アースの恩恵と格差
「はぁはぁ……」
和樹は息を切らしながら学校内を走り回っていた。
バスを降りた後、結局、未香を見つけることはできなかったのだ。
べっとりと汗で制服が張り付いていた。
仕方なく彼女の捜索を諦めて、自分の教室に向かう。
さきほどから頬をつたう汗は、春だと言うのに熱い空気を運んできた風が原因ではなく、日ごろから運動をしていなかった代償だろう。
汗を抑えるために涼しい影を歩くようにして、和樹は教室に辿りついた。
そこは一年生の教室。
「もうだめ……歩けない」
一番後ろの窓際に面した自分の机。絶好のポジションの席。和樹はカバンを置く。そして、イスに深く腰を掛けて座った。窓からは春特有の花の匂いを運ぶ優しい風が和樹の頬を撫でた。それらが一緒に汗も乾かしてくれる。
自然の恩恵を楽しんでいると、前の席から聞きなれた声が呼んだ。
「和樹よ。朝から随分と疲れているようじゃないか?」
「んあ? ああ、大知か。ちょっと野暮用でな」
和樹は窓に向けていた視線を前に移動させた。そこには予想していた通り、赤城大知が座っていた。
腹が立つほど綺麗な顔立ち。彼はメガネをくいっと上げた。
その姿に、和樹は首を左右に振った。
「教室内ぐらい、開発用端末外せよな……」
「いいじゃないか、これは僕の命と同等なのだぞ?」
和樹の注意などどこ吹く風。大知はメガネ型のアース端末、詳しくは技術者用アース端末を摘まんだ。
アース端末とはアースネットワークに繋ぐための通信端末で、一般的に〈技術者用端末〉と〈ユーザー端末〉というものがある。
ユーザー端末は一般に使われているアクセサリー型のものばかりで、電子機器の形をしているものは生産されていない。そして、特殊なアース端末、開発者用端末は、アース上のゲーム、アプリ、ソフト、セキュリティなどのサービスを開発するため端末だ。
その型はメガネ、イヤホン、ヘッドホンと三種類が製造されている。
こちらはユーザー端末よりも数倍の値段がするため、必要としている者にしか使用されていない。
ならばなぜ大知がこれを持っているのかと言うと、
「僕は〈赤城ソフト〉次期社長、赤城大知。そんな僕がいつでもアース関連のソフト開発ができなくてどうする。何かを作り出したものはそのことに対して責任を伴うからな」
なにやら偉そうに言っているが、彼は今朝のニュースでも名前が取り上げられていた〈赤城ソフト〉と呼ばれるアースネットワークの最大手セキュリティサービス会社の跡取りなのだ。
「責任か……」
和樹は誰にも聞かれないように小声で呟き、続けた。
「僕には使命があるのだっ!」
「授業中はさすがに怒られるだろ……」
貴重な学校生活を家業のために潰すのはいかがなものだろうか。
胸を張る親友に、和樹はため息を漏らした。
しかし大知は、何も分かってない、と首を振る。
「バカだな。我が赤城ソフトの権限を使えば公立高校の教師ぐらい動かせる」
次期社長としてそれでいいのか、と半目で大知を見つめる。
「ほ~、ならばやって見せてもらおうじゃないか、赤城大知」
二人の背中に冷たい声が囁かれた。
「っな、年増教師・ババタロウ!」
突然の登場に驚きの声を上げる大知。
「誰が太朗で年増だぁ? ワタシは女だ! あと、ババアという意味でババと言わなかったか?」
大知と和樹の会話を聞いていたのであろうババア、もとい馬場先生は大知の肩に腕を回していた。彼女は和樹たちの担任で、体育会系の印象の女性教諭だが、数学教諭である。
そんな彼女に、ガッチリと固められ、大知は逃げ出そうにも逃げ出せない様子だ。
「そ、れ、で~? 地島は先生のことをどう思っているのかな?」
「んぐっ」
「えっと……」
大知を抱えている腕に力が入った。下手なことを答えれば、彼のように制裁を咥えられる。無形の脅しだ。
和樹は表情を引きつらせながら、口を開いた。
「先生はとてもすごい女性だと思います」
嘘は言っていない。本心から(力の)すごい女性だと和樹は感じていた。実際に、大知に絡みついている腕は筋肉が浮かび上がっているほど。
「すごい女性……っそ、そうか、そうか、まだまだ結婚できるよな」
どうして結婚の話になるのか疑問だったが、場先生は片手で後頭部を掻きながら、高笑いをした。
そして、もう片方の腕では大知が気を失いかけていた。
「っそ、それよりも大知を離してあげたほうが……」
「ん? ああ、今回は地島に免じてこれだけで許してやる! それに、教師がお金で動かされるか……まったく」
呆れて溜息をついた馬場先生は大知を解放する。
呼吸が自由なった彼は、机に倒れ伏して深呼吸をした。
「はぁはぁ……あれで免じたのかよっ。剛腕ババタロウじゃないか……」
大知の呟きを聞いていたかもしれない、と和樹が馬場先生に視線を向ける。
すると、彼女は放心状態で、ワタシはまだこれからだよな~、と教壇の前で呟いていた。どうやら追加制裁の心配はなさそうだ。
――ってか、結婚できない理由は暴力的だからではないだろうか……
和樹が馬場先生の結婚できない訳に気付きつつあった時、大知は首元を擦りながら顔を上げた。
「そういえば、今朝のニュースを見たか。我が〈赤城ソフト〉の社名が大々的に報道されていたな」
「いや、一瞬だけだっただろ?」
「一瞬、一コマだけでも独占的なものだ。なにしろセキュリティ関連で我が社の右に出る会社はいないからな」
自信たっぷりに微笑を含ませる大知。確かに、〈赤城ソフト〉は業界トップのシェアを誇っている企業。鼻高らかに自慢するのも納得できる。
それについては和樹も同意なのだが、一つ否定しなくてはいけない。
「我が、じゃなくて、正確にはおまえの父親の会社だろうがっ!」
「僕だって一生懸命やっているさ。まあ見ていろ。今週中にはいい成果をだせるだろう」
「そんなに早く……なにかあるのか……?」
ごくり、と固唾を飲む和樹。なにか確固たる根拠がある様子。
大知の雰囲気は自信に満ち溢れていた。
そして、彼はメガネの位置をクイッと直すと、内緒話をするように和樹の耳元で囁いた。
「ふふふっ、聞いて驚け! 今日の放課後にも未知のバグを脳内のクライアントメモリに宿した少女の検査があるのだ」
「っな、バグをクライアントメモリ領内にっ!」
和樹は大知の言ったことが信じられなかった。
クライアントメモリ。それはアースを使う際にアースネットワークから端末が受信した情報を一時的に保存する場所。脳の使われていない領域を使ったアース専用の記憶と言ってもいいものだ。アース利用者たちのクライアントメモリ容量は脳のおよそ十分の一。
そんな場所にバグができることなど今まで聞いたことがない。
いや、アースが開始した時からバグが新たに作られることなどありえないのだ。さらにクライアントメモリにだなんて……。
――どうなってるんだ……アースに不調が起きているのか……
和樹は口元に手を当てて原因を考える。
構築にミスはなかったのだろうか。そもそも、なぜ新しくバグが発生したのか。
アースネットワークは全機能、隠し要素も含め、開発された段階ですべての構築がされていたと言われている。
――だとしたら、あの時のが、まだ……
和樹が悔しさに顔を歪ませていると、大知が視界に入ってきた。
「なんだ、和樹。また自分を責めてるな」
「ちょっとな……」
自分への過剰な嫌悪で少しだけ気分が悪くなる。
大知はそんな和樹の肩に手を置いた。
「たしかにバグがクライアントメモリにまで入り込んだことは前代未聞だ。しかし、汚染された人を直すことは〈赤城ソフト〉の得意分野だ。治療は任せておけ」
「あっ、ああ……俺が、アース端末を使えればなんとかできるんだが……」
「しかたないさ。僕も和樹と同じ経験をしたのならアース端末を使うのが怖くなるからね。しかも、君の端末は特別なものだ。どれほどの痛みだったのか、僕には想像できないよ」
大知はポンポン、と優しく和樹の肩を手で叩いた。
「ところで、そのバグはどういったものなんだ?」
「ああ、それがまだ検査をしていないから詳しくはわからないが、厄介なものらしい」
大知はなにもない場所を目で追いながら、それを読んでいた。
和樹に見えないところを見ると、アース上の画面だ。
「すまない、そっちにも資料を送るよ」
首を傾げている和樹に気付くと、大知はアースメールを飛ばす。すると、ポケットに入っている和樹の携帯電話が震えた。
アースは既存のインターネットとも互換性があるため、一部機能は共有されている。
そのため、パソコンから個人のアース端末へのメールやテレビ電話などもできるのだ。
ちなみに、それは携帯電話が補助端末と呼ばれる理由でもある。
アースを使った通信が基本となった今の日本では、携帯電話やパソコンは持ち運びが不便ということもあり製造数自体は減少。互換機能によってそれらの機器からアース端末への通信も可能なのだ。
「書いてある情報だとクライアントメモリの中で情報を生成するらしいよ」
和樹も携帯電話の画面を指で操作しながら送られてきた資料を読んだ。
そこには推測の段階だが、バグの予測、報告などの詳しい情報が載っていた。
「ウィルスじゃないのかよ?」
「いや、ウィルスも同時に作られるからアース史上最悪のバグだね。アースを使うと、無意味な情報を脳内に送り込み続けてパンクさせるそうだ」
「パンク……」
ウィルスが脳内の領域を圧迫すれば命にも関わってくる。
これは和樹も無視できない事態だ。
「おい大知、俺もバグに汚染された少女に会わせてもらってもいいか?」
「僕は構わないが、本人の了解も得なくてはな。もしかすれば、君の身元を彼女に明かすことになるかもしれないが、いいか?」
和樹が同意を求めると、反対に大知からも同意を求められた。
「……そうだな」
「やはり嫌か?」
答えを出しあぐねている和樹の様子に、大知は心配そうな目を向けた。
すると、和樹は意を決したように首を振った。
「いや、大丈夫だ。アースで人が死ぬところなんて見たくないからな」
「そうか。できるだけ話さなくてもいいようにするが、相手次第だろう。もしもの時は覚悟してくれるか?」
「ああ」
再びの確認に深く頷くと、和樹は自分のカバンに手を入れて腕時計型のアース端末を取り出した。
普通ならば電子機器に部類される腕時計。アース端末としては規格外の型だ。
短い息を漏らしながら、和樹は腕時計を掴む右手が震えているのを確認する。「……ック」
彼はもう一度、腕時計をカバンの奥深くに突っ込んだ。
腕時計を放した後も和樹の右手の震えは少しだけ続いた。