最後の男
「中川さん。あなたは触ろうと思いながら見ていましたよね?」
質問をする若い制服姿の女を見ないように、中川速雄は必死に部屋の壁をみつめていた。
机に向かい合って何度同じ質問を投げかけられただろう。
駅長室の脇にある小部屋の入り口には、いかつい顔をしたスーツ姿の男が腕を組んで中川の動きを監視していた。女の胸には名札がつけられていた。
『北村沙智』
偶然にも娘と同じ名前だった。どこかその面影もあるこの女が鉄道警察隊で、おとりだったなんて夢にも思わなかった。昨年から警察官になって家を離れた娘の制服姿が頭に浮んだ。
頻発する電車内での痴漢迷惑行為を厳しく取り締まるため、女性を触ろうと思って見るだけで逮捕される特別措置法案が施行されていた。
「どうして触ろうと思っては見ていないと証明できるのですか?」
「たまたま目がいっただけだ。それだけで私が君の胸を触ろうと思っていたことになるのか?」
今は着替えて地味な制服を着ているが、北村は電車の中では大きく胸元の開いた服を着ていた。胸の奥には隠しカメラを仕込んでいたのだ。
「この鼻の下がのびた中川さんは、私の胸を触ろうと思っていないのですか?」
机に置かれた小さなモニター一杯に、鼻の穴を膨らませた間抜けな中年の顔が何度も再生された。
「触ろうと思っていない。見ようと思っただけだ」
もはや恥も外聞もない。とにかく触ろうと思っていなければいいだけだ。中川は画面の間抜けな自分に言い聞かせるように何度も同じ答弁を繰り返した。
一体触ろうと思っていることをどうやって証明することができるのだ。これまで〝視姦罪〟で有罪になった男たちは、きっとこうして根負けして認めたに違いない。
北村は深いため息をつきながら、椅子に深く腰掛けなおした。メガネに手をかけ真正面から中川をみすえた。中川は心が見透かされているように不安になり顔を伏せた。
もしここで認めて裁判になっても、味方になってくれる証言者がいれば無罪を勝ち取れるかもしれない。中川はその姿を懸命に想像した。
「父のことは聞かないでください」
ワイドショーのレポーターから逃げるように走り去る沙智は、それでなくとも家をはなれてからまともに口をきいてくれなくなっていた。危険な職業につくことをかたくなに反対したことを、まだ許してくれていないのだろうか?
すまない。
警官の父親が痴漢で捕まったなんてスキャンダルが広まれば、職場での居場所はなくなってしまうだろう。北村は中川をしっかり見続けていた。沙智もこうしてあやまちをおかそうとしてしまった人間と、毎日真摯に向き合っているのだろうか。
だめだ。
「中川さん。本当のことを言ってください」
北村はすごむように身を乗り出した。中川は顔をあげて目をつむった。まぶたの間から涙があふれそうになって鼻をすすった。北村の顔がさらに近づく気配がした。
「御願いします」
中川は大きく息を吸い込み、北村の目をしっかり見据えふりしぼるように答えた。
「確かに、触れればいいなとは思っていました」
床をける音がし、入り口に控えていた男が中川の前にたった。観念した中川は再び目を閉じた。腕をつかまれることはなかった。
男は頭をさげていた。
「御協力ありがとうございます」
北村も立ち上がって頭を下げた。
「本当に申し訳ございません」
二人は法律改正を目的とするNPO法人として活動していると言った。もし男性が女性をよこしまな目でみただけで拘束されるのであれば、女性の過度な露出を規制する法案が制定されるべきだと彼らは考えていた。今回の中川の行動と心理状態は、議員立法を働きかける論拠になるという。
「中川さんが変なことを考えていないのは目をみればわかりましたよ。こんなことで苦しみ、冤罪で逮捕される男性を中川さんで最後にします!」
北村の青い台詞に、中川はなんともいえなくなり笑いをかみ殺した。まだまだ経験の浅い警察官が言いそうな台詞だ。
「仕事はどうだ」と、娘の携帯に電話してみようと思った。