誰かがサーバーにあるデータを閲覧したんだか……」
「ん? それはどういうことだ?」
大知はピクリと動きを止めた。
「いや、データを持ち出されたわけではないんだ。ただいくつかのクラスの名簿を見られたんだ」
「わざわざ学校のサーバーに侵入してまでか?」
「だから、君達の意見を聞きたくてね。教師の中でも疑問の声が上がっているのよ」
サーバーへの侵入手口などと比較して被害が少なすぎる。そのことが教師と、ここに連れてこられた和樹たちが頭を抱えている理由である。
「なにが目的なのかわからないな……和樹はどう思う?」
「わざわざセキュリティ難度の高い場所をねらったんだ。被害がないところを見ると愉快犯じゃないか?」
「そうとしか考えられないな」
和樹が簡単に犯人の目的を予想すると、大知も頷いて同意した。
「やはり君たちもそう思うか」
馬場先生は腕を組んで、二人の顔色を窺った。
「職員の大半がデータ上の不具合だろうという意見もあるんだ」
「いったい、どこのクラスの名簿が閲覧されたんですか?」
和樹は侵入によって唯一被害と呼べるものについて話を進めた。
「たしかワタシのクラスと三年生のクラスだったな」
馬場先生は思い出すように目を右上に動かして記憶を呼び起す。和樹から見えていないだけでアースの画面を確認しているのかもしれない。
――少し見上の気持ちがわかるな……
自分だけが他の人々に見えているものが見えない。これは完全に社会から孤立したような気分だ。
指を動かし始めたので、なんとか馬場先生がアースを操作していることがわかった。
よく見ると、肩耳にイヤホン型の技術者用アース端末が顔をのぞかせていた。
「調査結果はさきほど言ったクラスで間違いはないわ」
「それが調査の結果か?」
大知の声を聞いて気付いた。
彼女はアース画面上の報告書を持っているようだ。和樹の視点からは空気を摘まんでいるようにしか見えない。
「ああ、赤城も見るかい?」
「少し気になるからな。今後のソフト開発のためにも見せてくれ」
大知は彼女から報告書を受け取ると、首を傾げている和樹を一瞥した。
「和樹にも送ろう」
アースメールを使って、それを送ろうとした。
しかし、
「いや、今回はこいつに新しいアプリケーションを入れたから大丈夫だ」
和樹はアース補助端末のカメラを大知に向けた。補助端末の画面にはアースネットワーク上の情報が、それを通して視覚化された。
大知は和樹の手の中にある補助端末を見下ろすと、感心したように頷いた。
「ほお、一晩で作ったのか?」
「本当は別のものを作っていたんだが、まあ、その副産物だ」
そして、虫めがねのように顔の前に補助端末を持ちあげ、大知の手元に視線を落とした。
彼の掴んでいる報告書に視線を落とした。
「ほらな。狭い範囲ではあるけど、可視化することはできるようになったんだ」
「すごいな。やはり僕はまだまだ、だな……」
感嘆の言葉を口にしながら、少しだけ悔しそうに鼻を鳴らしたした。
「なにそれ? 地島くんが作ったの?」
興味本位で横から顔を出す馬場先生。
「あれ? 地島くんって技術者だったっけ? ただアースに詳しいだけだと……」
先生は不意に頭を過ぎった疑問に首を傾げた。
しかし、今はもっと話すべき内容があった。
「それよりも、この報告書。本当に何もわかっていないんだな」
「データを持ち出した形跡もなし。しかもなんです? このダミーファイルの閲覧って?」
被害欄の中には『馬場ちゃん特性・名簿ダミーファイル』という文字が書かれていた。
それを見た和樹は、呆れた声を出して馬場先生を振り返った。
「書いてある通りだ」
馬場先生は胸を張って自慢そうな表情を浮かべていた。
「いや……わからないから聞いてるんですけど」
「だから、ワタシが仕掛けておいた偽のクラス名簿だ。うちの名簿はもっと他の場所に保存されているのだよ。すごいだろ?」
つまり、閲覧された名簿は偽物で、実質的な被害は三年生の一クラスの名簿だけだということだ。
さすが馬場先生とでも言うべきだろうか、未然に生徒の個人情報を守っていたのだ。
「すごいじゃないですか。俺たちに意見求める必要もないほど報告書もしっかりしてるようですし」
発生時間、個人の見解、不審者情報とのつながりなど、報告書には細かく記されていた。
なぜ和樹たちを呼んだのか、わからなくなるほど。
「セキュリティについて詳しい赤城と、アースの授業テストで毎回満点を取っている地島の意見を参考にしたかったんだ」
「そうですか」
「それじゃあ、意見も一致したことだ。私はこれを上に提出するとしよう。呼び出してすまなかった。話はこれ終わりだ。いつでも教室に戻っていいぞ」
「わかりました」
すると、宿直室を出ようと立ち上がった馬場先生を大知が呼びとめた。
「ババタロウ、これを……」
大知は、今まで眺めていた報告書を彼女に向かって投げた。
「忘れてた。これがないと校長に大目玉を食らうことになる」
苦笑しながらそれを受け取ると、今度こそ報告書を提出するために部屋を出ていった。
しばらく話をしていたので喉の渇きを感じた。机に置かれたお茶のペットボトルも汗をかいていた。コップにも大量の水滴が凝結しており、それは机の上に水溜りを作る。
和樹はコップを手に取ると、キンキンに冷えていたお茶を口の中に入れた。随分とぬるくなっている。
喉の渇きを抑えた彼に、大知は難しい顔で質問した。
「なあ和樹。もしもの話しなのだが、システム側からネットワークやサーバーに直接接続することは可能か?」
「システム側から? できないこともないぞ。アース自体ネットワークはそれぞれ繋がっているからな」
「そうか……」
大知はそれ以上なにも聞いて来ることはなかった。
ただ、答えを聞いた後はなにかを考えるような仕草をしていた。
昼休み。生徒たちが友人たちとの休みのひと時を楽しんでいる中、教室に戻り授業を受けた二人は顔を突き合わせていた。
彼らの前には半分ほど食べられた購買部の弁当が置かれている。それに箸を伸ばしながら、和樹は向かいに座る相手に訊ねた。
「見上の治療はどうするんだ?」
「彼女のか……」
大知は弁当から目線を上げて箸を置いた。
「まずは検査からだろうな。前任者の診断書があまりにもずさん過ぎだ。きっと治せるわけがないと決めつけていたのだろう」
「そうか……」
未香が治療に対してあまり期待をしていなかったのは、その気持ちを雰囲気などから察していたのかもしれない。
和樹は再び彼女が夢を捨てかけた過程を汲み取って行く。さまざまな理由が折り重なって、彼女と最初に出会ったバス、そこで和樹に発した言葉が出てしまったのだろう。
「一から彼女を汚染したバグを突きとめて、必ず治そう」
「もちろんだとも」
和樹がポツリと呟いた決意に、大知も同意する。
口と弁当の間に箸を行ったり来たりさせながら、今後の治療予定を確認する。
「ちなみに治療にはどれぐらいかかりそうだ?」
「短くて一週間といったところだな。いかんせん、前回までの診断書が信じられないと鳴ると、バグの詳細がわからない。長くなればどこまでかかるか計算できないな」
診断書通りのバグならば一週間だということ。バグの治療としてはごく平均的な期間。
だからこそ今朝だって、未香が嬉しそうにしていたのだ。
「ついては、放課後、あの場所に行こうと思う」
「あそこか? でも、大知はあの人苦手だろ?」
何かを必死に耐えるようにして、顔を歪ませた。
「うぐっ……いや、仕方がないことだ、バグの正体をいち早く掴みたい」
「たしかに」
「あの場所ならば僕の家の調査機器と同等の設備がある。彼女に借りを作るのは嫌気が刺すが、一秒でも時間が惜しいからな」
和樹はわかった、と返事を返した。そして、胸中で切に願う。
――バグが従来のものであればいいけど……。
新たに生まれた彼女の夢。それを壊す権利など誰にもない。
それがたとえアースの開発者であったとしても……。