ヤサシイマホウ。
僕の大好きなひとのことについて話そう。
あのころ
小学二年生のときにこの街に引っ越してきた僕は、一際に内向的な性格で、新しい友達もなかなかつくれなくて、近所には同じクラスのひとは住んでなくて、最初はみんな親しくしてくれたんだけど、通学路は途中から僕だけの道に変わっていて、それでそれで、あの頃はすごく、そう、さびしかったんだ。
でもさ、僕がちょうど三年生にあがるときに、みーちゃんが、いや、希先輩が隣の隣の隣の家に、うん、引っ越してきてくれた。
それでね、その頃はみーちゃんって呼んでたんだけどね、みーちゃんはすっごく優しくて、すぐにたくさんお友達ができて、それなのに毎日僕と一緒に帰ってくれた。
帰りだけじゃないね、行くときも一緒。
あ、みーちゃんは僕のひとつうえなの。
それでそれで、僕は一人っ子なんだけど、みーちゃんも一人っ子で、いっつもお姉ちゃんみたいだった。
本当のお姉ちゃんになって欲しいって、同じ家で毎日暮らせたらこんなに最強の天国はないのにって、いっつもそんなことをあどけなく思ってた。
いっつもいっつも思ってた。
みーちゃんと会わない日はほとんどなかった。
僕んちはあんまりおばあちゃんちから遠くないからいっつも泊らないで帰ってくるんだけど、みーちゃんはそうじゃなくって、みーちゃんがいないときはめっちゃくちゃにさびしかった。
でもね、みーちゃんは帰ってきたらすぐに僕んちに走ってきて、
「ただいま、のんくん」
って笑って頭をなでなでしてくれた。
そんなことがずっとずっと続いた。
みーちゃんはなんでも知ってて、アイドルのこととか、テレビのこととか、勉強もすごくて、絵も上手で、歌も上手で、ピアノもできて、本もいっぱい読んでて、足も速くて、詩を、詩をかいてた。
みーちゃんは詩をかいて僕に読んでくれた。
たぶん僕が五年生の頃だから、みーちゃんは六年生。
みーちゃんは詩をかくのが大好きで、はまりまくってかいてた。
花の絵をノートの表紙に自分で描いて、
「たいせつなノートなの」
といって僕にみせてくれた。
みーちゃんの詩がたくさんかいてあった。
その意味とかは全然わからなかったんだけど、なんていうか、すごいなぁっておもった。
みーちゃんの詩は、とてもあたたかい詩だった。
むずかしい言葉はあんまりなくて、漢字もあんまりなくて、普通の鉛筆でかいてあって、でもでも、すっごいすきだった。
「のんくんも詩をかいてみて?お姉ちゃんが教えてあげるから」
みーちゃんが詩を教えてくれたことがある。
すっごくゆっくりと教えてくれた。
すっごくすっごくゆっくりと。
その日はすっごくみーちゃんはゆっくりだった。
そして僕は生れて初めて詩をかいた。
みーちゃんのたいせつなノートに。
でも、でもね、本気すぎて、本気がどうしようもなく溢れだして、僕はその詩をかきあげたときに、僕の気持ちを知ってしまったの。
それをね、みーちゃんが笑いながら声にだしてよむから、なんだかすごく恥ずかしくて、それで、なんでだろう、なんであんなことしたかわからないけど、僕は、僕はみーちゃんにいったんだ。
「やだ、詩なんてわかんないもん!詩なんてキライだもん!」
僕のその言葉がいろんな意味を持っていたことを、僕ははっきりじゃないけど、わかっていた。
ううん、声に出して初めて分かった気がした。
みーちゃんは何も言わないで泣いた。
無言で言う。
「ごめん」
狭い小さな僕の部屋で、弱く響かないみーちゃんのごめん。
みーちゃんは、ノートをもって僕の部屋から出て行った。
僕はしばらくじっとしていて、それで泣いた。
その日はずっと泣いていた。
次の日も泣いた。
その次の日は、覚えてない。
みーちゃんが私立の中学に入るから、市内の別のところに引っ越すと聞いたのはもう、たくさんのことが手遅れになってからだった。
僕は、最後までみーちゃんに会いに行くことができなかった。
僕の心は、味わったことのない不安で押しつぶされそうになっていた。
頭の後ろに熱い線が走り、なんだかあごが震えていて、貧乏ゆすりが激しくなって、夜寝るのがめちゃくちゃこわくて、いつも、いつもいつも、いつも、みーちゃんの夢をみる。
いつもみーちゃんは、みーちゃんはみーちゃんは、
泣いてる。
僕が近所にある公立の中学にあがって2年目の夏
あのころのみーちゃんがずっとずっといじめにあっていたことを知った。
人付き合いが苦手ながらも、運よく友人に恵まれた僕の耳に入ってきた、遅過ぎた真実。
驚愕、愕然。
放心。
いまさらどうにもならない思考、考慮、把握、同情、行動、未練。
あのころのみーちゃんがどんな気持ちで僕と過ごしていたのか、どうして僕ばっかりと毎日一緒に帰っていたのか、朝迎えに来てくれたのか。
考えもしなかったあのころ。
それがあたりまえすぎてしまったあのころ。
あれから、一度も連絡をとったことはない。
市内だから決して遠いわけじゃない。
でもだからって、今更会えない。
僕は弱すぎた。
僕は弱過ぎて弱過ぎて、無力で、そのくせに忘れたことなんて一度もなかった。
一度も後悔の思いを休めたことはなかった。
会いたい。
いや、会えない。
でも会いたい。
それでも足は動かない。
なのに消えない、笑顔。
微笑み、目、口元、耳、髪の匂い、肌、手、指先の感触。
言葉。
詩という、もの。
そうやって葛藤を繰り返して繰り返して、頭を抱えて目を閉じて。
僕は強欲になった。
チカラガホシイヨ。
高校生をはじめることにした。
俺は、少しだけ、チカラを手に入れていた。
昼休み B棟2F 1の6
春の温もりが名残惜しさを宥めるように頬擦りする。
桜色を遠くに思い始め、晩春も末と紫陽花が香る、今日。
制服の袖という袖は各々に捲れあがり、窓際による生徒こそ、それはそれは少ないのだ。
そしてその少ないの穴をひとりで埋めるのは、なにもそこに好ましい斜めの陽射しを伺うからではなくて、それはそう、消去法で得た安価な聖地にて足を休めたから。
伸びすぎた前髪が夏を感づいた茂りの様に風を受け、空へ向く視界の右半分をさららと揺れうごく。
俺はひとりだった。
ひとりを感じることで、胸の軋みを緩和する毎日に身を任せ始めていた。
ひとりの意味がわかる人間には、たぶん二種類いる。
ひとつめ、わかりあえる人がいる人間。
ふたつめ、わかりあえる人がいた人間。
僕は、俺はもう後者だ。
教室にぽつりぽつりと塊をつくる喧騒の種も、校庭で汗を光らせながら走りまわる白いシャツも、なにもかもがあの幸福の足元にも及ばないささやかな戯れに感じられて、水をのみすぎて何も口にできないときのようにあるはずの欲望が無意識の心理に回避される。
そうやって、読んでいた本の表紙を閉じるように、俺は両手で狂おしくつかんだ人間という関係を静かに置き去りにしてひとり足を進めた。
あの幸福に比べれば。
ありもしない可能性を何もない日常に見出だして、気付けば俺は彼女を、河原希を探す毎日に迷走していた。
それも徒歩で探すのだ。
どこかに都合のいい運命が落ちてないかなんて、馬鹿のひとつ覚えみたいに足元ばかりに目を光らせる。
それもこれも、会いたいという感情に中身がつまってないから。
巡り会いたい、あの日々に戻りたい。
今なら、間違いなく護れるのに。
夕刻 帰路 駅
駅にはあまり人がいなかった。
いつものことか。
最近、昼が長くなるのを感じる。
でも、俺の中では、昼が長いというよりは夕方が長いという感覚が先行している。
どうでもいいかな。
寂れた駅の裏の通り。
前輪のない自転車、並んだ空き缶、茶色い草、緑青の水溜まり、廃棄ガスの臭い。
影。
煙のように地を這う影。
優しい夕日がいつまでもそれを引き立て、露骨に晒す。
靄は惨めにひとつだけ、ひとりだけ、油が滲むアスファルトを舐める。
夕日が誰で、誰が影か。
この道はいつの道か。
実感は一瞬なのに、思い出は永遠なんて、そんなの理不尽だ。理不尽だ。
記憶を呪っても、胸にこびりついた悔いと切望に拍車をかけるだけ。
急に、右耳を削ぐ、列車の嘆き。
そして、この道を毎日通る俺。
ひとりでいるということは、誰かを意識し続けるということ。
だれかひとりを思い続けることを強さと呼ぶようになってから、チカラと呼ぶようになってから、俺はひとりでいることに執着した。
虚ろな瞳に曇る景色。
夕日の色はあの日とかわらず、心の中からあなたは消えない。
夕刻 帰路 歩道
10年近く住む少し古めかしい九階建てのマンションが見える。
会話のまるでない家族なんて、いや親子というべきか、鼻先で嘲るほどに心表れない。
それでも両肩が安堵にさがるのは、きっと他人の顔に対さなくていいからだ。 そうに違いない。
そんな俺の前を通りすぎたのが、黒猫を猫背気味で追い回す細身長身のサングラス野郎でも、さらに妙な奇声を上げていようとも、まるで空気を眺めるように一瞥をくれてやることで遺憾を晴らすくらいの余裕はあった。
唐突な日常の崩壊にももはや心揺れないくらいに、俺は骨組みから錆びついている。
しかし、さすがに退路を走り回られては物理的に足踏みを強要され兼ねない。
俺は立ち止まって野郎を睨み付けることにした。
「こーらこらこら!」
野郎は俺の回りで円を描く黒猫にあわせ、勘に障る俊敏さで同じく一回り大きい円を描きはじめた。
「ちょっとたのみますよお!勘弁してくださいよお!」
剽軽な声が頭痛を促す。
それから立ち止まって二分を数え終えると、野郎は首を重そうに振り回しながらやがては歩道の土に両手を着いた。
それも、こともあろうに俺の目前でだ。
野郎は熱い息で地面を温め、気がついたようにこちらを見上げる。
「えへへ、すいませんすいません。ちょっとお邪魔しちゃいましたか?いやーあの黒猫が速くて速くて」
黒猫が過るだけなら日常的な不吉加減だが、こんな怪しげな気違い候補者を落としていくとは不吉を超えて凶もいいところだな。
「そ、そんなこと言わなくてもいいじゃないですかぁ」
ばねの様に立ち上がり、こちらに手のひらを押しつける。
不快だ。
俺はさっさと立ち去ろうと思い歩みを進める。
「あ、ちょ、ちょっと待ってください?えーとえーと…」
野郎は直立して両手で自分のポケットというポケットをまさぐり出す。
うんざりとした視線を投げる俺。
「はい、これ!」
くしゃくしゃの安っぽさ溢れる黄色い紙を広げたそこに陣取る、黒の印刷文字。
『カフェテリア 黒猫! 世間にお疲れの老若男女のみなさまへ 癒し系店長がお悩み相談受け付けます!』
その粗末なチラシとにかっと笑う野郎とを何度か目で往復し、その紙をもとの形に戻して拳に納める。
そして俺は必要な方向だけを向いて、遠慮なく足を進めた。
深夜 自室
眠れない夜。
疲労感を丸呑みして消化、吸収、それを繰り返して残るものは渇望、渇望。
月に一度、半月に一度、週に一度と狭まる願望の間隔と追い詰められていく心。
そんな日はひたすらに考える。
この世の摂理だとか、法則だとか、妥協を目的として首を折らなくていいような大きな強制への納得のために、架空の理解を申し立てる。
幸せについて考えよう。
この世でひとりの人間が幸せを実感できる量は決まっているのかもしれない。
俺はたぶん、幸せというものを小さい頃にたくさん感じすぎたんだ。
だから今、そのしわ寄せを受けている。
そしてその大きな幸せを実感するのが早すぎたんだ。
もうなにも魅力を俺に与えてはくれない。
例えばこうだ。
高い山の上に生まれついて、ある日突然谷底に落ちる。
それから人生のすべてをそこで暮らすなかで、おそらく必ず低いところに住んでいると意識してしまうだろう。
もしそこに人類の99パーセントが住んでいようと変わらないこと。
少なくとも俺はそうだ。
目を閉じて彼女のことを考える。
思い出を口の中でまったりと堪能したあとに決まって考えること。
あの日々が今も続いていたなら。
これが俺の当たり前の毎日。
延々続く思考の無限回廊。
いつまで歩いてもたどりつかないループのプログラム。
残酷なまでの静閑な安らぎ。
腐敗を愉しむ他界の遊戯の様。
なのに、
それなのに、俺の前に現れたんだ。
急遽。
颯爽と、夢のような彼女のそれが、
存在、そんざい、ソンザイ
が、俺のすぐそこに光り出したんだ。
気が動転するどころでは済まなくて、吐き気さえした。
内臓が歓喜するほどに、頭蓋に亀裂が入るほどに、俺は全力で抱えきれない喜びを感じた。
しかし付け加えられたその伝言の最後に、喜びを闇色へと裏返しかける。
病院。
河原希は入院している。
東病棟 906号室 前
変わっていたらどうしよう?
その疑問が過るせいで、約束の時間を20分間躊躇ってしまった。
『河原希』
ドアのプレートに浮かぶ三文字。特別な三文字。
足元の小さな染みを見つめていた。
気になるわけじゃない。気が気じゃないんだ。
変わっていたらどうしよう?
答えは出ない。
答えを出さなくていい方法がある。
このまま帰って後悔に蝕まれ続ける。
それが悪くない選択だと思い始めてしまうほどの焦燥に神経を奪われていた。
愚か過ぎる。
一秒前の自分を哀れんでは、指がドアノブに一センチ近づく。
さらに10分が経った。
腕に力を込める。
東病棟 906号室
「いらっしゃいのんくん!」
椅子に座っていたみーちゃんは立ち上がって優しい笑顔を僕に向けた。
目元が、とっても懐かしい。
僕は気だるい相槌で首を下げた。
そしてそのままずっとさげたままだ。
「久しぶりだね?ほんとうに。そこ、座っていいよ」
みーちゃんは突っ立ってるだけの僕の後ろに回ってドアを閉めた。
そして軽快な動きで小さな丸椅子を出してくれた。
「会いにきてくれてありがとう。その、たくさんお話したいことがあるの。たくさん・・・ね。」
少しだけ声を曇らせたみーちゃん。
この思わせぶりな口調はよく知ってる。
楽しい話をしてくれるときの、みーちゃんの癖だ。
僕は下を向いたまま丸椅子に座った。
そんな僕の顔を覗き込むみーちゃん。
「やだ、のんくんなんで泣いてるの?」
彼女はまた笑った。
夕刻 帰路 横断歩道前 自転車の上
変わらないものがある。
そんなことは知らなかった。
昔の懐かしさを知った。
そのせいで、俺の生命はやっと歯車を回し始めたみたいだ。
5年ぶりに油が射されたゼンマイ仕掛。その油もおそらくオリーブオイルの様な類のものな気がする。
明日が楽しみと感じたのは、いったい何年ぶりだろう?
夕焼けは綺麗だ。
美麗、悦。
横断歩道の長い待ち時間を有意義に過ごせる日が来るなんて、こんなに簡単に来るなんんて。
俺は単純かもしれない。
でもいいと思った。
そういえば、自分を肯定したのも久しぶりだ。
久しぶり。
自分に小さく笑顔を向けた。
深夜 自室
今日一つ決めたこと。
新しいこと。
彼女の名前を希先輩と呼ぶこと。
今更俺に過去の呼び名は厳しい。
一般的な恥じらいの心を持てる自分が少し誇らしかったりした。
余談だ。
最初、勝手に希先輩と呼んだときは苦笑いしていた。
「あーそうか」という様な顔をして、そのあとに「いいよ、わたし先輩だもんね?」と笑った。
入院しているけど、病気はそこまで重症というわけではないらしい。
もともと身体を壊しやすくて、最近は以前ないくらいに遊びまわってて無理が来たとか。
胸を撫で下ろした俺は、そのあたりでやっと緊張が解れた。
先輩は、でも、やっぱり、学校の話はほとんどしなかった。
俺とは少し遠い別の公立に通っているらしくて、それくらいかな、話してくれたのは。
俺も詮索する気はなかった。
確かに気になりはするけど、今の先輩をみればたぶん大丈夫なんだろうなってわかる。
夢中になって遊べる相手がいるってことに、もう一度胸を撫で下ろす。
「またきてね?」
背景に微笑みを添えて、一晩中その声が耳の中で木霊した。
東病棟 906号室
「また来てくれたんだ?」
変わらない笑顔。
3日前よりはお互い落ちついている。
興奮をしていないというと嘘になるけど。
「髪、伸びたよね?」
伸びるのは当たり前。
切ってないだけだ。
もともと右目はろくにみえないわけだし。
「そうだったね」
笑い混じり、少し涼しい声。
「かっこよくなったよ、のんくん。のんくんはけっこう変わった。変わったけど、変わってないところもある。いいところは変わってないよ」
丸椅子の上で、あっちを向いてベッドのシーツの端を指で遊ぶ。
声が遠いからかな。
一瞬の心配を抱いた。
「よかったね?」
振り向いた希先輩は向日葵みたいだった。
向日葵にはまだ早い季節。
でも、窓から差し込む午後の陽射しからは、もう夏が近いことに異論が出ない。
向日葵は太陽の方を向くけど、逆光に陰る姿も神々しくて、全く、歯が立たない。
「なにそれ?向日葵みたいですねって、褒めてるつもりなの?何にも出ないんだからね?」
そういって何度も繰り返される輝きは初々しくって、枯れた根に潤いを注ぐ。
耳元がくすぐったい。
別世界を優雅に舞う花びらになった気分。
「もー、のんくんいつまでたっても子供なんだから。でもそんな無表情でいうことじゃないよ?笑わないところが可愛くない!」
先輩は俺の両頬を人さし指で突く。
なんだか間近に迫る希先輩の顔から目を離せなくって、無防備に任せてしまった。
近い顔、白い肌。
鼓動が瞬時に上がるのを感じる。
でも先輩は何の気なしだ。
「あ、今ドキッとしたでしょ?」
苦笑いだけど、たぶんらしくもない顔をしてしまっていた俺。
ここ5年の、俺らしくない顔。
朝 自室 椅子
希先輩の友達ってどんな人だろう?
俺は会うたびに先輩のことを知りたくなっていった。
疑問は憶測を呼ぶ。
考えることだけはひとりでやってきた。
いじめられていた先輩。
そうだ、そういえば俺は言わなければならないことがある。
あれだけ悔いていたのに、一変した世界観によって死角に回りつつあった。
けど、詩のこと、謝らなきゃ。
先輩はたぶん忘れてる。もしくはもう小さなことと思って許してくれてる。
でも、俺がなにも気が付けなかったから、弱かったから、きっと先輩はあれから俺以上に苦悩しただろう。
違うな、知らなかっただけであのころからすでに苦悩していたんだ。
今なら、護れる。
これからもずっと先輩と一緒にいられるのか?
ずっとっていつまでだ?
そんな困惑にたどりつくと、今までに意識したこともない感覚が忽然と姿を現す。
開けてはいけない箱を開けてしまったのかもしれない。
『俺は、希先輩を・・・・・・だろうか?』
驚いた。
初めてだ、そんなことを考えたのは。
ずっと、実の姉の様な存在だった。
家族と距離のある俺にとって、唯一の家族のようなひとだった。
これからも、そうなんだろうか?
今は、どうなんだろうか?
東病棟 906号室
先輩が、もともと口数の少ない俺の言動の中にある微細な狼狽えに気がつくまでの間に、俺が発した文字数は多く見積もっても20字程度だった。
もしかしたら、顔をみた瞬間にわかっていたのかもしれない。
そしてそんな先輩の内心を俺が悟るのにも、秒針の一周走が終わりきらない程度の時間しか要さなかった。
5年ぶりの必然的な再会から2週間。
お互いが冷静になった今、いや、俺が冷静になった今というべきか、揺れる脳が告げる疑問とその解答欄。
「先輩、どうして急に俺に会おうと、思いたったんですか?」
再会して初めての、先輩の躊躇い。
短い沈黙。
観念したような先輩の溜め息。
俺の解答欄には、絶望的な最悪の未来が記入されている。
それは同時に、最も回避したい消去法の最優先候補。
俺は唇をつよく締めた。
「嘘を、ついていませんか?」
「ごめん」
即座な返答。
壁に目を預ける先輩。
鼻で静かに溜息をつく俺。
長めの沈黙。
決まる心。
誰のものか?
部屋にいるのは二人だけ。
小さな病室で二人が同時に目を合わせた。
片方は潤みかけて、もう片方は真剣さを突き刺す。
5年の月日が経っていようと、ものをも言わずに解り合う二人。
隠しきれない悲哀を帯びながら、ゆっくりとゆっくりと、希先輩は小さな唇を噤んだ。
開いた。
「手術をするの」
深夜 自室
この苛立ちをどこに葬ろう?
脳髄に有害な液体を流しこまれたような衝撃。それが持続。
熱いのに毛布に包まり、かいた汗に寒気を覚える。
先輩の言ったこと。
躊躇われた真実。
希先輩の病名。
XXXXXX
大手術が行われる。
成功率は2割を切る。
手術は1週間後の6月6日。
市外の巨大な大学病院で、現代医療にも有数と言われるらしい大手術が行われる。
日付の不吉さよりも優先されたのが、九州、中国地方内にいる上級の医師達のスケジュールだ。
その日を逃せば、さらに1年近くの入院生活と命の危機に晒されるどころか、手術の成功率は現在よりも確実に減少する。
先輩は、俺の危惧していた通りに中学生の間もいじめを受け続けた。
陰湿なものから始まり、より強烈なものへ。
内容など聞いていない。
聞けるはずがなかった。
九州地方に大きく展開する某企業社長の孫娘。
父親は時期社長。
しかし、バブル崩壊後から50年近くの大きなスパンで着々と進行した不況、世界経済の大きな打撃による海外との製品、原材料輸入などに関する問題を回避するために施行された大規模なリストラ、店舗数の削減、脱税疑惑の浮上など数々のことが重なり合い、それらによって企業に対し世代を超え親族規模で恨みを持つ傾向が現れ始めた。
繋がりを切られた小さな会社などは様々な妨害活動にてをまわし、株価変動の影響などにより内部分裂した大手企業は暴力団をやとって社員への傷害事件を起こしたり、破壊活動を先導したりした。
俺たちの親の世代がまさにその大部分を占めている。
日本全体から考えれば塵の一つにも満たない。
だが一つの市ごとにみるなら、無視などできない規模だ。
もちろん、そんな市町村が一つや二つではない。
まるで恨まれるために生まれてきたような先輩への侮蔑。
子供たちの誤認。
教師までもが手を下す劣悪さ。
先輩の気持ち。
幼くして得た計りしれない苦痛。
なにより先輩は素直すぎた。
素直すぎた。
そして俺は知りもしなかった。
知ったものよりも、解答欄よりも何千倍と重い言葉。
繰り返された言葉。
「どうすればいいかわからないよ」
なのに、その矛先が俺に向かぬようにと俺を遠ざけた。
俺以外、彼女のこころのよりどころなんて無かったのに。
無かったのに。
地獄に歩み寄った先輩は耐え続けた。
耐えて耐えて、耐えた。
結果がこれだ。
過剰なストレスから感覚神経に異常を来し始めた。
だから手術した。
難易度の低い手術、本来なら治療でも治すことが可能だった。
しかし失敗した。
何故か?
その病院の医者は金に釣られて故意に医療ミスを偽装した。
結果、複合的な重病を回避するための応急処置として不安定な治療を続け、現在の病名を申告される。
なんだこれは?
なんだこれは
高校入学後、一時は瀕死に陥ったという。
先輩は言った。
「そのとき、すっごく大好きな人がいたの。まわりの目なんて全く気にしないで、彼はすっごく強くて、誰も彼には逆らえないの。暴力とかじゃなくって、別格っていうか、不思議なくらいに私を護る彼を、誰も悪くいうことはなかった」
俺に足りなかったもの。
胸が激しく軋んだ。
胸部の内臓がどろどろになるのを感じた。
背骨が熱くて、汗が垂れた。
「大好きなの。告白したの」
邪悪な鳥肌が立った。
皮膚が泡立つ。
身体は小刻みに震えていた。
「私を、彼は認めてくれた。すっごく嬉しかった」
顎が震えだした。
寒くもないのに錯覚が全身を襲う。
「だから、乗り越えられた」
俺は自分の身体に言い聞かせる。
独占欲なんて滲みださせない。
例え、5年間思い続けていようとも。
たとえ、初めての愛を抱いていても。
希先輩の幸せ、それ以上に代えがたいものはないはずだ。
それで助かったんだ。
よかった。
あぁ、よかったんだ。
「でもね」
あのときの先輩の顔はもう見れたものじゃなかった。
あのときの俺の心の中と同じ、ぐちゃぐちゃだった。
「手術の話をしてから、一度も会いに来てくれなくなったの」
窓の向こうは長い夕も末という、終焉をちらつかせる色をしていたと思う。
「重いのかなって、やっぱり私が迷惑かけ過ぎなのかなって。そうだよね、普通は逃げ出したくなるよね?私のこと、愛してくれてるから、だからこそ、辛くて逃げたくなっちゃうんだよね?普通だよねやっぱりそれが。彼が辛いくらいなら、私は彼が私を投げ出しても許してあげる。恨んだりなんかしない。だって・・・」
一瞬、世界、停止。
「死ぬんだよ私?」
泣いた方がよかったのかな。
泣けなかった。
自分が何を見て、何を聞いて、何を考えているのかうまく理解できなかった。
脳が止まった。
ただ、右の拳だけは強く握られていた。
全然この後のことは覚えていない。
だから最低限の必要事項以外はあまり語れない。
希先輩は俺に懇願した。
佐久間浩にもう一度だけ会いたい。
確かにもう疲れちゃったのかもしれない。
いいの、それでも。
ただ、最後の言葉をきちんと伝えたい。
連れてきて欲しい。
俺にしかできない。
懇願した。
その後すぐに言う。
こんなことを頼むために俺に会ったわけじゃない。
本当は思い出のままにしたくなくて、俺の顔が見たくて、いろんなことを謝りたくて、ただそれだけのはずだった。
それなのに寂しさに苛まれて、もう、耐えるのは疲れて、話さなくていいことまで話して困惑させた。
利用、しているんだと思う。
他に誰もいないからって、昔、一方的に裏切った相手を利用しようとしている。
許して欲しいなんて言わない。
ずるいよね?こんな言い方、と言って冷たい汚い濡れた床に額をつけながら、した。
懇願をした。請うた。
俺は、先輩を抱き上げた。
「おやすみ。あとは任せて」
この俺、
柴崎望は、
今度こそ、
愛する人を、
護る。
学校欠席 手術まであと6日
佐久間浩は俺の家から電車で5駅のところにある比較的難易度の高い公立高校に通っている。
無論、希先輩と同じ高校。
わかったことは帰宅部、2年2組、家は学校のすぐ近く。
それと、右手に赤いミサンガをつけている。
希先輩が作ったものらしい。
つまり、帰り際に会うとしても俺の授業が終わってからでは到底間に合わない。
だから欠席する必要があった。
必要があったからやったまでだ。
俺は先輩の願いを叶える。
迷っている暇はない。
校門で待ち伏せることにした。
下校時 校門前
張り込んでから1時間、右手にミサンガをつけた男子生徒は通らない。
視力には自信がないから眼鏡をかけているが、一つしかない校門でいくら待ち伏せしようとも佐久間浩は現れない。
考えられる事象、ミサンガが切れてしまったという可能性がある。
だとしたら、判断の材料がない。
焦燥の汗を拭きとって目を凝らす。
私服にジャンバーを羽織ってきたが、はた目から見て決して自然な光景ではない。
最悪の場合、教員に不信がられ兼ねない。
そうすれば翌日の張り込みが難しくなる。
「実際に会いに行くしかないの」
今日会いに行ったときの先輩の言葉を思い出す。
本格的な入院が決まってから、先輩は携帯電話を持たなくなった。
先輩のいる病棟では使用ができないというのもある。
以前は、学校で会ったときと、病院の公衆電話越しに話す毎日だったという。
しかし、電話番号も変更され、現在は連絡は取れない。
自宅に直接押しかけることも考えたが、相手がどんな人物かもわからない以上、ことは慎重におくらなければならない。
深夜 自室
やはり外観で判断するのはそれほど容易ではないようだ。
となると実際に人伝に詳細を聞くのが確実性が高い。
残念ながら知り合いは少ないが、ことと次第による今、多少の恥じらいなどは苦にならない。
護る。
その言葉はとても危ない言葉だ。
下手すれば大切な人と自分を同時に傷つける。
護るの意味が成立するためには、希先輩の願いを叶え、先輩の願いを叶えるという俺の唯一の幸福を実現する。
そこに迷いなどない。
不足など感じない。
枕に顔を埋め、歯を食いしばる。
身体を起こした。
でもせめて、ひとりのときは…
今だけ、今だけだ。
電気もつけず、俺はトイレへ向かった。
昼休み 校内 手術まであと5日
中学から仲のいい数少ない友人、といっても週に数回しか顔を合わせないが、杉田に話をしてみることにした。
隣の高校の先輩とはいえ、ここまで名が知れるほどの生徒は普通はいない。
間接的にでも知っていそうな人物を尋ねるつもりだった。
しかし、幸運にも話はあっさりと終わってしまう。
「佐久間浩って、コウさんのことじゃないかな?隣校でヤンキーのボスみたいな人らしい。学園祭とか行ったとき何回かみたよ。パッとみは全然ヤンキーっぽくないかな。ひとりだけ右耳にピアスしてるから近くでみればすぐわかるはずだけど」
杉田は言い終える前ひとつ加えた。
「けっこうヤバい性格してるらしい。正直、関わらないほうがいい」
そういうわけにはいかないんだ。
立ち去ろうとする。
後ろから早口が耳を触った。
「柴崎。大丈夫かおまえ?いつでも…なんかあったらいえよ?」
はっとして目を見開いた。
誰にも気づかれないように、前を向いたままの俺。
その言葉は、今は深くは受け取れない。
午後は早退しなければいけない。
急がねば。
振り向かない。
「・・・りがと」
チャイムの音に重なった。
放課後 校門前
「みつけた」
右耳にピアスをつけた男子。
背は高い。
上から下までさらっても、これといって一般人から外れた箇所はない。
誠実そうな顔つき、服装も乱れているというわけではない。
これが先輩の、愛してる人。
俺はその顔を凝視した。
その存在を知ってから佐久間浩という人物について幾度となく考えはしたが、予想を覆すでもなく清楚な出で立ち。
この男が先輩を救ってくれた。
今の俺より、先輩に近しい人間、男。
ひとり首を振って必要なことだけを再度確認する。
彼に会う。
病院に来て、河原希の想いを聞いて欲しいと伝える。
なにがなんでも来てもらう。
俺が説得する。
先輩は俺が護る。
佐久間浩に接近した。
連れがいるわけでもなくひとりで帰路についているようだ。
後ろから近づいた。
上手くやれるか?
やれる。
やる。
すぐ寸のところまで迫って声をかけた。
「コウさん!」
俺の声は、後ろからきた大勢の風紀の悪い男子生徒の声に重なって消えてしまった。
もどかしい。
しかし退くまい。
「コウさん大変です!村塚んとこの下が西村にちくりやがったんです!」
佐久間浩が振り向くのと、俺の声が発されるのと、その声が男子生徒の大声にかき消されるのはほぼ同時だった。
佐久間浩と目が合う。
細い目。
鋭い目。
強い目。
「君は?」
俺の方に反応した。
威圧に口を塞がれる。
並々ではない威圧。
利己的な漆黒の感情と目の前の得体のしれない人間の両方に対して抵抗の念を放っている俺には自由に息をする余裕がない。
負けるか?
いや、退かない。
今の俺にできることは先輩の悔いを晴らすこと。
それが何を意味していようとも。
希先輩を護る。
救う。
「その、佐久間浩さんですよね?」
唇の動きは定まらずに、煩わしいほど発音が難しく感じられた。
時間がかかり過ぎた。
「そうだけど」
目は冷ややかながらも突き放してはいない。
生まれもってこの表情、威厳というべきか、それを備えてきたのかもしれない。
「あの、希先輩・・の」
首をかしげて聞き耳を立てている。
うまく話せない。
畜生。
もう一度。
「おい、おまえなんや?」
振り向いてしまう。
きっとそのときの俺はひどく怯えた顔をしていたんだろう。
「なんなんおまえ?うちの制服じゃねえじゃん。誰や?」
普段なら怖くなんて全くないだろう。
恐怖など感じないだろう。
しかし、混乱し過ぎた。
このときの俺の精神は、脅かされていた。
佐久間浩。
「コウさん、とりあえず今は急いできてください!」
そういって男子生徒の面々は佐久間浩を前から後ろから急かして連れて行ってしまう。
呆然と見ていただけの俺。
身体は、震えていた。
少し、汗もかいていた。
深夜 自室
情けない。
情けない情けない。
勝てないと思った。
俺は弱いと思った。
意識の問題かもしれない。
希先輩の大切な人、愛する人。
俺よりも、そばにいて欲しい人。
張り合う気なんてないって、頭では分かった気でいた。
冷静なつもりだった。
でも、あの人に、佐久間浩は俺なんかよりずっとずっと強くて、希先輩を、俺よりも、俺なんかよりも、護れる。
護ってきた。
救ってきた。
それを考えると、屈辱に肩が止まらない。
もしかしたら、彼が希先輩に会いに行かないのにもなにか理由があるのかもしれない。
頼まれたからとは言え、所詮は他人の人間関係なかもしれない。
俺が入る隙間なんて無いのかもしれない。
俺はいったい何だ?
何をしているんだ?
誰なんだ俺は?
俺は、俺は。
俺は希先輩の、そう、2番目に大切な人。
佐久間浩の次に大切な人。
いや、ほんとはもっともっと後ろの方かもしれない。
俺はもっともっと弱いのかもしれない。
強くなったつもりだった。
そうだ、つもりだったんだ。
俺はあのころと変わらない。
俺が僕だったころと変わらない。何も変わりはしない。
弱いままの、護れないままの生き物。
チャンスを逃した。
あと明日から数えて4日。
希先輩は、もう。
成功率が2割未満の手術の意味を、俺は最初聞いたとき履き違えていた。
それは失敗する可能性が8割以上だということではない。
命が助かるのは奇跡的だということだ。
そして命が助かったとして、神経系の病気なら、まともな意識を保ち続ける可能性なんて皆無に等しい。
手術が成功したとして、その先一生、健康で有り続けることなどもあり得ない。
今の先輩はもう消える。
時間が過ぎれば確実にこの世からは、いなくなる。
現に、先輩は脚先の神経が弱って今はまともにあるけないんだ。
再会してひと月もしないうちに実感させられた。
ときどき、俺の言葉も聞こえていないようなときがある。
聞こえている、ふりをしてくれている。
失う。
間違いなく失う。
俺のこの世で一番大好きなひとは、俺を2番目に愛してくれている人は、もう間も無く、記憶だけ、この胸に思い出だけ残して、消える。
消える。
喪失
気がつくと俺の部屋はゴミ捨て場みたいだった。
崩れて散らばった本。
破れたたくさんのページ。
さかさまのコンポ。
静閑。
静寂。
中身がぶちまけられたゲーム機。
折れたペン。
赤い壁。
俺の手首。
先輩の手首を思い出した。
先輩の左手首には、線がたくさん引いてあった。
希先輩。
河原希。
みーちゃん。
今のこの部屋の中には役に立たないものばかりが在る。
僕のこの身体とこの心の全部は、たぶん何の役にも立たないごみの類だと思う。
もしそんなことができるなら、先輩にこの身体をあげたい。
ダメだ、きっと薄汚れてしまう。
この部屋に役に立つものはなにもない。
何一つとしてない。
どうすればいい?
どうすればいい?
どうすればいい?
「詩っていうのはね、心があれば誰でもかけるんだよ?」
「書き方なんてないんだよ?のんくんの思うものだけを、すきなだけかけばいいんだよ?」
「ほら、やってみて?書いてみてよ。」
「のんくんのこころをしりたいの」
聞こえた。
ぬくもりの声。
あのころの声。
あの日の声。
鈴の音の様に響いた。
笑った。
役に立たないものの部屋で、俺は笑った。
ざっくばらんな部屋で、俺は笑った。
折れたペンと、落ちたページを拾う。
こころは容れものだとおもう
そのなかにはたくさんの誰かがいて
そのなかの誰かは
こころの生きた証
だって例えば
じぶんというものがしんでしまいそうなとき
じぶんのこころがこわれてしまいかけたとき
あふれだしてくるのは
こころにつまった
たいせつなあなただから
いろんなことに勝てない気がしたのに、
いろんなものに負けない気がした。
放課後 校門前 手術まであと4日
把握し損ねたことがある。
今日、希先輩に会いに行く途中に気がついた。
手術自体は4日後だが、前日に大学病院へ移動する。
つまり猶予は実質あと3日と考えた方がいい。
今日、明日、明後日までに佐久間浩を説得しなければならない。
そして、脈を打つように先輩の容態を実感させられる。
先輩の視力は今朝から極端に落ちていた。
ぼやけていて人の顔はまず判別できない。
俺が来たときはすぐに気づいてくれたが、それは時間帯による把握かもしれない。
それでも、まともに立てもしない癖にベットから降りて俺に椅子を出そうとしてくれた。
先輩は無理に笑わなくなっていた。
でも、嬉しいときはちゃんと笑顔を見せてくれる。
俺は音楽を一緒に聴いたりして楽しんだ。
帰り際。
「無理しなくて、いいからね?勢いで頼んじゃっただけだから」
俺は先輩の視力が落ちているのをいいことに、めいっぱい笑顔を向けて無言で去った。
もうすぐ佐久間浩が通るはず。
昨日と同じタイミングだ。
逃さない。
「やあ」
後ろから現れた声。
俺は動かず、肩に力を入れる。
「驚かないんだ?もしかしてばれてたかな?」
右耳のピアスが小さく光った。
顔を寄せてくる。
「話したいことがあるんだろ?」
極めて冷静な声だ。
案内されたのは少し広めの小屋、倉庫と言った方がいいかもしれない。
しかしそこらに散らかっているものは、明らかにただの荒廃ではない人為的な破壊の残骸だった。
「普段ここはウチの面子が落ち合う集会所的なところなんだ。昨日はすまなかったね?今日は誰も来ないように言ってるから大丈夫だよ」
薄暗いままの倉庫で、佐久間浩は倒された巨大な鉄の柱に腰掛ける。
「どうして」
静かな声はいつにもなくこの闇の中では響いた。
「それは何に対しての質問かな?僕が君を呼んだこと?こんな人気のない場所に誘ったこと?それとも、希に会いに行かないこと?」
俺は風が吹くくらいの眼力を撃つ。
風圧。
「全部だ」
虚空を見るような目で視線を返す佐久間。
「そんなに怖い顔をしないでくれよ、のんくん」
なにものにも怯えはしない。
しばらく沈黙は続いた。
自分が息をしていることが気になってしょうがないくらいの静けさ。
世界が死んだ様な静けさ。
「そろそろ話を始めよう。僕のペースでしゃべらせてもらうよ」
佐久間は目を閉じた。
暗闇でも右耳のピアスは光る。
「君のことは希からよく聞いた。大切な人であり、唯一の親友であり、愛すべき弟の様な、本当の家族の様な人だと。そして、自分はその人を裏切ってしまったと」
鼓動が一つ。
「後悔していた。この高校に来て、僕に出会ってからもしきりにそんな昔の話をしているんだ。きっとひとときも忘れたことなどないんだろう。自分も散々な目にあってるくせに」
軽々しく通る溜息の音。
「正直、嫉妬したよ。それに理不尽だと思った。そんなに本気で愛する人がいながら、普通の人間生活ができなくなって、揚句のはてに死の病だ」
「言葉を、選べよ?」
気付くと身体は半歩前にあった。
「悪かった」
佐久間は右の手の平をみせて謝る。
俺は目をしかめた。
「僕はそんな世間に嫌悪感を抱いた。そして彼女に激しく同情した。だから彼女を護り、世間の汚らしい意志をチカラで圧倒して彼女に未来を築いた。こうみえても、僕は元来から激しく世間ってものを嫌っているんでね。恨みならたくさん持っているんだよ。彼女といるだけで、それはそれは快感を得られた。穢れた保護者にも、息のかかった教師にも、金で釣られたガキどもにも、一挙に復讐できる。こんな素晴らしいことはないと思ったよ。僕の手に入れたチカラを振るえる場所ができたんだ。そのためのいい道具だ」
「希先輩を、愛していないといいたいんですか?」
俺の持ってきた小さな刃物は、佐久間浩の喉元に震えながら迫っていた。
何にもない顔で視線をそらさない佐久間。
「愛してなどいないさ。確かに、彼女にはこれ以上ないくらいに惹かれた。心のぬくもりを除いたとしても、世のごみどもがよだれを垂らして欲しがるようなものをたくさん持っている。僕にはもったいないくらいだ。でも違う」
俺の手首は滑らかに回され、少し遠くでナイフの落ちる音がした。
「僕はことごとくに彼女を利用したんだ。欲望に任せて、何度も抱いた。いろんなことをさせた。彼女はそれでも俺から離れられなかった。僕はただ僕の欲望だけを満足させた。そのためだけに、僕自身のためだけに護った」
胸倉をつかんだはずが、冷たい石の床が視界を埋めていた。
砂利を吐きだして硬い床に声を叩きつけた。
「先輩がそんなことするはずない!そんなことに気づかないはずない!」
佐久間はなにやら物音をたてた。
俺は咄嗟に起き上がる。
目の前に出されたのは、眩いほどに光るもの。携帯電話の画面。
「これをみるといい」
そこにあったのは、先輩の写真だった。
見たこともないような姿の希先輩。
ベッドの上、ほとんど裸だった。
それだけじゃない。
さまざまな格好をした先輩。
その全てが、愛くるしいまでに微笑んだ顔。
一番上には、河原希となんの躊躇いも無く、曝されていた。
そこでは無造作に曝されていた。
まるで人形の様だった。
最新の写真の下。
『 今週の特集 賞味期限ぎりぎりのJK 』
だが、その画面は一瞬にして消えることになる。
携帯電話は音をたてて上半身と下半身へと分かれ、間も無く闇の中に消えていった。
消えたそれらの破片の着地音がするより先に、二本目の俺の刃が佐久間の足を狙う。
ふわりと浮いたハンカチが目を奪った。
空を切って前のめりになると、背後からは携帯電話だったものが床に殴られる音と、激しい脇腹への痛みが同時に脳に届いた。
手から落ちかけた細いカッターを脇腹のあたりに下ろす。
痛みの線が走ったのは俺のふとももの付け根からだった。
目前が開けて右下に意識を投げる途中で、左目を覆うのは骨ばった拳。
地面で腰骨を打ち、肺から声が強引に吐き出される。
それに嫌悪を煽られて転がりながら起き上り、暗闇に慣れた目で近くのパイプを掴み前方に跳ぶ。
パイプは錆びていて思ったより長く、握る手にも小さくはない痛みが刺さる。
しかし、捨て身ながら大きく振りかぶったところで、やがて俺の勢いは静止に向かった。
額の上にあったのは佐久間の通学用の革靴だ。
そして後頭部を冷やすコンクリート。
踏みつけられた俺の顔面。
息を吐くのも吸うのも苦しくて仕方がなかった。
「逸っちゃいけない。君はだから、大切なものを護れない」
歯を食いしばって首に力を込める。
頭部を抑えられれば人体の構造からして起き上がるのは不可能だと知りつつも。
「それは僕がやったことじゃないよ」
佐久間浩が飽き飽きしながら同じことを3回言ってやっと、俺は脱力し聴覚を使うことにする。
「恥ずかしながら、それは僕の趣味の一環のようなものだ。健全じゃなくとも僕は高校生だよ?深いところは詮索しないで欲しい。それは僕の携帯からどこかの馬鹿ものがコピーして流した代物だ。これをきいて僕が言いたかったことはわかるかな?」
息切れ。
動く肩。
「しゃべれるくらいには加減したつもりなんだけどな。教えてあげるよ」
頭上の足が外れた。
「一つは、現に僕が彼女を利用していながら、彼女が僕を信じ、尽くしてくれていた事実があること」
俺は浮いた足元を見つめる。
「二つ目は、彼女を護るのがただの人間を護るのなんかと比にならないくらいに難しかったということだよ」
ポケットに両手を突っ込んで息の乱れもなく目をつぶる佐久間。
「この僕がまさか世間のクズに遅れをとると思うとはね。しかし、やつらは教員を利用してことを行った。学生の僕には不利だろう?それもおそらく一人や二人の協力じゃないね。手口が大胆だった。そのくせ利益としては彼らの快感以外に何もない。どうだい、君もこんな学生生活は?」
「だから、それがどうだっていうんだよ!」
うまく羅列が回っていなかったかもしれない。
開かない目もそのままに、弱々しく天井に叫ぶも、反響などはしない。
闇に飲まれ行く声。
「僕は護れなかった。自分の欲望に任せて全力を振るってもだ。だから、僕はもう彼女には会いにいけない。彼女を利用するのはやめたんだ。学生時代の思い出にするよ。会いに行っても、僕には何の特もない。希はもう、用済みだ」
強く通った声は響きのあとに静寂を置いていく。
対比的な静寂を。
俺は緩やかに息をひとつ吐く。故意に。
「本当にそうなんですか?」
小さくか細い、線の張ったような、そう、危なっかしい鋭い声。
目の前でもがき蠢いていたその弱者の変貌に、佐久間浩は眉をしかめた。
「あなたは言い訳がましい人だ」
遠くの空気が冷たく身震いした。
「あなたは会いに行く勇気がないだけです」
「何?」
佐久間浩は緩めていた目を細める。
「何が用済み、だ。何より、あなたは先輩を、河原希を愛していたはず」
人が目をつぶるくらいの音量で、俺の3つ目の刃物は轟いた。
「愛していた?笑わせるな。僕は世間への恨み晴らしをしたかっただけだよ。それも一時的な快楽だと知って」
「最初はそのつもりだったかもしれない。でも、希先輩は本心を読み違えたりしない。あなたが愛していたからこそ、希先輩はあなたを愛した」
「君は彼女を理想視し過ぎだ。希はただの女だ。そんな確証は何処にもないさ」
右耳のピアスが揺れ動く。
「確証は何処にもない?じゃあお聞きします」
俺は両膝を地面につけ、傷だらけの身体を起こした。
「その、右足首の赤いミサンガはなんでしょう?」
沈黙が目を開き、佐久間浩は何も言わない。
「俺は、あなたが右の手首にミサンガをつけていると先輩に聞いた。でも、あなたはつけていない。そして、それはなぜか俺の顔面を踏みつけたあなたの右足にある。不思議だ」
「これが希にもらったものではないと言ったら?」
「同じものを先輩はつけていましたよ?しらを切るのは難しい」
「最近こういうファッションが好きなんだ。かわってるかな?」
「あなたは 赤い を否定しない。右足のそれは、この薄暗い中でも普通ならオレンジに近く見えますが?ちょうど赤が色落ちしたような」
「そうかい・・・。残念、ためらったね。言い合いは僕の負けだ」
「あなたは、何故わざわざ付け替えたのですか?」
「言わないといけないのかい?未練がましさでは君に勝てない気がするが」
諦めたような笑い。
「自分なりに踏ん切りをつけたつもりだったんだけどね。見えないところに結んでしまったよ。哀れだ」
首を短く横に振った。
ピアスは悲しく光をちらつかせる。
「最初からこのつもりだったのかな?」
「言いましたよね。希先輩は人の心を読み違えない。だからあなたは本気だ。諦めきれない」
「なるほど、はめられちゃったわけか。見事だよ。そこまで希を強く信用しているなんて、僕もそれなりに自信はあったんだけどね」
「褒められても嬉しくありませんよ。俺の疑問を埋めてください」
「疑問ね。僕が希を今も想っていながら、何故最後の最後に会いに行ってあげないのか、かな?」
「希先輩の一番は、あなたです」
「どうかな、君かも」
「希先輩は、今あるものを大切にする人です」
「君も今いる」
「俺は、仮初です。先輩は俺に懇願した。あなたを連れてくるようにと。それが先輩の本音です。俺がいうんだ。間違い、ない」
「これ以上君にそのことをしゃべらせたくない。やめよう。君からしたら果てしなく傲慢なことだろう。君の一番欲しいものを受け取らない僕が、さぞかし憎たらしくて仕方がないだろう」
目を反らす。
「けど、この話はもう終わりだ。僕は希に会いに行けない。それは僕の為。僕の、我儘だ」
「俺に気を使うならその腐った考えを改めてください。現実を認めたくないんですか?あなたは、希先輩を最後まで救い続ける義務がある」
一歩、空間が爆ぜるまでの強烈な一歩が踏み込まれる。
「それは君の我儘だろう!そしてなにより、希の我儘だ!」
「何故会いに行けないんです?理由が分からない!俺だったら、俺だったら必ず最後まで手を握り続けます。それが希先輩の為であり、俺の為だから!」
「僕は恐いんだ!一度は護った!一度は彼女の生命の危機に全身全霊で想いを尽くし、自らの本心を知った!でも、僕はもう護りきることはできない。周りは全て敵だらけで、瀕死の彼女ひとりを一生護り続けられると思うか?失わずに生きるのも、失って生き続けることも僕にはできない!限界を感じた!だから、僕は彼女を見捨てて非道に生きる!そのすべてを世間、社会への恨み憎しみとして抱き続ける!そうしないと僕は止まらない!」
「でもあなたは見捨てきれていない!」
「柴崎望!」
伝わるのは猛烈な嫌悪。
排除の念。
強靭な意志。
それは世界を黙らせる。
「わかったよ。このままでは埒が明かない」
「あなたのいいたいこと、わかりますよ」
「僕の我儘と、君の我儘、どちらが通るかここで試そう」
「よかった。やっと会いに行くことを眼中に入れてくれましたね」
「君は侮れない。会話はこれで終わりだ」
「じゃあ5秒後に始めましょうか」
始まりだけ、指を鳴らして合図する。
俺が落ちたナイフを拾い投げたのが2秒後で、彼が鉄パイプを目前で振りかぶったのが3秒後だった。
夜道
熱い身体をおもりの様に引きずって、やっとの思いで消えかけた電灯のの下にたどりつく。
決着がついたとき、あの小汚い倉庫に立っていたのは俺の方だった。
そして彼、佐久間浩は荒めに息を上げ、それでも冷静に、倒れた鉄柱の上に座っていた。
彼の言葉が列をなす。
「動けないのに、立っていられるなんて、最後まで君は僕の心を揺さぶるんだね」
「でも、勝敗はついたよ。我儘は通させてもらう」
「君は僕に似ている。しかし僕はがむしゃらにチカラばかりを手に入れた。穢れた暴力ばかりを行使してきた。君は違う。君は暴力を手に入れ損ねた僕だ。チカラに呑まれない、もっと違う何かを手に入れた僕」
「護るという言葉は、果てしなく遠く途方もない言葉だ」
「攻める、殴る、殺す、許す、媚びる、抱く、諌める、どれもこれも一瞬で終わるものばかりだけど、護るということは決して終わりが見えない」
「生きる、さえも死があるのに、本当の護る、には護れない以外に終わりがない。それはきっと、護ること自体が継続を意味するから。僕には難しすぎた。チカラを持ちすぎた僕には」
「君には心からすまないと思う。自分以上に他人の痛みを感じる君に待っているのは・・・」
「さようなら、柴崎望。さようなら、河原希。君たちが僕の になってくれたら、僕の未来もきっと」
歩くのも限界だ。
俺は負けた。
先輩の願いは叶わない。
先輩はもうすぐ、俺の前から消えてなくなる。
この胸の軋みと、希先輩の心情、そして佐久間浩の決意。
どっと押し寄せる黒い波に皮膚を蝕まれて血が吹き出る。
俺は、負けてしまった。
先輩を救いたい気持ちだけで身体が動く。
しかしそれも物理的限界は遠くない。
俺はいったい何が欲しかったんだろうか?
何を望むんだろうか?
「希先輩・・・」
大好きだ。
心から。
抱きしめたい。
せっかく再会できたのに。
もう終わりなんて、そんなの、そんなの辛すぎる。
先輩は、初め俺に嘘をついた。
たいした病気じゃない、と。
ずっと心で俺のことを想ってくれていた。
俺の考えていることと、希先輩が考えていること。
同じであって欲しい。
でも先輩の一番は、護り続けた佐久間浩のままだ。
俺は代わりにはなれない。
俺は結局、思い出を貰っただけで、何も、何一つも先輩にしてあげられなかった。
夜闇が重力を持ち、俺の体力を奪ってゆく。
ほんのり夏の匂いがした。
もう春も終わる。
夏の夕暮れを思い出す。
希先輩と、みーちゃんと一緒に花火を見た。
少し早めにある近所の夏祭り。
「二人っきりの場所だよ」
そう言って駆け上った小さな丘。
綺麗だった。
花火じゃない。
花火が移るみーちゃんの瞳。横顔。
「来年も来よう?」
笑顔。
あの夏はもう来ない。
見せたかった。
春が終わるのが遅い。遅いよ。
最後に、
「のぞみ」
って呼んであげたい。
どんな顔するのかな?
生まれて初めて出会った日、砂場で一人遊ぶ俺に自己紹介をしに来てくれた。
珍しいことに、俺の名前は男の子なのにのぞみ。
恥ずかしがって、自己紹介を返したら、
「じゃあ、のぞみくんだからのんくんで、のぞみちゃんだからみーちゃんね?」
それが全ての始まりだった。
始まりの笑顔。
今も変わらない笑顔。
ずっとあのままならよかったのに。
何も変わらなければよかったのに。
どうして。
のぞみ
夜闇はやがて視界を喰い尽し、身体の自由を黒く染めていった。
音も無く、意識が落ちる音がした。
カフェテリア黒猫
「おっはよーございまっするです!!!」
気持ちの悪い笑顔とふざけた挨拶を至近距離から顔面に受け、不快この上ない目覚めに舌打ちすると、ここに至る記憶を思い出せずに困惑の種を買った。
死んだ、のか?
中途半端な地獄に来てしまったようだ。
どうせなら永遠の苦しみで気を紛らわしたかったのだが。
「あいかわらずひっどいこといいますねぇ~。せっかく拾ってあげたのに」
どうぞ、と水の入ったグラスが降りる。
俺はカウンターテーブルに突っ伏して座っていた。
拾った?
俺はいったい・・・。
「いやぁ焦りましたよ。あんな夜道で一人倒れてるんですもの。うちの店が近くなかったら朝には冷たくなってもしたよきっと」
いちいち感に障る声。
こいつはたしか・・・
「はーい!この私がカフェテリア黒猫の癒し系店長、黒山猫太郎です!以後、黒猫とお呼びください!」
紳士的なポーズをとるが、笑いは取れても癒しなど微塵もない。
「ほんっと口が悪いですねぇ?少しは感謝してくださいよぉ~」
妙に重量を増した上半身を持ち上げて、頭を抑えて記憶をたどる。
そうか、佐久間浩との戦いで・・・
眉を下げて、まだ薄れかける意識に抵抗した。
出された水を飲み、あたりを見回す。
カウンターに椅子が5つだけの非常にこじんまりとした店内。
洋風なつくりにはなっているが、つくりの安っぽさ歴然。
客は、俺以外には誰もいない。
「水をもう一杯頼む」
「はいは~い」
そうか、以前会ったときに渡されたチラシはここのものか。
「そうですよ。そしてお兄さんが初めてのお客さんでーす!」
ニコッと笑って細長い両手で大げさなポーズ。
だいたい客の前でもサングラスとはどういう種類のサービス業なんだか。
「ま、そんなこと言わずに!初めてのお客さんにはサービスしますよ~」
「あんたが勝手に連れて来たんだろが?俺はもうでるぞ」
席を立とうとする俺に野郎は慌てた。
「ちょ、ちょっとまってくださいよ!サービスしますって!ちょっとだけ!ね?ちょっとだけ!」
「遊んでる暇はない。俺には時間がないんだ。今、何時だ?」
店内には時計はない。
「えへへ、ひみつで~す」
「帰る」
立ち上がり踏み込むと、瞬間右足が崩れた。
「だ、大丈夫ですか?」
細長い胴をひょいっと伸ばしてくる。
「くそ、足が」
足の切創がまた開き始めた。
痛み始める。
「あぁ、足の傷は治し忘れてましたか」
今何か妙な言葉が聞こえたが。
「なんだって?」
まだ働きの鈍い脳を回しその本意を探る。
「お身体を治させてもらいましたよ。正直、あそこまで歩いて来れたのは並々の精神力じゃありませんね。肋骨に一か所ひびが入ってましたよ。打撲は上半身だけで十数か所」
治した?
俺が寝ている間にか?
汗が流れる。
「おい!まさか俺は何日も寝ていたんじゃ?どうなんだ?答えろ!」
だとしたら、希先輩はもう・・・
最悪だ。
ありえない。
希先輩!
「安心してください。あなたが意識を失ってまだ3時間程度ですよ」
3時間だと?
俺は体中を触り、傷の治りを確かめる。
さっきまでの重たい痛みはおおかた消えており、それは内出血による感覚の一時的な麻痺でもない。
そして胸のあたりにあった激痛も消えおおせている。
「馬鹿いうな?3時間であんな傷が治るか!」
カウンターテーブルを強く殴った。
コップの水が踊る。
「治りますとも。おや、さっきの切創はどこへやら?」
はっとして足の傷口に手をやる。
痛んだ。
しかし、傷があるような痛みではない。
錯覚にも思えるほどの微かな走りだ。
どういうことだ?
まさかこんなこと、魔法でもあるまいし・・・
「そう、その魔法です」
野郎に間抜け面を曝してしまった。
なるほど、
「どうりで物分かりがいいわけだ。心が読まれているような気がしたよ。魔法か」
他に解釈の方法はない。
脳がフル回転していても、せいぜいこじつけの案をいくつかあげるにとどまる。
それに、こんなときだ。
魔法でもなんでも構わない。
俺には希先輩のことしか考えられなかった。
「おや、本心でも驚かないんですね?信じているというよりは興味がないようだ。こちらとしては少々やるせないです」
冗談きついな。
その面で魔法使いか?子供が泣き出す。
「失礼ですね~も~。あとしゃべるのをサボらないでください。なんだか空しくなるので」
若干口調が落ちついている。
頭痛を促すのは変わらないが。
それにしても会話はまともにできるらしい。
「傷のことは礼を言おう。だが急いでいるんだ。察してくれ。今度来る時までに金は持ってくる」
「お金ですか?いりませんよ。お兄さんは魔法使いを何だと思ってるんですか?それより、事情を踏まえたうえでいいますが・・・」
立ちあがった俺の目と、サングラスの奥の黄色い目が合う。
「これからどうなさるんですか?」
・・・
「まだ疲れは回復してませんから、今は少し腰を落ち着けるべきですよ。今のその精神状態では何をしても裏目に出そうです」
「くそ・・・」
そうだ。
俺はこれから、何をすればいいんだ?
先輩を佐久間浩に会わせることは叶わない。
畜生、どうすりゃいい。
「あなたはひとりで抱え込みすぎです」
空気を宥める口調は、そっと耳の端に届く。
否定的な意気はまるでなく、難しい問題にヒントをくれるような、そんな声の透り。
「これは俺が考えるべきことだ」
わかっていながらも、足下をすくわれたもどかしさが独り善がりな言葉を選んだ。
「本心ではないですね」
野郎は俺に頼りない背を見せ、奥にあるコーヒーメーカーをぐつぐついわせ始めた。
「ひとりの人の悩みをひとりで解決しなければならないなんて、この世界にはそんな決まりごとは一切ないみたいですけど」
和やかな声色とテンポ。
少し高めのキー。
コクのある香りを纏いながら、甘く鼻先をくすぐる。
「お兄さんは今混乱し過ぎています。焦りや慌ては滅多に良い結果を生みません。今は少しだけ、心を落ち着かせて考えてみてください」
野郎の長い腕が一杯のコーヒーを置く。
「さぁこれでも飲んで!サービスしますよ~」
景気づけのつもりか、空気に似合わない大声を出してにかっと笑って見せた。
さっきより少し、嫌いじゃないその笑顔。
「変な薬が入ってないことを祈るよ」
ごまかすように短く笑って、熱いコーヒーに舌をとかした。
なんだろう?
肩の力は心地よく抜け、思考の重い制約から解放されていく。
一時的な快楽に脳が緩んだ。
「おい、黒猫」
「やっと呼んでくれましたね。は~いなんでしょう~?」
「魔法って何なんだ?」
純粋な気持ちがあどけなく歩みを進めた。
詮索も深読みも、なにもたいしたものは備えていない。
「魔法っていうのは、そうですね。数字とか、実態とか、物理法則とかから逸脱した不思議なものの総称、とでもいいましょうか」
少しばかり困った顔をされる。
「実は、この黒猫にもよくわからないんです。本当のことを言うと、魔法使いでも、いつでも好きなときに好きな魔法が使えるわけではなくて」
「そうなのか?じゃあどんなときに使えるんだ?」
それっぽく腕組みをして、適当なところを見上げながら答えた。
「他人に心を痛めたときです」
感慨にふける横顔。
黄色い目が光る。
いま思いついたように聞こえないな。ストレートで曖昧さがない。
はっきりと言葉にするほどに自覚している。
言うのをためらっただけだろう?
「さすが、御名答。お兄さんは心を見透かす才能がありますねぇ」
「自分の心は読めないんだけどな」
コーヒーはブラックだが、それよりも苦い笑いを自然と吹いてしまった。
「俺の心を読めるんだろう?さぐってくれ」
「それはちょいと難しいですね」
今度はあちらが苦笑いだ。
「お兄さんの心は今、言葉にできるほど定まっていない。そもそも心というのは常に一定ではないんです。だから実感する以外に読心術の証明は不可能。一瞬一瞬の小さな心は読めても、本人にも全く自覚のない心を読むことはできないんです」
そうか。それもそうかもな。
説得力に押されて妙に納得してしまう。
一息。
長い溜息。
うつ伏せになる。
「心を痛めたとき、か」
「そうです、あくまで他人に対して。心が読める分、自分たちはその感情を読み誤ることはない。逆に、いくらでも救いたくなる」
救いたくなる。
救えているのなら、その言葉は出ないかもな。
「そうです。いろいろと規律があります。状況によっては成立させるべき条件も多くあります。基本的に、ひとりの人に依頼されてかけられる魔法の回数は一度だけ。そして依頼した人間の寿命は、その魔法の度合いに応じて自然死の半分以下になります」
俺に警告しているように聞こえるよ。
コーヒーが甘く感じた。
「先ほどみたいに、自分の意思で使える魔法は事実改変にまでは至らない。治るはずの傷を早く治したり、できても一定時間色や形、音などをちょびっといじることくらい」
「もし依頼者の寿命が足りなくなったらどうなるんだ?」
うつむく黒猫。
「一瞬で腐敗します。もちろん回避は不可能です」
それじゃあ、
「リスクじゃないな。それじゃあまるで極刑だ」
黒猫は鼻で息をし、俺はもう一度カップに口をつける。
そして、それをらしくもない優しさでソーサーに収め、頬杖をついて白いテーブルを眺めた。
純白。
穢れない純白。
無音だと思っていた店内には空気を掻く和やかな旋回音が眠りを誘う静けさを耳元で囁いている。
「河原希は俺にとっての世界だ」
無言のままの黒猫。
柔らかな視線。
「いろんなものを俺に与え、魅せてくれた。ひとりになってから臨むこの世界のものすべてに彼女の面影が映っていた。彼女が俺の前を去るとき、本当は何もかも解っていたのかもしれない。はっきりとじゃなくて、いつか別れるってことを。そしてそれは仕方がないことだと。だから、自分から会いになど行けなかった。出会ったのが運命なら、別れるのも運命。でも、同時に激しく悔いていた。もしかしたら俺の力で何とかできたんじゃないかと。俺は力というものを、強さというものを考えた。そして、いつか再会する運命が訪れたなら、今度こそは護ってやりたい、いや、護ると胸に決めいていたんだ」
空気が俺の肩にふれようとしてやめる。
音という音は語りべの声に安らかに耳をすませるのみ。
「再会して、現実を垣間見て、佐久間浩に会って、今度は護るということを考えさせられた。力と護るは違った。長い長い勘違いをしていたのかもしれない」
鼓動が一つ。
「でも正直さ、今はそんな理屈なんかはどうでもよくなってる。どうしようもなく役に立たなくなってしまったんだ。それもこれも、自分の気持ちを知ったから。今になって気づいたよ」
鼓動が一つ。
「俺は河原希を、 」
呆然とした黒猫。
「5年も会わなかったのに、ウソみたいに心が通い合う。落ちつく。共感する。なのにそれでも彼女は佐久間を一番に愛してる。それが痛いほどに伝わってきた。そしてそのことを俺が感じ取ったことに対しても、深く苦しみを覚えた。ひとのことなんか心配できる立場じゃないくせにさ」
素直な笑い。
「衝撃に心削れた。理不尽に佐久間への殺意さえ感じた。でも」
鼓動が一つ。
「でも俺は思うんだ」
鼓動。
「与えるものが愛かもしれない」
かっこいいだろ、と呟く口元に含みはない。
照れ隠しさえも隠れていない。
それがお兄さんらしさ、かもしれませんよ。
許すような声。
「少ししゃべりすぎたな。今日はよくしゃべる日だ」
「魔法のこと、いいんですね?」
今日はいい。
「どうせ止めるんだろう?今は、寝たい。それと、はやく希の顔が見たい」
願いは叶えてあげられない。
それでも俺がまだいる。
希の笑顔をみて、それからだよ。
「俺が焦りすぎてた。それが伝わってしまうのに。今なら素直になれる。素直になって会いに行って、どんな顔されるかな。どんな顔でも、最後まで想い続ける」
見守ることも、護ることかな?
「きっとそうです」
黒猫は満面の笑み。
俺は席を立ち、胸の奥でそっと呟く。
「口で言ってくれたら、もっと嬉しいですね~」
全く。
「ありがとう。また来るよ」
家に着くと既に午前2時だった。
着替えて、シャワーを浴びる。
そして、たいして何も考えずに、そのまま寝た。
病院 移動前日
容態の悪化をうけ、手術予定時刻が半日はやまったことを希先輩の母親から聞かされた。
肌を青白く染め、表情は弱り切っていた。
手術予定時刻は6月5日の21時。
状況によるが、最低18時間の手術だそうだ。
明日には大学病院へ移動する。
手術前にまともに会話できるのは、今日と明日の移動後のみ。
今日は朝から精密検査で、移動と手術に備えて様々な準備がなされているようだ。
希先輩の病状は、はっきりいってかなり深刻化していると聞いた。
無理をかけたくない。
笑おう。
まだ時間がある。
そうだ、花でも持っていこうか。
持ち込みを止められるかもしれないけど、一輪くらいなら隠せる。
気持ちを落ち着かせてあげよう。
大丈夫。
俺でもやれる。
大丈夫だ。
東病棟 906号室前
近くに花屋はなかった。
仕方なく、目についたのが潤った青色の紫陽花。
花は大きい。
だから花びらの一枚を貰って来た。
みずみずしい生命の色。
深い色。
涼しげ。
癒してあげたい。
俺でいいなら、笑わせてあげたい。
最後であろうと、また明日会うような、これからもずっと一緒でいられるような仕草で。
「 のぞみ 」
俺の名前。
彼女の名前。
僕の名前。
俺はやすらかな笑顔で扉を開いた。
東病棟 906号室
ドアの向こう。
ベッドの上。
白いシーツの中。
細い小さな体。
その大切な人。
「希先輩」
白い身体が身体を起こして目を向けてきた。
「俺ですよ。そろそろ寝飽きてませんか?」
軽い唇の弾み。
瞬きを繰り返す先輩。
そうか、もうかなり視力が落ちているのか。
俺はそれさえもうけとめ飽くまで毅然として歩みを進め談話の空気を乱さない。
先輩のそばに近づく。
「先輩、花とか好きですか?なんかそこら辺にあったんで拾ってきちゃったんですけど。これ何の花びらだと思います?」
言葉言葉に軽快な半笑いを交えて雰囲気を明るく染めていく。
俺の顔はもう先輩のすぐそこだ。
紫陽花の花びらを目前にちらつかせる。
遊び心の入った、不自然なまでにごくごく日常的な仕草で。
「まぁわかっちゃいますよね?ヒントは、先輩確かこの花けっこうすきっていってましたね。ちっさいころから近所によく咲いてて」
「だれ・・・ですか」
空間が歪んだ。
「えっと、ごめんなさい。知り合いの方・・・ですよね?えっと、えっと・・・ごめんなさい、忘れっぽくて。あれ、どうしてだろ、思い出せない・・・」
必死になって何度も目を凝らす。
あと少しで出てきそうなものが出てこないもどかしさに頭を振るう。
「声・・・。その声、たしか、えっと・・・」
必死に記憶の迷路で扉を叩き、大切なものを探して息を上げる様。
涙さえも、浮かんでいた。
「変だな、どうして思い出せないんだろ?おかしいな。あれ?・・・あれ?」
俺は手をとった。
誰の手?
この世で一番大切な人の手。
「佐久間浩を知ってますか?」
疑問形になりきれない弱弱しい息と喉の鳴り。
「こうくんですか?こうくんのお知り合いですか?」
俺は目をつぶった。
「まぁ、そんなものです。無理に思い出さなくてもいいですよ。そんなに・・・・・・親しかったわけではないので」
俺は立ちあがる。
俺はドアを開く。
俺は病室を出る。
俺は病院を出る。
空は奇麗に晴れ渡っていた。
梅雨入りしたというのに、馬鹿みたいに太陽と風が清々しかった。
深夜 カフェテリア黒猫
「いらっしゃ~い!またきてくれたね?ありが・・・と」
「黒猫、頼む」
「・・・いいんですか」
「いいんだ。頼む」
「寿命はなくなりますよ?少なくとも半分」
「いい」
「冷静ですか?」
「それはおまえのみたとおりだ」
「・・・お兄さんは、あなたは自分のことをもう少し大切にしてください」
「頼む」
「本当に、いいんですね?」
「ああ」
「ありがとう」
俺は黒猫の目を見た。
「ありがとう」
もう一度言う。
そして、店をあとにした。
重いドアはいつにもまして重かった。
期間は3日間。
ありがとう、黒猫。
ひとり残った黒猫。
「魔法を使うことだけが、幸せを呼ぶことではありませんよ。使わないことも、魔法です」
最後の面会 大学病院 手術前日 病室 河原希
続く
中途半端にしてしまって申し訳ありません。
でも、この作品をこの時数に収めるのは不可能でした。
続きます。
たぶん特殊な続き方で続くと思います。
散々遅れたくせにほんとごめんなさい。
ごめんなさい。