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「おかえり、紗英」
「……ただいま、兄さん」
自室のドアを開けると、部屋には1歳年上の兄、玲一郎の姿があった。艶のある黒髪を肩まで伸ばし、後ろで無造作に括っている。事件が無ければ退屈そうに目を細めている事が多く、その表情は酷く物憂げで退廃的だと言われている。しかし、一度事件が起きれば、爛々と目を輝かせて駆けて行く。大人びた部分と子供っぽい部分を持ち合わせ、そのギャップが良いと周囲のお姉様方から絶大な支持を集めている。
そんな見た目は貴公子のような玲一郎は、まるで自分の部屋のように私の部屋で寛いでいた。過去にも数度同じ事があり、予想はしていたが実際に目にするだけで感じる疲労度が余計に増す。家政婦の葉山さんもこの展開を予想していたのだろう。珈琲を2人分淹れて来てくれたので、テーブルの上に置いて貰った。ドアを閉め、葉山さんが遠退いたのを見計らって玲一郎は口を開いた。
「それでどうだった?」
「どうって言われても……疲れたかな」
砂糖もミルクのいつもの倍入れた。普段の私なら甘過ぎると言って顔を顰めるが、疲れた身にはちょうど良かった。内側から感じる温かさがじんわりと疲れた体に染み渡る。
「ほぅ。それは物凄い大事件だったのだろうな」
感歎のあまり玲一郎は息を吐いた。私に鼻を折られて以来、一流の探偵になるために学び続けて来た影響か、今では立派な推理オタクである。謎は難解であればあるほど面白いと語る玲一郎。老いて現役を退いた名探偵達に昔話をせがむ事も少なくなく、天才でありながら先達を敬う礼儀正しさを持つ少年と評されるようになった。ゲームの中では傲慢な性格ゆえに探偵協会から疎まれていたが、協会の上層部にも可愛がられている状態である。そんな玲一郎を私は老人キラーと呼んでいる。勿論、心の中だけだ。
「残念ながら事件自体は大した事は無いよ。ただ…」
「ただ?」
「厄介なのが居てね」
溜息を吐きながら、私は今回起きた事件を時系列順に話した。
事件初日。ホテルの予約客の約6割がいつまで経っても姿を現さなかった。チェックイン予定時間の2時間後、電話を掛けても使われていない電話番号だと音声が告げるのみ。酷い悪戯だと憤慨しながら支配人はその日眠りについた。
翌日。従業員の1人が勤務時間になっても姿を現さなかった。真面目な仕事振りが買われていたため、何かあったのではと他の従業員が部屋を確認しに行くが、鍵は掛けられたままだった。ノックをしても声を掛けても何も反応は無い。支配人がマスターキーで部屋を開けるが、そこには捲られたままの掛け布団以外に手掛かりらしいものは無かった。夜中にトイレに行った時に何かあったのではと考えられたが、トイレにもその姿はない。
宿泊客が居るので、厨房担当の者は朝食の仕度をして貰い、手の空いている従業員は居なくなった従業員の捜索をして貰った。皮肉な事に前日の悪戯で大量のキャンセルがあったため、従業員にかなりの余裕があった。捜索範囲も広げるが、その従業員はいつまで経っても見つからない。そんな時に宿泊客の1人が言った。
これは誘拐よ、と。
「それが親父の言っていた長谷目家の娘か。厄介なのはそいつか?」
「うん」
「長谷目家は代々目が良い探偵が多かったと聞く。そいつも目が良いのか?」
「良いってレベルじゃないね」
「そんなにか」
「あれはもう千里眼というレベルだ」
「……待て。厄介ってそういう意味か?」
その言葉に頷くと玲一郎は利き手で眉間の辺りを押さえた。
千里眼とは文字通り、千里の先も見通せる眼を指す。1里が約4キロ。千里ならば約4千キロである。それは常人の業では無く、透視とも呼ばれ超能力の部類とさせられる。もしこの力を持っていれば、犯人が犯行を行う瞬間をその目で見る事が出来るだろう。まだ行われていない犯行すら止める事も出来るかもしれない。
しかし、その言葉を信じる者が居るのだろうか。
「その子、長谷目律子は犯人もトリックも暴いたし、証拠も見つけた。犯人が誘拐した被害者達の場所も特定して助けたけれど、……疑われたのよね。1人で行動していたから」
「色々と不味いが、最後の奴が1番致命的だな」
頭を振って玲一郎は珈琲を飲む。
探偵協会の規定で探偵は行動する際、2人以上で行動するように定められている。この2人以上と言うのは、探偵同士である事が望ましいが、緊急事態の際は一般人でも構わない。共に行動する事でお互いのアリバイや不正が無かった事を証言するのだ。
長谷目律子は1人で捜査を行い、その結果、疑われた。私が依頼人と共に湯花島に来た時、既に彼女はホテルの一室に軟禁されていた。まさか『CALL ME』の主人公、長谷目律子が容疑者になっているとは思わなかったが、話を聞いて納得してしまった。
おそらく長谷目律子も私と同類だろう。
『CALL ME』をオールクリアした母上様曰く、このゲームは2周目以降から色々とショートカット出来るようになるのだ。例えば1周目だと、証拠品を手に入れるためにAさんから情報を貰った後、その情報をBさんに教える。すると別の情報を貰えるので、その情報をCさんに教える。するとフラグが全て立ち、証拠品が特定の場所に現れる。フラグを立てるまでは特定の場所に行っても証拠品は見つからない。
それが2周目だと情報を入手しなくても証拠品が手に入るのだ。攻略対象とのエンディングは何種類もあるものの、推理自体は何周やっても変わらない。同じ事の繰り返しなので、周回プレーヤーに恋愛要素を楽しんで貰うためにショートカットを作ったのでは無いかと母上様は推測していた。私なら攻略対象とのエンディング数を増やすよりも、毎回犯人やトリックが変わった方が嬉しい。
私にとってこの世界は未だに醒めない壮大な夢だが、叩かれたら痛いし傷を負えば血は流れる。ゲームを模しているが、超現実的な世界だ。情報を調べ終えるまで、証拠品が見つからない訳が無い。フラグなどこの世界に存在しないのだ。
ショートカットが出来る事を知り、何の疑いもせずに行ったのだろう。どうやって証拠品を見つけられたのか尋ねた際、長谷目律子は人から聞いたと答えた。その人物に尋ねても話していないと言われ、裏は1つも取れなかった。
幸い、長谷目律子に犯人だと言われた青年も別室に軟禁されていた。被害者達は全員部屋で寝ている時を狙われた。その中には体格の良い男もおり、部屋から監禁場所まで距離がある。意識の無い大男を小柄な長谷目律子に運べるだろうか。
そんな疑問が誘拐された本人から上がった。疑ってくれて本当に良かった。もし犯人である青年が自由に動き回れたら、証拠隠滅のために何をするのか予想出来ない。
青年が犯人なのか。何らかのトリックを使って長谷目律子が大男を運んだのか。それとも2人共犯人なのか。悩んでいたところに私が島に到着したのである。
大歓迎されたのは良いが、私のやる事はそう多くない。本来ならば誘拐された被害者達を助け出さなければならなかったが、既に長谷目律子が助けている。犯人もトリックも証拠も全て揃っている。私がやらなければいけないのは、長谷目律子が導き出した答えの裏付けだ。既に1度ゲームでプレイしているのだ。齟齬が生じないよう、順序良く組み立てて説明すれば、青年は犯行を認め、長谷目律子の無実は証明された。
その後が大変だった。
「折角助けてあげたのに!何で私を信じない訳!?軟禁とかありえないわよ!!」
長谷目律子が騒ぎ出したのである。
「捜査の際、探偵の単独行動は厳禁。基本中の基本です」
「他に探偵は居なかったのよ。何?足手纏いを連れて行けって言うの?」
「足手纏いではありません。我々探偵のアリバイや不正行為がなかったか証言してくれる貴重な存在です」
「ふん、良い子ちゃんぶって!」
鼻で笑う長谷目律子に、ゲームの主人公の面影はどこにもなかった。これでどうやって攻略対象を落とすのだろうか。猫を何重にも被るつもりかもしれないが、攻略対象は誰も彼も探偵ランクは高い。すぐにばれるのが目に見えていた。
「たかがCランク程度で威張らないでくれる?1つ上の兄にまったく勝てないくせに!!」
本人から聞き出す必要すらなかった。この長谷目律子は私と同類だ。ゲームと同じく私がランクCの探偵だと思ったのだろう。相手をするのも面倒臭いが、放って置く訳にもいかないだろう。単独行動をした探偵には厳しい罰則が定められている。探偵が見つけた場合、報告する義務があり、隠匿すると隠匿しようとした探偵まで罰せられるのだ。罰則など御免被る。
「聞いていればさっきから失礼だぞ、小娘!貴様のランクはいくつだ!!」
私が動く前に依頼人が先に怒りを爆発した。明らかに年長者、しかも迫力のある顔立ちの依頼人に叱られ、長谷目律子は怯んだ。
「い、今はランクFよ!仕方ないじゃない。パパもママも私に探偵の勉強をさせないんだから!!」
長谷目家が没落したのは、烏丸家の前当主である祖父が幼少の頃だと聞いている。没落してかなりの月日が経つ。口伝で伝えられた教えも、代々伝わる本も殆ど失われたのだろう。探偵としての教育を施せる環境が既に失われているのは間違いなかった。
「ここにいる烏丸先生は兄妹揃ってランクAになった実力者だ。ひよっこが貶めて良い相手では無いわ!」
「ら、ランクA!?」
「はっ、ようやく先生の凄さがわかったか!」
驚愕する長谷目律子に依頼人は勝ち誇ったように鷹揚に頷いてみせるが、おそらく彼女にランクAの凄さは伝わっていないのでは無いかと思った。あれはそう、知っている内容が違う事に驚いている。そんな顔だ。
長谷目律子が困惑している隙に、今回の件を探偵協会への報告する事を告げる。告げ口したと後から絡まれそうだが、罰則を受ける事に比べたら些事である。
「災難だったな」
「まったくだよ」
労わりの言葉を掛ける玲一郎に苦笑いで返す。僅かな時間だったが大変だった。出来る事なら2度と会いたくないが、ゲーム同様に進学先はおそらく一緒だろう。私立九里香高等学校。変わった名前だと思って調べたら、九里香とは金木犀の事だった。金木犀の花言葉は真実。多くの探偵が学び舎にした高校に相応しい名前だと思う。
ふと気になったが、長谷目律子は高校に入ったら何をするのだろう。あのゲームで主人公は、攻略対象の誰かと恋に落ちなければ最後の事件を解決出来ない仕様だ。『CALL ME』のサブタイトルは『ピンチの時には俺を呼べ』である。サブタイトルの通り、最後の事件で主人公は終盤、絶体絶命のピンチに陥る。誰かと恋に落ちていればその相手が助けてくれるが、相手がいない場合にはそのまま強制的にバッドエンドに突入するのである。私が唯一見たエンディングだ。
ゲームと同じ展開を繰り広げるつもりならば、長谷目順子は間違いなく攻略対象に接近するだろう。そうでなければ命の危機である。しかし、この長谷目律子は攻略対象と恋をする気があるのだろうか。色々と言われたが、私はゲームではサポート役だった。ゲーム内に限って言うならば、仲良くしておいて損は無い存在である。ゲームの感覚から抜け切れない長谷目律子が最初から私に喧嘩を売って来た理由がわからない。答えは合っていたけれどやり方を間違えて軟禁され、その怒りのあまり私に八つ当たりしたのならばそれまでの話だが。
高校に入学したら嫌でもわかるだろうと結論付けて、これ以上この件について考える事をやめた。探偵にとって油断や慢心は取り返しの付かないミスに繋がると幼少期から叩き込まれている身だが、この件に関しては考えれば考えるほど不毛だと思うのである。
「面倒な事にならなければ良いな」
「いや、もう会わないだろ?……会わないよな?」
私がもう会う事も無い人間に対して長々と悩む事は無い。それを知っている玲一郎がわざわざ繰り返し聞き直したのは、願望に他ならない。
「残念ながら九里香に来る可能性が非常に高い」
ゲームでは九里香高校に入る代わりに、両親に卒業旅行を許して貰った筈だ。親友と同じ高校に通うのであれば、旅行に行く事も今回の事件に巻き込まれる事も無かっただろう。
「…勘弁しろよ。探偵ランク取っている時点で、確実に探偵部に来る気だろ。あ、お前は絶対に入部しろよ。しなかったら強制的に入れるからな」
「何でそんな必死なのさ。そんなに言わなくても元々入部する予定だよ。あ、私も入部試験受けた方が良い?」
「探偵ランクAのお前に誰が入部試験作るんだよ?……あ、俺か」
「難しいのを期待しとくよ」
「任せておけ。凄い力作を叩きつけてやる」
途端にやる気を出した玲一郎は不敵な笑みを浮かべると、私の髪を乱雑に撫でて部屋を出て行った。今から私の入部試験の問題を作成するつもりなのだろう。かなりの力作が用意されるに違いない。玲一郎ほどでは無いが、私も立派な推理マニアだ。どんな問題が出るのか今から楽しみだった
母上様と書いていますが、実際の『私』は実の母親に対して母上様と呼んでいません。烏丸紗英になった夢を見るようになってから、何とかこちら側でもやってこれたのはゲームをオールクリアしてアレコレ教えた母親のお陰です。その事に対する敬意と、こちら側には烏丸紗英の母親という別の母親も存在しているので、区別するために母上様と呼んでいます。