真夜中の追跡劇
――信号、信号、信号。
身体を震わす感覚にルーシーの上半身が跳ね起きる。
……来た、と目を閉じて自分が呼び出した幻獣を念じ、意識を接続する。目蓋の裏を映す視界からハマヌーンが持つ視界へ。視界は瞬時に切り替わり、室外の薄闇を捉える。
視界の右側には闇に蠢く林が鬱蒼と広がり、左側には住宅街が整然と街を形作っていた。ハマヌーンは木の上に身を隠し、へヴィサイド家の庭と林の境界を注視している。庭は草一本生えずによく手入れされているが、木々が乱立し始める林の入り口付近は背の短い草が生い茂っていた。
その境界線を越えようとするモノがいた。二つの赤い光ととも前足が踏み入れられる。夜雲の切れ目から覗く三日月の薄ぼんやりとした光の下、姿を現したのは三角形の耳を立てた狼のような犬。シェパードだ。
犬はうなったり吠えたりすることなく、家の二階を見上げている。ハマヌーンもつられてそちらに顔を向けるとへヴィサイド家のベランダを視ることができた。だが、鎧戸が閉められており、室内を窺うことはできない。おそらくはそこがテレンスの部屋なのだろう。
ハマヌーンが視界を裏庭に戻す。いつの間にか赤い光は増えており、ぱっと認識できるだけでも十は越えているようだった。
目だ。
赤い光は犬たちが発する眼光である。ならば、すでに最低でも五匹の犬がいることになる。
増えた。二個の赤い光が追加される。
また増えた。これで二匹の増加だ。
まただ。さらに一匹追加。
また。十四匹以上に。
これで全部とは思えない。まだ林の中に潜んでいる可能性がある。
赤い目の犬たちはただ黙々とテレンスの部屋を睨むように見つめていた。そこにルルがいることが分かっているのだろう。
……何のために?
ルーシーの脳裏に疑問が浮かぶが答えはやってこない。
やがて、どれくらいそこにいたのか犬たちは踵を返して林の中に戻っていく。
《……追って。あの子たちに見つからないように》
ハマヌーンに指示を出すとルーシーは一度視界を自分のものに戻し、そのまま仰向けに倒れる。
見つかりそうになったら、強制送還せざるを得ない。彼らに警戒されては今後の捜索に支障をきたす恐れがあるからだ。向こうは自分たちの活動が露見していることに気づいていない。しかし、ルーシーたちは知っている。これは些細だが重要なアドバンテージだ。対処方法の幅が広がることも含めて大きな意義がある。
そして再びハマヌーンの視界に切り替えると……酔った。やはりハマヌーンは猿らしく木から木へ飛び移って移動するのだが、そのために視界が激しく上下するのだ。結果、人並みの三半規管の持ち主である彼女の胃にも影響し、有り体に言えば、気持ち悪くなるのだった。夕食に食べたシチューとパンが溶岩のように溶け合い、噴火の準備を始めているようでもある。
「ううぅ、激しすぎるよ……」
ルーシーは胃の辺りを手で抑えてうめく。
ハマヌーンは勢いを緩めることなく、尻尾で枝をつかんで一回転というアクロバティックな動きを見せるが、召喚主に対する配慮は一切見せることなく絶好調のままに犬たちを追っている。
林を抜けると住宅街に出た。ハマヌーンも雨管や排水管をよじ登って屋根の上に出て、路地を走る犬の集団を遠目に確認する。
《ハマヌーン、風で臭いを隠して》
ハマヌーンがルーシーの言葉通りに尻尾を使って風を起こし、自身の周囲に纏わせる。これで臭いが犬たちに届くことはない。猿の嗅覚がどれほどかはわからないが、少なくとも犬以下なのは間違いないだろう。
犬たちは入り組んだ路地を過ぎると集合住宅が並ぶ通りをおそらくだが北の方に向かって走る。ハマヌーンは飛び跳ねるように屋根の上を走り、屋根から屋根へ飛び移りつつも一定の距離を保つ。風の纏いは臭いを隠すだけではなく着地の音も消し去ってくれるらしく、犬たちがハマヌーンに気付いた様子はなかった。
やがて集合住宅階を抜けると低所得者が多く住むアヴァター地区が現れる。廃材置き場や憩いの広場、工場などが左右に見える。それらを通り過ぎるのはイーストエリアから出ることと等しい。黒々とした森林が大部分を占めるノースエリアに入るのだ。
《止まって》
ルーシーの指示に、ハマヌーンはイーストエリアの端に位置する工場の屋根から円い煙突の上に跳躍する。地面から約二〇メートル、屋根からは一〇メートルほどの高さの円柱形の煙突だ。ただの跳躍では不可能なたため、風を操り自分の身体を押し上げる。ふわりと舞い上がり、バランスを崩すことなくハマヌーンは着地した。すべてを飲み込みそうな穴が足元にある。
犬たちは畑がある農園地帯の農道をまっすぐに駆け抜けていき、森の中に消えて行く。
そこは、北の森。
奥に進めば進むほど迷いやすくなり、また危険な魔獣が跋扈する魔の森である。自分の力を試したい戦士や秘薬の材料を手に入れたい魔術師以外は足を踏み入れることの少ない危険地帯でもあった。
「……今日はここまでかな」
再び意識を自分の身体に戻し、ルーシーは呟く。北の森に入ったということは間違いなく魔獣が絡んでいる。そんなところに夜に入るには危険すぎる。行くのは召喚獣だからという問題ではない。何が起こるかわからないのが最大の問題なの……だ……。
「うう、気持ち悪い……」
込み上げてくる嘔吐感に堪え、ルーシーは大きく息を吸う。
……吸ってー、吐いてー。おえっ。
精神的にはもちろんのこと肉体的にも限界であった。
《ハマヌーン、戻っていいよ。今日はありがとう》
ウキッ、という声が脳内に響き、ルーシーは額に脂汗をにじませながら起動用語を唱える。
「……幻獣送還」
ハマヌーンの気配が消え、ぷつりと接続が途絶える。幾分か心が軽くなったようだ。
……次呼び出した時に果物でも贈ろうかな。
召喚獣への労いなど召喚師らしくないな、と自虐しつつもルーシーは呼吸を整える。
「今度こそ、おやすみなさい……」
今はただ心身を休めたかった。明日は忙しくなりそうだし、消費した魔力の回復にも努めたい。
就寝の挨拶は闇に消え、乱れていた呼吸もやがて規則正しく収束していくのだった。
○●○●○●○●
犬探し三日目――午前。
週の安息日である今日は学院でも授業が行われることはなく、生徒や学生は娯楽や休養、労働など各々の休日を勤しんでいた。街には活気が溢れ、ショッピングに繰り出した学徒たちをトリコにしようと商売人たちが各自の店で躍起になっている。
そんなカルポ通りを迂回し、住宅街の中を通ってルーシーとジュウベエは昨夜の出来事を伝えようとテレンスが住むヘヴィサイド家へと向かっていた。でないと誘惑されてしまい、なかなか目的地に辿り着けないからである。
「うう、雑貨屋『ハンニバル』で月に一度のぬいぐるみセール……うう、でもっ、でもっ!」
「くっ、今日は『苺の木』で新作ケーキの限定発売でござったが……しかしっ! しかしィ!」
二人はそれぞれの誘惑を振り払うように足早にテレンスのもとへと急いでいた。でないと陥落してしまい、踵を返してしまいそうになるからである。
「ふう、どうにか誘惑に打ち勝ったでござる……」
「来月こそ……」
無事テレンスの家へ着いた二人だが、それぞれ思うところは別々のようだった。小さく気合いを入れ直したルーシーはコンクリートで造られたアプローチを歩き、安堵するジュウベエを連れて玄関の前まで進む。
「ルーシー殿、昨日も感じたことでござるが、この家は他の家とどこか雰囲気が違うでござる」
庭を見回しながらジュウベエが不思議そうに言う。
つられてルーシーも庭を見回し、納得した顔で振り返った。
「私も建築に関してはよくわからないんだけど、たぶん、大陸で流行ってるタイプのだからだと思う」
二階建ての庭付き一軒家で、塀や柵を持たないオープン外構タイプだ。家の正面の庭には芝生が敷かれ、赤いポストがアプローチの中ほどに設けられている。本土で生まれたこの新しいタイプの住宅は最近になってアレスタ島でも増えてきており、開放的な印象を与える造りとして中産階級の若い人々の間で人気を獲得し始めていた。
「家も新しいし、テレンスくんのお家は引っ越してきたばかりなのかも」
「ほう、博識でござるな。さすがルーシー殿」
「えへへ、それほどでも……」
はにかんだ笑みで緑色ドアの左横に備え付けられた玄関ベルを鳴らそうとするルーシーの手が止まる。ゆっくりと振り返り、困ったような笑みを浮かべていた。
「ルーシー殿?」
「ご両親が出られたらどうしよう……?」
「…………」
ルーシーが見せた不安にジュウベエは目を閉じて何事か考え、決心したように目を開ける。
「御免!」
「あ……」
ルーシーの驚きの先、ジュウベエが腕を伸ばして本体につながる紐の先端にあるベルの取っ手をつかんでいた。そのまま下に引っ張り、来客を告げるベルが金属音を鳴らす。耳に優しく軽やかな音色だ。おそらく音術師による調整が行われているのだろう。……じゃなくて!
「ジュウベエくん!?」
「抗議は後で聞くでござる。ほらほら、足音がこちらに向かって来てるでござる」
涼しげな顔で聞き流すジュウベエにルーシーは何か言いたげな顔をするが、家の人がこちらに来ているらしく慌ててドアに向き直る。
ジュウベエの言葉通り、すぐにドアが開いた。
「どちらさまでしょうか?」
来客の顔を確認することなくドアを開けたことにルーシーは不用心かなと思うが、それもすぐに吹き飛ぶ。顔を出した相手がテレンスではなく自分より十年ほど年上の女性だったからだ。
「あ、ああああああの、わ、わたくし、ザラス、シュ、シュトラ魔術学院の、ル、ルーシー・ローレルと申しますです、はい。テ、テレンスくんはいらっしゃいますでしょうか?」
「テレンスなら留守にしてますけど……あの子が何か?」
訝しげに問われ、ルーシーはどう答えようか迷ったものの、話せることは正直に話すことにした。声が震えないように息を吸い、拳を握る。
「じ、実は、一昨日テレンスくんからルルちゃんを守ってほしいと頼まれまして、今日はその、様子を見に来たのですが……」
「あ、そうなのですか。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
「いっいえ、魔術師としてやれることをやっているだけですから」
依頼のこと、行方不明の犬が増えていること、この家に多数の犬が現れたこと、北の森が関わっていること。これらを隠してルーシーは会話を交わす。なるべく心配はかけたくないし、余計なことは言わないほうがいいだろうという判断だ。
「それで、ルルちゃんは……?」
テレンスが留守にしていることを聞かされ、ルーシーがおそるおそる尋ねる。
「ルルなら、逃げ出してしまって、先ほど……三十分前ぐらいテレンスが捕まえに行きましたが」
「逃げ出す? ルルちゃん、逃げ出すことがあるんですか?」
「いえ、初めてです。散歩から帰ってきて、おやつをあげる際に逃げ出したみたいです」
ルーシーはもしや、と眉をゆがめた。
女性は困ったように頬に手を当てる。
「……私たち、先日引っ越してきたばかりで、テレンスが友達がいないと寂しいと思ってルルを飼うことにしたんです。それだけあの子にとっては大切な存在で、だからそのようなことを頼んだのでしょう」
あの怯えようは、赤い目の犬たちを見たことそのもの対するものではない。
奪われること、失うこと、また友達がいなくなることに対する恐れから来ているのだ。友達と別れ、まったく新しい土地に引っ越してきたテレンスにとってルルは寂しさを埋める新たな友達。寂しさが漏れないように詰めた、かけがえのない存在。だから神経質なほど気にしていたのだろう。
寂しい思いを二度と繰り返さないために。
「……私たちも探してきます。どうもありがとうございました」
頭を下げ、女性の応答を見ることなくルーシーはアプローチをすばやく進む。ジュウベエも頭を下げ終えるとルーシーに追従し、アプローチを通る。
「急ごう、北の森へ」
目的地を声にして、ルーシーは駆け出す。テレンスは三十分ほど前に家を出たという。子供の足だと今頃はおそらく低所得者が住まうアヴァター地区辺り。いや、走ってだとイーストエリアとノースエリアの境ぐらいだろうか。どちらにしろ急を要することは間違いない。
「間に合うといいんだけど……」
希望をを呟くと後ろでジュウベエが頷く気配がする。彼も北の森の危険性は充分に理解している。身を守る術を持たない一般人が入るとどうなることか。ルルが北の森に入った場合、テレンスはルルを追って間違いなくそこに飛び込むことだろう。
「お願い、どうか……」
ルーシーは願うが、はたして――
○●○●○●○●
結論から言って、ルーシーの願い通り、テレンスとルルは北の森には入っていなかった。しかも、テレンスはどうにかルルの確保に成功さえしていた。ルルは自分の身体を無我夢中で振り回してテレンスからの脱出を図ろうとしているが、テレンスは一生懸命に自分の飼い犬のわきをつかんで押さえ込んでいた。
場所は北の森へと続く農道の半ば。左右を畑の連なりに挟まれたこの地点で辛うじて捕まえることができたのは、ルーシーも気づかなかったとあるアイテムが関わってくる。
そのアイテムとは、この島では珍しい自転車である。
歩く、走る、馬車、船が一般的な移動手段であるこの島においては考え付かないのは無理はない。しかし、本土から引っ越してきたテレンスにとっては当たり前の移動手段であった。また、テレンスがルルに接近できたのはアヴァター地区に入った後である。捕獲場所が農道になったのは、自転車に乗りながらの捕獲が困難なため農道に入ってすぐに自転車を乗り捨て、それから走ってルルを捕まえたからだった。
「さあ帰るよ、ルル。大人しくして」
暴れるルルに手を焼きながらもテレンスは自転車に戻ろうとする。片手でルルを抱え、もう片方の手で自転車を押して行けばなんとかなりそうだ。……『昨夜』のこともあるが、とりあえずはこれでひとまず安心、と心を緩めたときだった。
低く轟くうなり声が響いてきたのだ。まるで獰猛な肉食獣が発するような警戒と威嚇の声。それは自分の腕の中から発せられていた。
「あ」
テレンスの口から短く声が漏れる。驚きと事態に対する戸惑い。その二つが混ざり合ったものが声として外に出てしまった。……あの犬たちと同じだ! うなり声はルルから続く。いつの間にか、目が淡く、赤い光に染まってしまったルルから。
「痛っ!」
呆然としていたテレンスを瞬時に我に返らせたのは指先に入る鋭い痛みだった。小さく穴がうがたれ、そこから血が漏れ出ている。これがいけなかった。痛みを受け、彼が反射的に手を引っ込めたのだ。結果、腕の中からルルが地面に落ちる。
「ルル!」
着地に失敗することなくルルは四本足で地面に降り立つと農道を森に向けて一直線に駆け出していく。その後ろ姿をテレンスは慌てて追いかける。今の彼に森に対する恐怖はなかった。外来人であり、森への恐怖に疎かったこともあるが今はただルルを放したくなかったのだ。
「ルル! 待ってよ!」
叫びは受け入れられることなく森に吸い込まれ、一人と一匹はそのまま森の中へと入っていく。そこは魔獣が繰り広げる死の世界。力無き者が訪れることのない魔の森。
通称、北の森。