少女の憂鬱
アレスタ島イーストエリア――市場賑わうカルポ通り。
島最大の港であるブリゾ港から続くこの通りは、小洒落た飲食店や若年層向けの衣料品店が軒を連ねる若者向けの通りとして島の内外で名をはせていた。平日ということもあってか今日は普段より人が少ない。学院所属の魔術師や若い一般の女性客などがちらほらとまばらに視認できる程度であった。
「浮かない顔でござるな」
石畳の路をあくまで従者としてルーシーの半歩後ろを黒のショートブーツで歩きながら、同じく黒のハオリとハカマを着たジュウベエはショーウィンドウを眺めつつ話しかけた。
「うん、そんなこと……」
ルーシーは歩みを止め、彼の方へ軽く振り返る。視線はわずかに彼の顔を見つめ、また前を向く。
彼はじっとこちらを見ていた。様子を窺うような笑みの消えた顔。彼の言葉を否定しようとしてルーシーは言葉を続けようとするが、
「……あるかも」
言葉は否定とならず肯定となる。彼は人の心の機微に聡いのだ。否定したとしたところで意味を成さないだろう。ルーシーは白いレンガ造りの建物――ブティックの壁に背を預け、顔をうつむかせた。
「ジュウベエくん、聞いてくれる?」
「ああ、聞いてるでござる」
髪に隠れたルーシーの横顔をジュウベエが無言で見遣る。彼なら茶化すことなく真剣に聞いてくれるだろう。その後に何と言うか。怖くもあるが今はただ彼に自分の思いを聞いてほしかった。
「さっき、スビサさんに『よろしくお願いしますね』と言われたのに、私、すぐに頷くことができなかった」
あの言葉を聞いて最初に浮かんだ感情は躊躇い、そして恐怖。
「私、怖かったの。もし飼い犬を見つけることができなかったら責められるんじゃないかって、スビサさんががっかりするんじゃないかって、そう思ったら何も言えなかったの」
肯定しても否定してもあの人を傷つけることになる。だから沈黙した。肯定でも否定でもない言葉を探そうとして、結局は言葉を失ったのだ。
「ずるいよね。ずるくて臆病者だよね。言葉の責任をジュウベエくんに負わせて逃げようとしたんだから」
あのとき、嘘でもいいから大丈夫と安心させるべきだったのだ。絶対に見つかると勇気付けるべきだったのだ。人々を幸福へと導くの魔術師の役割なのに、なんて恥ずべき行いなのだろう。
「ジュウベエくんみたいに応じることができなかった。勇気が出なかったの。きっと、自分を信じられなかったんだと思う」
ただの犬探しとどこかで楽観視していた。依頼主の依頼にかける思いを軽視して、人見知りの自分にもできると浮かれていた。その傲慢さが依頼主を傷つけるというのに……。しかるに、なんという愚かしさだ。
「私、魔術師失格だね」
言葉とともにルーシーは乳白色のローブを脱いだ。胸の位置にあった校章が日の光をかすかに反射するがすぐに影に飲み込まれ、穢れ無き白さは宙に翻ると持ち主の腕に二つ折りでかけられた。
ローブの下はブラウスに膝上の黒のスカートだ。魔術学院の校章が見えない自分はきっとただの学生にしか見えないことだろう。それでいい。それぐらいでいい。実に身の丈にあっている。
ネガティブな思考であることを認識し、それに苦笑とため息を与えてルーシーは壁から背を離すと行き先へと身体を向ける。……あれ、どこに行くんだろう?
「ルーシー殿……」
背中にかかる声はおそるおそるといった慎重な声音だった。言うべきではないという思いを念頭に置いた躊躇いを含んだ声。ジュウベエが何を伝えようとするのか気になって振り返る。呆れか叱咤か、はたまた侮蔑か。
怖い。
だが自分にはその言葉を聞く義務がある。それが思いを聞いてほしいと頼んだ自分の責任なのだ。
ジュウベエは顔を少しばかり赤くしてそっぽを向き、声を潜めて告げた。
「胸当てが透けて見えてるでござる……」
「えっ」
彼の指摘にルーシーは思わず背中に手を当て、言葉の意味――胸当てが意味するものを完全に理解するとそれから一気に顔を赤らめさせた。頬には茹で上がった蛸のように朱が差しており、まるで湯気が上がっているかのようだった。
何か、何か隠すもの……と辺りを慌てて見回してうろたえるルーシーにジュウベエは彼女の腕にかかるローブを指差す。
「それを着るでござる」
恥ずかしさから声を発することなく黙ったままルーシーはローブに袖を通した。着慣れたとは言いがたい感触に黙々と裾を正していく。
「やはりルーシー殿にはその姿が一番似合うでござる」
「…………」
カッカッカッというジュウベエの快活な笑い声を口をへの字に曲げたまま聞きながら進路に目をやる。すると、ブティックの隣にある店の窓に貼り紙が見えた。入口にサボテンの鉢植えを置いたアクサセリーショップだ。
「これ……」
窓際に駆け寄り、改めて貼り紙を見るとそこには紙の上半分に犬の絵といくつかの文章が描かれていた。
「犬探しの貼り紙でござるな」
字を読めないジュウベエだが今回の依頼の発端となった貼り紙と似たようなレイアウトなので犬探しの貼り紙と推察できたのだろう。犬のイラストを眺め、「胴長でござる……」などと呟いている。
「ダックスフンドという犬種なの」
物珍しそうにイラストを見つめるジュウベエに解説し、ルーシーは貼り紙の文章を確認する。
「『ダックスフンドのダレス、雄、4歳。ポッカ公園で散歩中に突然走り出して行きました……』」
描かれているのは名前などの犬の情報といなくなった状況、そして飼い主の住所だ。ポッカ公園ならルーシーも知っている。針葉樹に囲まれた憩いの場。園の周を巡る散歩道。色を失う冬の時期になると落ち着いた雰囲気になりルーシーにとっては数少ないお気に入りの公園だった。
「この子は一昨日いなくなったみたい」
日付からそう判断してジュウベエの方を向くと彼は対面にある店の方に視線を向けていた。ポップな看板にカラフルな文字。屋台型のクレープ屋だ。カウンターの上に置かれた小さな黒板には本日のおすすめとしてチョークで『アプリコットクレープ』が描かれていた。
……食べたいのかな。
ブシドーブシドー言うジュウベエだが意外と甘いものには弱いらしく、気付けば目で追っていることもしばしば。そのたびにルーシーが指摘するが「拙者が好きなのは苦みのきいたマッ茶でござる」と言い張って断固として認めようとしないのであった。
熱心に見つめる彼の様子が可笑しくてルーシーはクスッと笑ってしまう。
「ジュウベエくん、クレープ食べたいの?」
「いや、それもあるでござるが……」
自分の発言にハタと気付き、ジュウベエはわざとらしく咳をして言い直した。
「いや、そんなことはなく、あれ……」
ジュウベエが指差すのはクレープ屋はクレープ屋でも屋台の角の柱に貼られた貼り紙だった。ここからは5メートルほどの距離があり、ルーシーの目では描かれている内容までは確認することができなかった。
「何の貼り紙なの? ……まさか」
訪れた予感。ジュウベエは淡々と告げる。
「どうやら犬探しの貼り紙のようでござる。白い肌に黒の斑模様がある犬が描かれてるでござる」
「イメージはできるんだけど、え~と、なんていう犬種だったかな」
頭をひねって思い出そうとするが残念ながらすぐには頭に浮かんではこなかった。
「というか、ジュウベエくんって目いいよね。視力どのくらいなの?」
「さあ、測ったことがないからわからないでござる」
などとジュウベエ本人は言うが、人並み外れてるんだろうなあとルーシーは推測する。
「ところでルーシー殿、こちらではよく飼い犬がいなくなるものなのでござるか?」
「んー、どうかなあ。時々貼り紙を見かけたりしたけど、こう連続して見つけるのは珍しいかな」
「そうでござるか」
ジュウベエが納得したところでぼふっと何かが彼の足に当たった。十歳ぐらいの髪の短い男の子だ。ジュウベエはすぐさまよろめくその男の子の背を支え、尻もちをつきそうになるのを防ぐ。
「すまない。ケガはないか?」
「うん、大丈夫……」
男の子は頷き、そのまま目線を自身の胸の方に向けた。そこには一匹の白い子犬が腕に抱かれていた。
「あ、かわいい……」
子犬を見て思わず呟くルーシー。どんな動物も小さい時はかわいいらしいが中でも子犬のかわいさは特別である。そんな彼女の呟きを聞き取り、彼女を見た男の子が急に声を上げた。
「お姉さん、もしかして魔じゅちゅち--!」
『…………』
舌を噛んだのだろう、男の子はぐっと口を閉じ涙が流れそうになるのをこらえていた。
「落ち着いたでござるか?」
ジュウベエの問いかけに頷き、男の子はもう一度ルーシーを見上げる。
「お姉さん、魔術師?」
「そっそそそうだよ、うううううううぅ……」
「ルーシー殿が落ち着くでござる!」
ルーシーは白目になりかけるがジュウベエに肩をつかまれて激しくゆさぶられると脳がシェイクされてお花畑が見えそうになった。
「大丈夫、大丈夫。相手は子供。大丈夫……」
「そう、子供でござる。ルーシー殿を害する者ではないでござる」
「嗤ったり哂ったりしないかな……?」
「笑ったりしないでござる。少年、そうであろう?」
突然話を振られ、ルーシーの変化に驚いていた男の子の肩がびくっと震えるがジュウベエの力強い目に押されたのか「う、うん……」と引き気味に頷いていた。
それからルーシーが正気に戻るまで約一分。
「そっそれで、私は魔術学院の魔術師だけど何か用なのかな?」
「……ルーシー殿、その言葉は拙者の後ろに隠れて言うものではないでござる」
ジュウベエを盾にするようにして彼の後ろに隠れ、顔を半分ほど出してルーシーは問う。彼の腕をつかむ手が震えていて完全に落ち着いたとは言い難いようであった。
「うん、あの、ルルを守ってほしいんだ」
男の子の言葉に、ルーシーとジュウベエは思わず顔を見合わせる。何せ「守る」というのは危害を加えるものがいて初めて成り立つ行動だからだ。この子犬に危害を加えようとするものが何なのか、二人には見当もつかなかった。
男の子が子犬を二人に見せるように抱え直して続ける。
「こいつ、ルルって言うんだけど、最近他の家の犬がよく行方不明になってて、そのうちルルもいなくなってしまうんじゃないかって……」
どうやら男の子も飼い犬の失踪が増えていることに気付いているらしい。それで自分の家の犬も行方不明にならないかと心配しているようだった。
「しっかり目を離さないでいれば大丈夫だと思うが……見たところ室内で飼っているのであろう?」
「うん、そうなんだけど……」
男の子は顔を下げ、わずかに逡巡してから顔を上げた。
「最初にいなくなったのはロキという大きな犬で、次にいなくなったのは中くらいのフィロウ、そして一昨日、ダレスという小さな犬がいなくなったんだ」
ロキとフィロウという名に聞き覚えはないがダレスは聞いたばかりの名前だ。貼り紙によれば確か4歳になる雄の小型犬だ。
「ダレスってダックスフンドの……?」
「そうだよ。ルルと遊んだこともあるんだ」
ここまで来て男の子の言いたいことがわかった。なぜルルを守ってほしいと願い出たのか。
「近所の犬が大きい順にいなくなってるから、次はルルちゃんの番だと思ったんだね?」
「うん……」
不安げに男の子は首を振った。
実に子供らしい単純な推理だ。大雑把に論理的。ゆえにあらゆることに当てはまる。大人ほど先入観や固定観念ができあがっていないため、ある意味で気付きやすいのだろう。
「お母さんに話しても単なる偶然と言われるし、いなくなった犬の中には誘拐と言われてる犬もいるし、どうやってルルを守ったらいいのかわからなくて……」
「…………」
誘拐された犬。
べスのことだろうか。それとも他にそういう犬がいるのだろうか。
「誘拐された犬ってべスのこと? スビサさんの家の」
「名前まではわからないけど、誘拐された犬がいるってのは聞いたことがあるんだ」
そのように答え、男の子はルルをぎゅっと抱きしめる。腕の中のルルはぺろりと男の子の手を舐めた。
そんな犬の所作を微笑ましく思いつつも顔は険しさを保ったまま、ルーシーは鞄からべスのイラストが描かれた紙を取り出すと男の子に広げて見せた。
「これ、そのべスって子なんだけど最近見てないかな?」
男の子はじっとイラストを見つめるが、思い当たる犬は脳内にいないらしく頭を左右に振る。
「見たこと、ないと思う」
「そっか、ありがとう」
紙を鞄に戻して男の子に告げる。とりあえずは現実的な対応として、
「このお兄さんが言ったように、なるべく目を離さないのが一番だけど、学校とかあるし難しいよね。外に連れ出すのも避けた方がいいんじゃないかな」
思いつくままに対処を述べるが、自分でも嘲笑いたくなるほどに誰にでも思いつくことだった。魔術師の意見とは到底思えない。現に、男の子の表情は釈然としないことを如実に表していた。そのことに罪悪を感じながらもルーシーはかがんで男の子と目線を合わせた。
だからせめて――
「君、お名前は?」
「テレンス。テレンス・ヘヴィサイド」
だったらせめて、この言葉を送ろうと思う。
「テレンスくんに六芒星の導きがありますように」
そう祈り、ルーシーはジュウベエとともにその場をあとにした。
祈るだけなら誰でもできる。それでも、そうせずにはいられなかったから……。
翌日。
午後の授業もつつがなく終わり、ルーシーとジュウベエはイーストエリアへと足を運んだ。学院があるサウスエリアからは徒歩で四十五分。馬車を使えば十五分の距離だ。自転車があれば二十分ほどでイーストエリアへの中央に着くことができる。
自転車。
大陸本土のとある錬金術師が開発した新世代の乗り物である。主に二つの車輪と棒状のハンドル、漕ぐためのペダル、サドルという鞍から構成され、馬みたいに世話が必要なわけでも馬車ほど値段が高いわけでもなく、また少し練習すれば誰でも乗れるようになることを利点に一人用の乗り物として急速に普及しつつあった。それでも本土から離れたこのアレスタ島に入ってくることは滅多になく、普及にはもう少し年単位で時間がかかることだろう。島民が欲しいと思ってもすぐに手に入る代物ではないことは確かである。
「結局、昨日は目撃情報無しか……」
「捜索を開始したのは昨日の今日でござるからな。そう気を落とすことはないでござる」
あれからべスがよく行く散歩コースをめぐり、他の公園などにも行ってみたが有力な情報を得ることはできなかった。また、飼い犬の行方不明が増えていることについてもどことなく気付いている雰囲気はあるものの単なる偶然と捉えている人がほとんどのようであった。
――そういうこともあるだろう。
心配はするがどこか他人事のような島民の雰囲気に、ルーシーの足も自然と重くなるのだった。
「人と話すときは目を見て話す。人を話すときは目を見て話す……」
ぶつぶつと自分に言い聞かせるように呟いてから、ルーシーは公園の入り口にある園名が掘られた柱から中を覗き込む。ここは緑の芝生がまぶしいニコール公園。依頼主の住居があるゼブル地区の隣、ルボー地区内の緑地である。園内には散歩中の犬と飼い主が四五組ほど見られ、聞き込みの絶好のチャンスであった。
「一対一ではそれなりに話せるようにはなったでござるが……」
ルーシーの背中を心配そうに見つめるジュウベエ。
ルーシーという少女は相手が子供だろうと大人だろう初対面の人と話すのを苦手とする。だが、それなりに打ち解けてしまえば他の人のように気兼ねなく話せるようになるのだ。それはルーシーが話しているうちに魔術師としての仮面を被るからだった。
ただの少女ルーシーから魔術師ルーシーへ。仮面は相手が年下であればあるほど、人数は少なければ少ないほど被りやすくなる。仮面を被ることで人見知りや対人恐怖症という性質を無理やり塗り潰しているといえた。魔術師であることを自分を保つ拠り所としてだ。
立ったまま談笑する飼い主の一団に話しかけようと機械を窺うルーシーの姿にジュウベエは、
「いきなり五人を相手に話しかけるのは無謀なのでは……」
ため息をつきたくなる衝動を抑えつつ、事の推移を見守っているようだった。
「よし、行こう」
ルーシーは括った腹に力を込め、一団に目掛けて一歩を踏み出す。右足、そして右手が同時に動いた。
「『難波歩き』でござるか……まさかこちらで見ることができるとは思わなかったでござる」
難波歩き。
それは右手と右足、左手の左足がそれぞれ同時に動く疲れにくい歩行方法のことだ。ジュウベエの故郷では一部の武芸者が使用していた体術の一種であった。
「あの……」
控え目な声にゆっくりと前進するルーシーの背中を見ていたジュウベエが振り向けば、つば付きの帽子を被ったテレンスがいた。昨日とは違い、腕の中にルルの姿はない。テレンス自身の様子も少し異なり、どこか怯えの傾向が見受けられるようだった。そのことに最悪の事態を想定し、ジュウベエはギクシャクと絡繰人形のように歩いているルーシーを呼び戻した。
○●○●○●○●
「ルーシー殿!」
ジュウベエの急かすような声にルーシーは足を止めて振り返った。同時に、前しか見えていなかった意識も周囲を見回せるほどには余裕を取り戻していた。
「あれ、テレンスくん?」
ジュウベエのそばには昨日の男の子もいた。ルルの姿はない。
いない。
焦る心を抑えてルーシーは二人の元へと駆け寄る。
「どうしたの? 何かあった? まさか……」
テレンスに尋ねると視線を下げ、ぽつりと言う。
「ルルはいなくなってないけど……」
「けど?」
安堵とともに相槌を打ち、続きを促すとテレンスは地面を注視したまま口を開いた。
「昨日、見たんだ……」
目的語を伴わない言い方からテレンスが何かを恐れている、または怯えていることを感じ取り、ルーシーの心にも冷や汗が出るようなうすら寒さが漂い始めていた。
感染する恐怖、とでも言うのだろうか。
テレンスの怯えと恐れがルーシーにも伝わり、二つの感情を彼女は否応なしに自分のものにせざるをえなかった。悲しみは二人で分かち合えば半分に喜びは倍にというがどうやら恐怖は後者のようだった。
見た。
何を見たというのだろうか。
「その前に、一ついいでござるか?」
不安が渦巻くルーシーとテレンスの顔がジュウベエの方を向く。彼は目で近くのベンチを示した。黒のペンキで塗られた横長のベンチだ。
「まずは腰を落ち着けるでござる」