責務
「不自然だ……」
何人かの生徒がいる早朝の教室。朝の部活を終えた生徒の汗臭さが鼻腔を刺激する。
和樹は朝陽に照らされた手元に目を落とす。美香の診断結果が印刷された紙が柔らかな風によって揺れた。
紙の内容を一語も逃すことのないようにゆっくりと視線を横に移動させる。
昨日から何度も眺めている文字たちに新しい発見はなかった。
もちろん目は覚めている。しかし、いくら集中し考えても理解できないことがあった。
未香がバグに汚染された原因が掴めないのだ。
「長谷川先輩にもらったデータにもバグの侵入した時間には不審な点は見当たらないな」
自分がアースを使わなくても治す方法があるのではないかと、一晩通してデータの解析を進めていた。
その中で判明したのはバグの正体と汚染の瞬間だ。そのデータは学校で大知たちと相談しようと思い、検査の結果などの紙と一緒にカバンの中に入れてある。
しかし、どうしてもわからないのはその原因なのだ。
「サイト、アプリ、ソフトじゃないのなら他にどんなものがあるんだ?」
アースネットワークのシステム的情報であるバグを丸ごとクライアントメモリに入れるという行為だ。普通の汚染や感染とは全く違った方法で汚染させられたに違いない。
いくつか汚染原因を考えていると、教室に大知が来ていた。
いつも通り整えられた制服に身を包んだ彼は申し訳なさそうな顔をしている。
元気のない様子で和樹の前にある自分の席に座るとすぐにこちらに頭を下げた。
「和樹、すまない。僕が技術を磨いてなかったばっかりに昨日のようなことになってしまった」
「別にいいよ。いずれ俺も彼女には話そうと思っていたからな。それよりも、検査の結果が出たぞ」
「早いな」
周囲を見て誰もいないことを確認すると、和樹はカバンの中から未香に関する資料の束を机の上に出した。
そこにはバグの破片ではなく本体が汚染原因であること、バグから作りだされるウィルスが今までにない新種であることが記載されていた。
ウィルスに関しては未香が帰った後、バグのデータを調べていた時に発覚したことだ。
どのワクチンソフトも効かない可能性もあるのだ。
大知は口元に手を当てながら資料に目を通して行く。時折、目を大きく開けているが、驚いているのだろう。
和樹だってできれば信じたくはない。何しろ自分が開発したアースの問題が肥大化しているのだ。
「なるほど、通常の検査機器ではわからない訳だ。あまりにもバグが大きすぎて検査対象から外れてしまったということか。検査機器の設定も見直す必要がありそうだ」
大知は納得して頷くと、自社が出している検査機器の企画変更をメモした。
「めったに怒ることではないけど、今後もそういう患者が増えるかもしれないからな」
「できればそうならないことを祈るが……それで、見上さんの汚染原因は掴めたのか?」
「正直微妙かな。未香のアース端末の履歴と照らし合わせてもおかしな点がないんだ」
正直一人では煮詰まっていた所なので大知が来てくれたことにホッと胸を撫で下ろす。
残った汚染ルートとしては外部からの侵入だ。それもメモリ領域にまで入り込むなんて、相当腕の立つ技術者しか考えられない。
次に彼女のアース端末の解析結果を目にした大知は、その紙を机の上に置いた。そして、トントンと紙に書かれた地図を指で叩く。
それは使用履歴の中の位置情報に関するものだ。
「この地点、ここがアース端末の最終使用履歴だろ?」
「ああ」
「ならば、ここにバグの原因となるものがあるかもしれないな。どうだ、和樹、見上さんも連れて放課後ここを訪れるのもいいと思うのだが?」
和樹は少しだけ考える。
記憶が正しければ、その場所というのは、和樹が二年前に住んでいた町だ。色々とあって逃げるように町を離れたのは、遠い昔のことのように感じられた。
懐かしさの様なものを覚えながら和樹は頷いた。
「いいぞ。そこにバグの原因があるのならすぐに対処する必要があるしな」
大知も頷きを返してアース端末のアプリを触って今日の日程にそれを付け加えた。
そして、アースの電源を落とすと、
「それとバグの治療方法だが、本体となってしまっては取りだすことも消し去ることも何年掛かるかわからないな。見上さんにはその間補助端末で我慢してもらうしか……」
彼は悔しそうにそう告げた。そんな彼の心配をなくすため、和樹は未香の現状を教えた。
「大丈夫だ。俺がアース端末を使えるように外付けのメモリを渡したから」
「一安心した……って、なにっ! そんなものがあるのか?」
息をついたのも束の間、大知は和樹に詰め寄った。
社長息子として金儲けの種となる話題に反応していたので、和樹はため息を漏らして忠告した。
「随分と前のものだけどな。あと、残念ながら痛覚を感じてしまうから実用化はできないからな」
「しかし、痛覚がなくなれば使えそうだな……ん~、商品開発部に連絡をしておくか」
「完成したら俺にもくれよ。俺じゃあ痛覚をなくせなかったからな」
「もちろんだ。開発者に作れない物を作れるチャンス到来だ」
大知は嬉々として拳を突き上げてイスから立ち上がると、アースで連絡を取り始めた。
「僕だ。実は次の商品の件で相談が……」
人差し指を耳の中に入れて会話をしている。これは〈アース電話〉だ。はじめからアース端末に搭載されている昨日の一つである。
彼は電話での話を続けながら廊下に出ていった。そして、彼と入れ替わるように教室に入ってきたのは未香だ。
「見上、おはよう」
「む~」
挨拶をすると不機嫌そうな表情が返ってきた。
「見上?」
和樹が首を傾げていると、未香は腰に手を当てながら諭すように言葉を発した。
「未香」
「ん? っあ、ああ、そうだったな」
ようやく未香が不機嫌な理由が分かった。きっと彼女は名前で呼ばれないことが気に喰わないのだろう。
和樹は咳払いをして改めて言う。
「未香、おはよう」
「うん、おはよ」
考えは当たっていたらしく、未香は一瞬にして笑顔になった。
彼女の手を見ると指輪がはめられている。つまりさっそく試しているというわけだ。
和樹は少しだけ心配しつつ、彼女に訊ねる。
「アースは使えているか?」
「ええ、久しぶりにアースを通した光景を見たわ。それにしても痛覚があるのは不思議な感覚ね。インスタンスなんて、情報的な実体のはずなのに前よりもリアルに感じるのよ。現実と仮想の区別がないみたいだわ」
キョロキョロと周囲を見渡して目を輝かせる未香。きっと彼女の視界にはさまざまな情報が飛び交っているのだろう。
「それは一時的な措置だからな」
「わかってるわよ。いつかはあんたが治してくれるんでしょ?」
「俺のトラウマがなくなればな」
今の和樹には彼女が見ている景色は見えない。けれど、作ったのは自分なのだ。いつかもう一度、アースの世界を目に焼き付けようとは思っている。
「小心者のあんたには無理だろうけどね、ふふっ」
どこか嘲笑する彼女にムッとした。
「っだ、だれが小心者だ。泣き虫!」
「なんですって!」
顔を突き合わせて喧嘩をするが、この時、和樹はどこか心地よさの様なもの感じた。
――こんな気持ちはあいつと一緒にいた時以来だな。
和樹の中で思い出される人物。もう一人の開発者だ。
その人物との記憶の蓋が開こうとした。
その時、
「あれ? 見上さんも来ていたのかい?」
電話を終えた大知が教室に戻ってきた。彼を見つけると、未香は昨日の感謝を伝えた。
「赤城くん、昨日はありがとう」
「いやいや、僕は治療責任者としてなにもできなかったし、お礼なら和樹にしてあげれば?」
「っそ、それはいつか治ればよっ」
彼女はちらちらと熱い視線をこちらに向けてくる。
――もしかしてまた怒らせるようなことをしたか、俺?
大知は何か思いついたように手を叩くと、空中に指を這わせた。
「っね? こんなことしてあげれば和樹も喜ぶと思うんだ」
「っへ、変なメッセージを送らないで!」
未香は視界の隅に目を動かすと顔を赤くした。
どうやらアースを使ってやりとりをしているらしい。
「おまえら、俺が見えないからってアースでの陰口はやめろよな」
「うふふ、悔しいならあんたもアースを使えば?」
彼女は楽しそうに笑う。数日前まではずっと俯きがちだった彼女も、今では他の生徒とほぼ同じようにアースを使い、人の目を気にしなくなってきている。
今朝はバス停で会うことはなかったけど、元気そうで何よりだ。
「そんな簡単に使えれば苦労しないって……」
「早く怖がりを克服することだな」
「おまえまでそんなこと言うのかよ」
教室内の喧騒までもが自分を笑い、慰めているように感じた。
「やっぱり、小心者で決定ね」
「うるさいっ」
未香にポンポンと肩を叩かれて、和樹はぶっきらぼうに顔を背けた。
「もう怒らなくてもいいじゃない。ほらっ、放課後なにか買ってあげるから」
「俺は子どもかっ! それに、放課後は未香も一緒に汚染の原因を調べに行くんだからな」
「っへ、なにそれっ、聞いてない!」
未香はこちらに顔を突き出して目を丸くする。
すかさず大知が横合いから説明した。
「今日の放課後に見上さんの証言を基にバグの汚染ルートを探ろうって話していたんだ」
しかし、彼の口はここで閉じられなかった。彼はからかうようにして続けた。
「けど、もしかして和樹とのデートの方がよかったかな?」
大知は和樹を横目に含みのある笑みをこぼした。
「っな、っそ、そんなわけないでしょ!」
「そうかな。さっきも何か奢る約束取り付けようとしてなかった?」
「あれは昨日の感謝の意味で……他意なんて……少ししか……」
徐々に彼女の声は萎んでいった。
からかい飽きたのか、大知は話を戻した。
「まあ、いいや。それよりもさっき言った通り、今日は君が感染した町の駅に行くから校門で待っててね」
「うん。わかったわ」
ほんのりと赤い顔をこくりと動かして頷いた。
「バグの原因は必ず突き止めないと」
和樹は同じバグが広がることに恐怖していた。怖がりだからではない。未香と同じタイプのバグが仮に数百人単位にまで汚染すれば、そこから生み出されるウィルスは計り知れない数だろう。そのウィルスの危険性が不明な点も不安要素である。
そんなウィルスが汚染者からアースネットワーク上に拡散した最悪の場合は、意識障害、部分的神経麻痺、全身麻痺などになることもあり得のだ。
――一刻も早く汚染元を根絶やしにしなければ!
開発者として、アース技術の危機を黙って見過ごすわけにはいかなかった。