アースがあるという日常
『ほら、新学期だよっ! 早く起きてっ』
朝早くから意識を覚醒させようとする少女の声が、部屋の空気を震わせる。
「んぐっ……」
小刻みな揺れ、部屋に差し込む朝日。ベッドで眠っていた地島和樹は薄眼を開けて太陽を見据えた。
「女の子が起こしてくれることはないよな……」
ため息を漏らす和樹は布団から手を伸ばして震え続ける携帯電話を掴んだ。さきほど聞こえた女性の声はそこから発生していたようだ。アラームを切る。
「ん~、さてと、行くかっ!」
一瞬の静寂の後、部屋の主はベッドの脇に座り、腕を上げて体を伸ばす。そしてクローゼットの前に立つと、そこに掛けられた学校指定の制服を掴んで着替えを始めた。春ということもあり、ほど良い温度の空気が部屋に満ちていた。和樹はズボンを穿きながら学校に持って行く物を目視するため、自分の部屋に目を向けた。
さきほどまで眠っていたベッド、本棚、パソコンの乗っている机には物々しい箱に入った指輪。その隣には腕時計型のアース端末が置かれていた。
このアース端末というのが、二年前に日本の通信機器メーカーを軒並み倒産させたのだ。
かつて彼も夢中になっていた……通信技術。
「一応持って行くか……」
和樹はネクタイを締め終えると、腕時計を腕に付けず、カバンの中に放り込んだ。
そのカバンを持ってリビングに向かう和樹。
リビングに入ると、朝の情報番組が太陽にも負けない人工灯を放出したテレビに映し出されていた。その前で、妹は朝食を食べていた。彼女はテレビを見るでもなく、視線を一生懸命動かしている。
「あれ? かずにぃは寝坊?」
妹はパンを片手に和樹を一瞥すると、空中に指を這わせる。まるでなにかを操作するかのように指を躍らせる妹の姿。
和樹は妹の向かい側に座ると、
「朝からアースはやめろよ。しかも食事中だろ?」
自分の席に用意されていたパンを咥えながら彼女に注意をした。
「はいはい、そういう説教はお母さんだけで十分だよ」
妹は溜息をついて、ネックレスを指で弾く。すると、彼女の視線は和樹に向けられた。
「こんなに便利なんだから仕方ないでしょ? それに友達からメールも送られてくるんだからね」
「それはわかってるけど……」
「かずにぃも使えばいいのに。自分のアース端末持ってるでしょ?」
妹はネックレスを指でつまんでそれを揺らした。
「俺はコイツで十分なんだよ」
和樹はポケットから携帯電話を取り出すと、机の上に置いた。それは一昔前に流行したタッチ式のアース補助端末。
妹はそれを見下ろすと、
「っぷ、あははは、それ補助端末じゃん。今じゃ、おじいちゃんだって持ってない化石だ」
腹を抱えて笑い声を上げた。
「別にいいだろ……」
妹の笑い声が響き割る室内。しかし、別の音源もここにはある。
『次のニュースです。近年増加の一途をたどる何者かによるウィルス操作ですが、新たなセキュリティ対策が〈赤城ソフト〉から配信されました。現在更新を行っていない方は迅速な対応を心掛けてください』
口元を尖らせた和樹の耳に、テレビからの情報が入った。彼はそれを聞くと、眉を寄せて顔を伏せた。
「またか……」
テレビの音は一緒に食事をしていた妹にも聞こえていたようで、彼女は牛乳を飲みながら呟いた。
「最近多いよね。ウィルスとかバグを故意に使ってる人もいるんでしょ。わたしも後で更新しておこっと……」
「誰がこんな悪戯をしているんだろうな」
和樹はパンを口に放り込みながら妹に視線を向けた。机の下では拳を握っていた。
――なにが面白くて、こんなことをやってるだっ!
パンを噛み千切る彼は胸中で憤りを感じていた。便利な道具に横から悪戯を仕掛けてくる者。それがたまらなく許せない。
「アース自体も開発者がまったく出てこないし、この技術も謎が多いよね」
妹は悪戯な笑顔を浮かべていた。
「っさ、三年も前だからな」
「発売されたのは二年前……細かいこと注意しないといつかバレちゃうよ?」
「うっ、っそ、それより、早く学校に行かなくてもいいのか?」
慌てて話題を逸らす和樹。彼は冷や汗を掻きながらテレビに表示されている時計を指す。
それに釣られて妹も時計に視線を動かした。
「うわっ! アースの電源落としてたから時間に気付かなかったじゃん。遅刻したらかずにぃのせいだからねっ。その時は電脳課にお兄ちゃんのこと通報してやるっ!」
「俺はアースを悪用した犯罪者かよ……」
妹は残りのパンを牛乳で流し込むようにして胃袋に詰め込み、近くに置かれていたバッグを腕に引っ掛けた。。
「後片付けよろしくっ! 行ってきます!」
「車に気をつけろよ」
「わかってる、かずにぃもおかしな女の子に気をつけてね」
和樹が声をかけると、妹はスカートを翻してウィンクをし、玄関を飛び出して学校に向かった。
「なんのこっちゃ……」
和樹は自分の妹の忠告に溜息をついて、もう一枚のパンを掴む。
「アースか……今の情報量は、三……いや、二年前とは比べ物にならないだろうな」
途中で妹の言葉を思い出し、言い直し、自分のアース端末が入っているカバンを一瞥して、空中を眺めた。目の前に広がっているであろう情報の海を和樹は見ることができない。いや、見ようともしない。妹がやっていたようにアース端末を身に付ければ情報の海に入ることはできる。しかし、今の彼にその勇気はなかった。
「あの時とはアースの環境が変化していることは知っている……あんなことは起こらない。でも……まだ俺にはっ!」
和樹は震える手を必死で抑えた。
情報に触れることなどができ、使用者の視界に情報を流す、拡張現実を可能にした技術。構造としては、アースネットワークと呼ばれる情報網が日本中に張り巡らされている。それは妹が持っていたような通信端末であるアース端末を使って情報のやり取りをするのだ。端末は神経を通り脳内に情報を送り込み、情報を視覚化する。
その情報を統括するのがアースシステムであり、それはネットワーク内で不要になったデータの自動除去などを行い、ネットワーク内の環境を整えている。
それはまさに夢のような通信技術である。
しかし、今、和樹がアース全体に抱いているものは恐怖。夢などではない。
他の人々のように心を躍らせながらアースを利用することなどできない。
恐怖に怯える和樹の耳にニュースの声が届く。
『未知のバグには対策を練ることのできないものもあるので、そのようなバグによる汚染の拡大が懸念されます』
「未知のバグだってっ!」
和樹は自分の思わず横目で見ていたテレビ画面に顔を向けた。
『バグはウィルスを生成するため二次被害の恐れもあります。汚染された方は速やかにセキュリティ会社、もしくは、お近くの電脳課までご相談ください』
「バグ……詳しいことはあいつから聞くか」
和樹はこの手の情報に詳しい友人の顔を思い浮かべながら、箸を進めた。
和樹がじっと箸を咥えてテレビを眺めていると、ニュースのトピックスは情報実体――インスタンス関連記事となっていた。
『昨日配信が開始されたペンギン型仮想ペットがありましたが、他社の仮想ペットの配信日が決定いたしました』
和樹はテレビを横目に朝食に箸を伸ばした。
「最近のインスタンスは普通の動物から空想の生き物までペットにできるんだよな。まさかこの部屋にもペット飼ってたりしないよな、あいつ……」
インスタンスはアースネットワーク上の情報の塊。
人々はネットワーク上のインスタンスを操作してアースを使っているのだ。
『その仮想ペットの形はなんとライオン型だそうです』
女性キャスターはライオンと言っているが、現実のそれとは容姿が大きく異なる。
デフォルメされたキャラクターのような見た目だ。
現在では、動物などを形作った仮想ペットは若い女性の間で人気となっている。
その正体は、人工知能プログラムである。そのため、本物の動物のような動きをすると話題なのだ。
「見えないだけで走り回ってるかもな……」
和樹が知らないだけで、彼の周囲にも一匹潜んでいるのかもしれない。しかし、アース端末を付けていない和樹には、ペットの有無を確認することはできなかった。
メールなどが表示される情報枠もインスタンスであるため、先ほど妹がアースのどの機能を操作していたのかは、和樹が知る由もない。
ただ、空中に指を滑らせている姿はインスタンスが見えなくてもアースを操作しているのだと予想ができていた。
妹がアースを操作していたのはペットがいるからかもしれない。
和樹は妹が知らないうちに動物を飼っていないのか心配になった。
「帰ってきてから問い詰めてやる」
和樹は問い詰める方法を考えながら、お茶を飲み込んだ。
今日の予定がいきなり二つもできてしまった。
和樹はまず一つ目の予定を消化売るために、カバンを担いで学校に向かった。