「君との会話はいつも退屈だった」と婚約破棄された公爵令嬢ですが、実は王子の成功は全て私の助言でした。今更『戻ってきてくれ』と言われても、もう隣国の宰相様と両想いの交換日記を始めてしまいましたので
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この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
あらかじめご了承の上、お楽しみください
「リディア・フォン・ヴァイスベルク。君との婚約は本日をもって破棄する」
王城の大広間に、クロード殿下の声が響き渡った。
私は瞬きを一つ。それだけだった。
周囲の貴族たちがざわめく中、私の心は不思議なほど凪いでいた。まるでずっと前から、この瞬間が来ることを知っていたかのように。
「君との会話はいつも退屈だった」
殿下は金色の髪をかきあげながら、まるで天気の話でもするように続けた。碧い瞳には、七年間婚約者だった私への情など欠片も映っていない。
——ああ、そうですか。
私は胸の奥で小さく呟いた。退屈、ですか。毎晩のように交換日記で政務の相談に乗っていた私との時間が。隣国との貿易交渉の落としどころを示唆したのも、東部貴族の反乱を未然に防ぐ人事を提案したのも、全て私だったというのに。
でも、それを口にする気にはなれなかった。
「本日より、セレナ・メルヴィス嬢を我が婚約者として迎える」
殿下の隣に進み出たのは、豊かな黒髪を揺らす男爵令嬢だった。緑の瞳を潤ませ、いかにも控えめそうに——けれどその口元には隠しきれない勝利の笑みを浮かべて。
「リディア様、ごめんなさい。私、殿下のお気持ちを知りながら……お傍にいることを止められなくて」
その白々しい謝罪に、周囲から同情の視線が私に集まる。いいえ、正確には「地味な公爵令嬢が華やかな男爵令嬢に負けた」という憐れみの視線が。
私は深く息を吸い、そして——微笑んだ。
「殿下のお幸せを、心よりお祈り申し上げます」
膝を折り、完璧な礼をする。顔を上げた時、殿下の表情に一瞬だけ戸惑いが過ぎった。もっと取り乱すと思っていたのだろう。泣いて縋ると、期待していたのかもしれない。
申し訳ありませんね、殿下。私、そこまで愚かではないのです。
「セレナ嬢。殿下を、どうかよろしくお願いいたします。……お支えするのは、存外に骨が折れますゆえ」
私の言葉に、セレナ嬢の勝ち誇った笑みがほんの一瞬だけ強張った。けれどすぐに余裕を取り戻し、扇子で口元を隠しながら答える。
「ご心配には及びませんわ。私と貴女では、そもそも格が違いますもの」
「ええ、そうかもしれません。では、失礼いたします」
大広間を出る私の背中に、ざわめきが追いかけてくる。
「見て、リディア様よ」
「よく出てこられたわね、恥ずかしくないのかしら」
「さすが公爵令嬢、取り乱しもしないなんて」
「いいえ、あれは諦めているのよ。元々殿下には相応しくなかったもの」
「地味で退屈な方でしたものね」
——ええ、そうですとも。
私は誰にも見えないところで、唇を噛んだ。
地味で退屈で、影のような存在。それが私、リディア・フォン・ヴァイスベルクだった。殿下の隣で微笑むだけの、何の価値もない婚約者。
誰も知らない。夜ごと交わした日記の中で、私がどれほどの言葉を紡いできたかを。殿下が「自分の直感」と誇る判断の、九割が私の助言だったことを。
でも、もういい。
もう、疲れた。
認められないまま、影であり続けることに。
私は振り返らなかった。七年間の想いが詰まった場所を、二度と振り返ることなく——王城を後にした。
◇◇◇
馬車の中で、私は懐から一冊の日記帳を取り出した。
使い込まれた革表紙。開けば、二つの筆跡が交互に並ぶページ。殿下の大雑把な文字と、私の丁寧な文字が、七年分の対話を刻んでいる。
『明日の謁見で東部伯爵にどう対応すべきか分からない』
『東部伯爵は領地の灌漑事業への支援を求めています。全面的な援助ではなく、技術者の派遣という形を提案されてはいかがでしょう。彼は誇り高い方ですから、施しではなく協力という形式を好まれるはずです』
翌日、殿下は私の助言通りに対応し、「さすがクロード殿下、人の心をよく理解しておられる」と称賛を受けた。
私は隣で微笑んでいた。自分の言葉が、自分の手柄にならないことなど、当たり前だと思っていた。
——愚かだった。
馬車が揺れる。窓の外を、見慣れた王都の景色が流れていく。
私は日記の最後のページを開き、羽ペンを取り出した。
インクを含ませ、そして——書いた。
『殿下へ。
七年間、お傍にいられて幸せでした。
この日記を、最後にお返しいたします。
もう貴方の影にはなりません。
どうかお元気で。
——リディア』
インクが乾くのを待つ間、一粒だけ涙が頬を伝った。
これが最後だと、自分に言い聞かせた。この涙を最後に、私は前を向く。
馬車が実家の屋敷に到着した時、正門には祖母の姿があった。
白髪を優雅に結い上げた、凛とした老婦人。私の祖母、マルグリット・フォン・ヴァイスベルク。
「おかえりなさい、リディア」
祖母は何も聞かなかった。ただ私を見つめ、そして静かに言った。
「よく、帰ってきましたね」
その言葉に、私は——
初めて、声を上げて泣いた。
「祖母様……私……七年……七年、尽くしたのに……っ」
「知っていますよ。全部、見ていました」
祖母の腕が、私を包み込む。温かくて、懐かしい香りがした。
「なのに、退屈だと……私は、何だったの……」
「リディア」
祖母は私の顔を上げさせ、真っ直ぐに見つめた。
「お前は誰かの影になるために生まれたのではないのよ」
「……影で、よかったのに。認めてもらえなくても、あの方のためになれるなら」
「それは愛ではありません。自分を殺すことは、美談ではないの」
「……でも、もう」
「もう、終わりにしていいのよ」
祖母の声は、穏やかだけれど揺るぎなかった。
「お前の価値を知る場所は、必ずある」
その夜、私は久しぶりに深く眠った。
◇◇◇
実家の私室で目覚めた朝は、不思議なほど穏やかだった。
窓から差し込む陽光が、見慣れた天蓋を照らしている。王城の豪奢な寝室ではなく、幼い頃から過ごした、素朴だけれど温かみのある部屋。
——ああ、帰ってきたのだ。
私はしばらくの間、天井を見つめていた。昨夜、祖母の胸で泣き崩れたことを思い出すと、少しだけ頬が熱くなる。二十三にもなって、あんなに泣くなんて。
でも、不思議と後悔はなかった。
「お嬢様、お目覚めでございますか」
控えめなノックと共に、侍女のエマが顔を覗かせた。幼い頃から私に仕えてくれている、信頼できる女性だ。
「おはよう、エマ。……私、随分長く眠っていた?」
「丸一日でございます。大奥様が『好きなだけ眠らせておやり』と」
祖母らしい配慮だった。私は身体を起こし、窓辺に視線を向けた。
「王都では、今頃大騒ぎでしょうね」
「……はい。婚約破棄の噂は、既に社交界中に広まっております」
エマの声が曇る。彼女もまた、私がどれほど殿下のために尽くしてきたかを知る数少ない人間だった。
「可哀想なリディア様、と同情する声と……」
「『やはり地味な方では殿下に相応しくなかった』という声と、両方あるのでしょう?」
エマは黙って頷いた。予想通りだ。
私は苦笑した。七年間、私は殿下の陰を歩き続けた。目立たぬよう、出過ぎぬよう。婚約者として完璧であろうとすればするほど、私の存在感は薄れていった。
『控えめで慎み深い令嬢』——それが世間の私への評価。
本当の私を知る者など、ほとんどいない。
◇◇◇
着替えを済ませ、祖母の待つ居間へ向かった。
「顔色が戻りましたね」
祖母は優雅に紅茶を啜りながら、私を見上げた。老いてなお美しい、気品のある笑顔だった。
「昨夜は、みっともないところをお見せしました」
「何を言うの。我慢し続けた七年分でしょう。あれでは足りないくらいだわ」
祖母は私の向かいの椅子を示した。座ると同時に、温かい紅茶が差し出される。
「交換日記は、返却したの?」
「……まだです。馬車の中で最後の言葉を書きましたが、お届けするのは……」
「使いに出しなさい。引きずっても良いことはありませんよ」
祖母の言葉は正しかった。私は頷き、エマに日記帳を託した。
「それよりも、リディア」
祖母が話題を変えた。
「数日後、王都で舞踏会があります。隣国ヴェルディア公国からの使節団を歓迎するものだとか」
「……社交界に、ですか」
気が進まなかった。好奇と憐れみの視線に晒されることは目に見えている。
「行かなくてもよろしいのよ」
「……いいえ」
私は首を振った。
「公爵家の令嬢として、外交の場を欠席するわけにはいきません」
それに——逃げ続けるわけにもいかない。
私は『影』ではなくなったのだ。ならば、自分の足で立たなければ。
「祖母様。舞踏会用のドレスを、新調してもよろしいでしょうか」
「もちろんよ」
祖母は嬉しそうに微笑んだ。
「どんな色がいいかしら?」
私は少し考えて、答えた。
「……青。深い、夜空のような青を」
いつも殿下の隣で、目立たぬ淡い色ばかり選んでいた。もう、そうする必要はない。
自分の好きな色を、自分で選ぶ。
そんな小さなことが、今はひどく眩しく感じられた。
◇◇◇
舞踏会の夜、私は深い青のドレスに身を包んでいた。
控えめだが上質なデザイン。胸元には祖母から譲り受けた月光石のブローチが輝いている。鏡を見つめる自分は、七年間の婚約時代とは少しだけ——違って見えた。
「お美しいですわ、お嬢様」
エマが感嘆の声を上げた。
「ありがとう。……少し、緊張するわね」
社交界に復帰するのは、婚約破棄後初めてだ。どんな視線が待ち受けているか、想像するだけで胃が重くなる。
けれど、逃げるわけにはいかない。
私は深呼吸をして、会場へと向かった。
◇◇◇
予想通りだった。
会場に足を踏み入れた瞬間から、囁き声が追いかけてくる。
「見て、リディア様よ」
「よく出てこられたわね」
「でも堂々としていらっしゃるわ」
「そうでも振る舞わないと、公爵家の名誉に関わりますもの」
私は聞こえないふりをして、会場を進んだ。微笑みを絶やさず、知人には軽く会釈をする。
——大丈夫。これくらい、何でもない。
七年間、陰で耐え続けた私だ。この程度の視線、どうということはない。
そう言い聞かせながら、壁際へと移動した。できるだけ目立たない場所で、形だけ参加して帰ろう。それが今夜の計画だった。
その時——
「リディア様!」
甲高い声に振り向くと、緑の瞳が私を見つめていた。
セレナ・メルヴィス。新しい王子の婚約者。
彼女は勝ち誇った笑みを浮かべながら、優雅に近づいてきた。
「まあ、よくいらっしゃいましたわね。婚約破棄されたばかりなのに、お強いこと」
「……セレナ嬢。殿下はお元気でいらっしゃいますか」
私は穏やかに返した。動揺など、見せてなるものか。
「ええ、とっても。私がいますもの」
彼女は扇子で口元を隠しながら、くすくすと笑った。
「殿下は最近、とてもお忙しいの。政務が……その、少し大変みたいで」
——ああ、やはり。
予感は的中した。私という「影の頭脳」を失った殿下は、今頃途方に暮れているはずだ。
「でも大丈夫。私がお支えしますわ。リディア様のように退屈な方ではなく、殿下を元気づけられる私が」
「そう。それは心強いですね」
私は微笑んだ。
「殿下をお支えするのは、大変なお仕事です。どうか頑張ってくださいね」
セレナ嬢の表情が、一瞬だけ曇った。私の言葉の裏に何かを感じ取ったのだろう。けれどすぐに勝ち誇った笑みを取り戻し、踵を返して去っていった。
私は小さく息を吐いた。
——疲れる。
壁にもたれかかりたい衝動を抑え、私は視線を窓の外へ向けた。
「見事な対応でしたね」
不意に、落ち着いた低い声が隣から響いた。
振り向くと、銀灰色の髪を持つ青年が立っていた。深い紫紺の瞳が、静かに私を見つめている。
見覚えのない顔だった。けれどその佇まいには、ただならぬ気品がある。
「……どちらの方でしょうか」
「失礼。アルヴィン・クロイツ・ヴェルディアと申します」
ヴェルディア——隣国の公爵家。そして今夜の主賓である、若き宰相。
私は慌てて礼をした。
「これは失礼いたしました。リディア・フォン・ヴァイスベルクでございます」
「存じております。公爵令嬢であり、先日まで王子殿下の婚約者であられた方」
直球な言い方に、私は少し目を瞬いた。この国の貴族なら、婚約破棄の話題は避けて通るものなのに。
「お気を悪くされたなら申し訳ない。私は遠回しな言い方が苦手でして」
「いいえ。むしろ、清々しいくらいです」
私は思わず小さく笑った。アルヴィン公爵もまた、口元を緩めた。
「先ほどの会話を拝見していました。見事な切り返しだった」
「……聞いていらしたのですか」
「偶然に。彼女は貴女を侮辱したつもりだったようですが、貴女は一切動じなかった」
「七年も婚約者だったのです。あの程度では傷つきません」
嘘だった。本当は、胸の奥がちくりと痛んでいた。けれどそれを表に出すほど、私は愚かではない。
アルヴィン公爵は私をじっと見つめた。その紫紺の瞳には、何かを見定めるような光があった。
「リディア嬢。失礼ながら、一つ伺ってもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「先日、王子殿下の執務室を拝見する機会がありました」
私の心臓が、跳ねた。
「そこで興味深いものを見つけました。二つの筆跡が交互に記された日記帳を」
——まさか。
血の気が引くのが分かった。あの日記は、殿下に返却したはずだ。殿下が読んでいるのは構わない。けれど、他の誰かに見られるなど——
「落ち着いてください。私は誰にも言いません」
アルヴィン公爵の声は、穏やかだった。
「ただ、確認したかっただけです。あの日記を書いたのは——貴女ですね?」
私は答えられなかった。答えてしまえば、七年間守り続けた秘密が崩れる。
けれど、この人の瞳は——
「東部貴族への対応策。貿易交渉の落としどころ。財政改革の方針。……驚くほど的確な分析でした」
アルヴィン公爵は続けた。
「王子殿下はあれを『自分の直感』と言っていましたが……あれは明らかに、専門的な知識と深い洞察に基づいたものだ」
「……」
「貴女は、王子殿下の成功を支えてきたのですね。影から、誰にも知られずに」
私は俯いた。
七年間、誰にも認められなかった。祖母以外の誰も、私の貢献を知らなかった。それでいいと思っていた。愛する人のためなら、影でいいと。
なのに今、この見知らぬ隣国の宰相に——
「なぜ、黙っていたのですか」
アルヴィン公爵の問いに、私はようやく顔を上げた。
「……婚約者として、殿下を支えるのは当然のことでしたから」
「当然?」
彼は眉をひそめた。
「貴女の功績が、全て他人の手柄にされることが?」
「……」
「それは献身ではない。搾取されていただけだ」
その言葉は、胸に突き刺さった。
分かっている。分かっていた。でも認めたくなかった。私の七年間が、ただの搾取だったなんて。愛だと信じていたものが、一方的な奉仕でしかなかったなんて。
「……失礼ですわ、公爵閣下」
私は精一杯の虚勢を張った。
「初対面の相手に、そこまで踏み込んだことを仰るなんて」
「申し訳ない」
彼はあっさりと頭を下げた。
「けれど、黙っていられなかった。あれほどの才能が、正当に評価されないまま埋もれていくのを見るのは——惜しい」
惜しい。
その言葉に、私は目を見開いた。
「私の能力を……評価してくださるのですか」
「当然です。あの分析力、洞察力は一級品だ。我が国の宰相府でも、あれほどの人材は稀だ」
アルヴィン公爵の瞳には、お世辞の色は見えなかった。純粋な評価として、私の能力を認めている。
——七年間、誰にも認められなかったものを。
胸の奥が、熱くなった。
「リディア嬢」
彼は真っ直ぐに私を見つめた。
「貴女の才能を、正当に評価する場所がある。もし興味があれば——我が国に来ませんか」
その言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
「……公爵閣下。それは——」
「今すぐ答えは求めません。ただ、覚えておいてください」
彼は穏やかに微笑んだ。初めて見る、柔らかな表情だった。
「貴女の価値を知る者は、必ずいる。影である必要など、どこにもないのです」
その夜、私は久しぶりに眠れなかった。
天井を見つめながら、アルヴィン公爵の言葉を何度も反芻した。
『貴女の価値を知る者は、必ずいる』
七年間、欲しくてたまらなかった言葉だった。
認められること。正当に評価されること。
私は——それを、諦めていたのだ。いつの間にか。
窓の外で、月が静かに輝いていた。
◇◇◇
同じ頃、王城では——
「なぜだ……!なぜ以前のように上手くいかない……!」
クロード王子は執務室で書類を投げ捨てていた。
「以前は簡単にできたことが、できなくなっている。東部伯爵への対応も、財務の見直しも、全てが——」
「殿下、落ち着いてください」
セレナが慌てて駆け寄った。
「私が何かお手伝いできることはありませんか?」
「……そうだな。この書類を見てくれ。東部伯爵への返答を考えたいのだが」
王子は書類をセレナに渡した。彼女は目を通し、そして——
「まあ……難しいことですわね。でも、殿下のお考えに従えばよろしいのでは?」
「だからそれが分からないと言っているんだ!」
王子は声を荒げた。セレナが怯えたように後ずさる。
「ひっ……す、すみません……私、政務のことはよく分からなくて……」
「……もういい。下がれ」
セレナが出て行った後、王子は深いため息をついた。
以前は違った。どんな難題も、解決策が自然と浮かんできた。まるで誰かが答えを囁いてくれるように——
——囁いてくれるように。
王子の視線が、机の引き出しに向かった。
そこには一冊の日記帳が眠っている。使い込まれた革表紙の、交換日記。先日、リディアから返却されたもの。
震える手で引き出しを開け、日記を取り出した。
最後のページに、リディアの文字がある。
『もう貴方の影にはなりません』
王子は日記を最初のページから読み返し始めた。
一時間後、彼は机に突っ伏していた。
「……馬鹿だ。俺は——」
東部伯爵への対応策。貿易交渉の落としどころ。人事配置の提案。財政改革の方針。
全て、リディアの助言だった。
『殿下のお考えに、一つご提案があります』
『このような対応はいかがでしょうか』
『私見ですが、こちらの方がよろしいかと存じます』
控えめな言葉遣いの奥に、的確な分析と深い洞察が隠されていた。
——俺は、何一つ自分で考えていなかった。
全てをリディアに頼りきり、それを「自分の直感」だと思い込んでいた。
彼女の献身を、当然のものとして受け取っていた。
そして——『退屈』だと、言い捨てた。
「なんてことを……」
王子の目から、涙が零れた。
◇◇◇
数日後、祖母が朝食の席で情報通の知人からの手紙を読み上げた。
「殿下の政務に遅滞が生じているそうですわ。東部伯爵への対応が後手に回り、不満の声が上がっているとか」
私は紅茶を啜りながら、黙ってその報告を聞いていた。
——予想通りだ。
「侍従長のオスカー殿によると、殿下は最近、頻繁に癇癪を起こされているそうです」
祖母が意味ありげに私を見た。
「婚約破棄の前後で、まるで別人のようだと」
「……そうですか」
私は視線を窓の外に向けた。遠く、王都の方角を。
同じ頃、私のもとに二通の手紙が届いた。
一通は王子から。
『リディア。会ってほしい。話がある』
私はその手紙を暖炉の火にくべた。
もう一通は、アルヴィン公爵からだった。
『リディア嬢へ。先日はお話できて光栄でした。もし差し支えなければ、明後日、茶会をご一緒いただけませんか。貴女の見識をお聞かせいただきたいのです——アルヴィン・クロイツ・ヴェルディア』
私は羽ペンを手に取り、返事を書いた。
『アルヴィン公爵閣下へ。お誘いいただき、光栄に存じます。喜んでお受けいたします——リディア・フォン・ヴァイスベルク』
封をしながら、私は気づいた。
久しぶりに、心が軽くなっている自分に。
◇◇◇
アルヴィン公爵との茶会は、王都郊外の庭園で行われた。
春の陽射しが柔らかく降り注ぐ中、私たちは東屋で向かい合って座っていた。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。正直に申し上げると、貴女が来てくださるか不安でした」
「なぜですか?」
「初対面で随分と踏み込んだことを言ってしまいましたから。お気を悪くされたのではと」
アルヴィン公爵の声には、意外なほどの気遣いが含まれていた。冷静沈着な宰相という印象だったが、こうして向かい合うと、どこか不器用な誠実さが垣間見える。
「いいえ。むしろ……嬉しかったのです」
私は正直に答えた。
「私の価値を認めてくださったのは、公爵閣下が初めてでしたから」
彼は少し驚いたように目を見開いた。
「……七年間、誰にも認められなかったと?」
「ええ。祖母だけが、私の貢献を知っていました。でも祖母は証人であって、評価者ではありませんでしたから」
「それは——」
彼は言葉を探すように沈黙した。そして、静かに言った。
「辛かったでしょう」
単純な言葉だった。でもその声には、本当の理解が込められていた。
私は紅茶のカップを見つめた。
「……辛いと思ってはいけないと、思っていました。愛する人のためなら、報われなくても構わないと」
「それは愛ではありません」
彼は断言した。
「一方的な献身は、自己犠牲であって愛ではない。愛とは、互いに認め合い、支え合うものだ」
「……」
「貴女は自分の価値を認めてもらう権利がある。それを求めることは、決して我儘ではありません」
その言葉に、胸の奥で何かが崩れた。
七年間、私は自分の欲求を押し殺してきた。認められたい、評価されたいという渇望を、「愛する人のため」という大義名分で覆い隠してきた。
でも本当は——認められたかった。ずっと。
「公爵閣下」
私は顔を上げた。
「私に……何をお望みですか」
「何を?」
「隣国に来ないかとおっしゃいました。私をどのようにお使いになるおつもりですか」
単刀直入な問いに、彼は少し考え込んだ。
「正直に申し上げます。最初は、貴女の能力を我が国のために活用したいと思いました」
「……」
「しかし、今は違います」
彼の紫紺の瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。
「貴女自身に興味がある。あの日記を書いた人間——その洞察力と、それを認められないまま耐え続けた強さに」
私は息を呑んだ。
「だから今日、お招きしました。貴女と話がしたかった。対等に、議論を交わしたかった」
対等に。
七年間、一度も言われたことのない言葉だった。
「……公爵閣下」
「アルヴィンと呼んでください」
「え?」
「堅苦しいのは苦手なのです。少なくとも、こうして二人きりの時は」
彼はわずかに口元を緩めた。それが、彼なりの照れ隠しなのだと気づくのに、少し時間がかかった。
「では……アルヴィン様」
「様も要りません」
「アルヴィン……さん?」
「それでいい」
私たちは顔を見合わせ、そして同時に小さく笑った。
◇◇◇
その日から、私たちは頻繁に会うようになった。
茶会だけでなく、書簡のやり取りも始まった。最初は両国間の政治情勢についての意見交換だったが、次第に話題は広がっていった。
『先日の財務政策について、リディアはどう思う?』
『私見ですが、輸出関税の見直しが先決かと。ただし、東方商人への配慮も必要です——』
彼は私の意見を聞くだけでなく、それに対する反論も遠慮なく述べてきた。
『その見方は一面的ではないか。こちらの視点も考慮すべきだ』
最初は戸惑った。殿下との交換日記では、私が一方的に助言を与えるだけだった。意見を返されることなど、一度もなかった。
けれど、それが心地よかった。
私の言葉が、対等に扱われている。ただ受け取られるのではなく、議論の素材として真剣に検討されている。
『なるほど、その視点は見落としていました。では、こちらの条件を加えるとどうでしょうか——』
議論は白熱し、時には深夜まで書簡を書き続けることもあった。
ある日、アルヴィンから届いた手紙の末尾に、こう書かれていた。
『リディア。君と議論していると、時間を忘れる。こんな経験は初めてだ。——これは政務の相談ではなく、私個人の感想として受け取ってほしい』
私は手紙を胸に抱きしめた。
頬が熱い。心臓が早鳴りしている。
これは——何だろう。
七年間、殿下に感じていたものとは違う。あの頃の私は、殿下を見上げていた。彼の役に立ちたい、認められたいという一心で。
けれど今、アルヴィンとの間には——対等な関係がある。
私の言葉が、私として受け止められている。影ではなく、一人の人間として。
『アルヴィンへ。私も同じです。あなたとの議論は、私にとって初めての経験でした。認められることが、こんなにも嬉しいものだとは知りませんでした。——これもまた、私個人の感想として』
返事を書きながら、私は気づいた。
これが、両想いの始まりなのかもしれない——と。
◇◇◇
「新しい交換日記を始めないか」
ある日の茶会で、アルヴィンがそう提案した。
「交換……日記?」
「書簡のやり取りもいいが、もっと日常的なことも共有したい。朝食に何を食べたとか、今日はどんな花を見たとか」
「それは……日記というより、恋文では?」
私の言葉に、アルヴィンは少し頬を赤らめた。
「……そうかもしれない」
彼は視線を逸らしながら、小さく呟いた。
「構わないだろう」
私は驚きながらも、頷いていた。
「……構いません」
こうして、私たちの新しい交換日記が始まった。
今度は、一方通行ではない。互いの想いを綴り合う、本当の意味での「交換」日記。
最初のページに、私は書いた。
『アルヴィンへ。今日は庭に薔薇が咲きました。あなたに見せたいと思いました。——リディア』
返事には、こう書かれていた。
『リディアへ。今日の会議は退屈だった。君の意見が聞きたかった。——アルヴィン』
私は日記帳を抱きしめながら、静かに微笑んだ。
——ああ、これが幸せというものなのかもしれない。
◇◇◇
王城では、事態は悪化の一途を辿っていた。
「殿下。東部伯爵から再度の抗議が届いております」
侍従長オスカーが、深刻な表情で報告した。
「先日の対応が『王家の傲慢』と受け取られたようです」
「傲慢だと?俺は彼の要求に応えただけだ!」
「それが問題でした。彼が望んでいたのは回答ではなく、対話でございます」
クロード王子は苛立たしげに書類を叩きつけた。
「なぜそんなことが分からなかったんだ……以前の俺なら、すぐに気づけたはずなのに……」
——いいえ、殿下。気づいていたのは、殿下ではありません。
オスカーは心の中で呟いた。リディア嬢が、全てを教えていたのです。殿下は、それを「自分の直感」と思い込んでいただけで。
「オスカー。正直に教えてくれ。俺は——愚かだったか」
長い沈黙の後、オスカーは静かに答えた。
「……殿下が気づかれなかっただけで、皆が知っておりました」
「何を……」
「リディア嬢のご貢献を。殿下のご成功が、彼女の助言によるものだということを」
王子の顔から、血の気が引いた。
「皆……知っていた……?俺だけが……」
「殿下は常に、ご自身のご判断を誇っておられました。申し上げる機会がございませんでした」
その時、別の侍従が駆け込んできた。
「殿下!大変です。隣国のヴェルディア公爵が、近々帰国されるとのこと。そして……リディア嬢が、公爵と共に隣国へ渡られるという噂が……」
王子の顔が、蒼白になった。
◇◇◇
翌日、王子は私のもとを訪れた。
実家の応接室で向かい合った時、彼の顔には疲労と後悔が刻まれていた。以前の傲慢さは影を潜め、代わりに必死さが滲んでいる。
「リディア。頼む、戻ってきてくれ」
開口一番、彼はそう言った。
「俺は愚かだった。君の価値を、全く理解していなかった」
私は黙って聞いていた。
「交換日記を、全て読み返した。君がどれほど俺を支えてくれていたか……今更ながら、痛いほど分かった」
「……今更、ですね」
「頼む。もう一度、俺の傍にいてくれ。今度こそ、君を正当に評価する。君の功績を、全て認める」
彼は床に膝をついた。王子が、かつての婚約者に跪いている。
「俺が間違っていた。セレナでは——彼女では、君の代わりにはならなかった。君でなければ駄目なんだ」
私は静かに息を吐いた。
一ヶ月前の私なら、この言葉にどれほど喜んだだろう。認められたい、必要とされたいという渇望が、どれほど満たされただろう。
でも今は——
「殿下」
私は穏やかに、しかし毅然と答えた。
「お気持ちは、ありがたく存じます。けれど、お断りいたします」
「なぜだ……!」
「あの日記は、私の片想いの記録でした」
私は立ち上がり、窓辺に向かった。
「七年間、私は殿下のために言葉を紡ぎました。認められなくても構わないと思っていました。愛とは、そういうものだと信じていましたから」
「リディア——」
「でも、それは間違いでした」
私は振り返り、殿下の目を真っ直ぐに見つめた。
「一方的な献身は、愛ではありません。自分を殺して相手に尽くすことは、美談ではないのです」
「俺が変わる。今度こそ、君を——」
「殿下」
私は首を振った。
「今、私には両想いの日記があるのです」
殿下の顔が、凍りついた。
「両想い……だと?」
「私の言葉を正面から受け止め、対等に議論してくださる方がいます。私を影ではなく、一人の人間として見てくださる方が」
私は微笑んだ。穏やかに、そして——晴れやかに。
「私は、その方と共に新しい道を歩みます」
「待ってくれ……!俺は、俺は君を——」
「殿下」
私は最後に、深く礼をした。
「七年間、ありがとうございました。どうかお元気で」
それが、私と殿下の最後の会話だった。
◇◇◇
応接室を出た時、廊下にアルヴィンが立っていた。
「……聞いていたの?」
「途中からね」
彼は少し気まずそうに視線を逸らした。
「盗み聞きするつもりはなかったんだが……心配で」
「心配?」
「王子が復縁を迫るかもしれないと思って。君が揺らいだら、どうしようかと——」
その言葉に、私は思わず笑ってしまった。
「揺らぐわけないでしょう」
「……そうか」
アルヴィンの表情が、ふっと緩んだ。
「よかった」
彼は私の手を取った。温かく、けれど控えめに。
「リディア。改めて、正式に伝えたい」
「何を?」
「我が国に来てほしい。宰相の補佐官として——そして、できれば……」
彼は少し言葉に詰まった。
「……できれば?」
「俺の、妻として」
静かな告白だった。でも、その瞳には真摯な想いが溢れていた。
私は彼の手を握り返した。
「喜んで」
そう答えた時、アルヴィンの顔に浮かんだ笑みを、私は一生忘れないだろう。
控えめで、でも心から嬉しそうな——彼らしい笑顔だった。
◇◇◇
私がヴェルディア公国への出発準備を進める中、王都では様々な噂が飛び交っていた。
祖母が、呆れたような顔で報告してくれた。
「セレナ・メルヴィス嬢が、没落貴族と密通していたそうですわ。それだけではありません。その貴族に多額の金銭を渡していたとか。王子の婚約者になれば財力は手に入ると踏んでいたようですが」
「……まあ」
私は紅茶を啜りながら、淡々と聞いていた。
「結局、見栄だけで中身のない方でしたのね」
「王子殿下は激昂されて、婚約を解消されたそうです。セレナ嬢の家は既に社交界から追放同然の扱いを受けているとか」
因果応報、という言葉が頭をよぎった。
私を「退屈」と嘲笑い、勝ち誇っていた彼女が、今はどんな顔をしているのだろう。
——けれど、もうどうでもいい。
あの人たちの末路に、私は興味を持たなくなっていた。
「それよりも祖母様」
私は話題を変えた。
「明後日、アルヴィンと共にヴェルディアへ発ちます」
「ええ、分かっていますよ」
祖母は穏やかに微笑んだ。
「寂しくなりますわね」
「……祖母様も、一緒に来ませんか」
「あら、私を?」
「アルヴィンも、是非にと言っていました。祖母様の知恵を、我が国の宮廷でも活かしてほしいと」
祖母は少し驚いたように目を見開き、そして——声を上げて笑った。
「まあまあ、若い宰相様に気に入られるなんて。この年で引っ越しとは大変ですわね」
「でも、行ってくださるでしょう?」
「もちろん」
祖母は私の手を取った。
「あなたの幸せを、この目で見届けなければなりませんもの」
◇◇◇
出発の朝、私は実家の庭を最後に歩いた。
幼い頃から遊んだ庭園。母と花を摘んだ花壇。父と読書をしたあずまや。
そして——殿下との婚約が決まった時、一人で泣いた薔薇の茂み。
十二歳の私は、不安でいっぱいだった。見知らぬ王子の婚約者になることが、怖かった。でも公爵家の娘として、断ることなどできなかった。
あの頃の私に、今の私は何を言えるだろう。
——大丈夫だよ。辛いことはたくさんあるけれど、最後には幸せになれるから。
——自分の価値を、諦めなくていいんだよ。
——いつか必ず、あなたを認めてくれる人が現れるから。
私は薔薇に手を触れた。もうすぐ、満開になる頃合いだ。
「リディア」
アルヴィンが、私を呼んだ。
「準備はいいか」
「ええ」
私は振り返り、微笑んだ。
「行きましょう」
アルヴィンは私の手を取った。そして、馬車へと導いた。
馬車が動き出した時、私は窓の外を見つめた。
遠ざかっていく実家。王都の街並み。七年間を過ごした王城の影。
さようなら、私の過去。
ありがとう、私を育ててくれた全てに。
そして——
ようこそ、私の未来。
隣に座るアルヴィンが、私の手を握った。
「何を考えている?」
「……幸せだなって」
「そうか」
彼もまた、微笑んだ。
「俺もだ」
馬車は春の陽射しの中を、隣国へと走り続けた。
◇◇◇
ヴェルディア公国は、想像以上に美しい国だった。
山々に囲まれた盆地に広がる王都。清らかな水路が街を縫い、白い石造りの建物が陽光に輝いている。
「どうだ」
アルヴィンが隣で尋ねた。
「……素敵な国ですね」
「気に入ってくれたなら嬉しい。これから、君の国にもなるのだから」
私の国。
その言葉が、胸に温かく響いた。
◇◇◇
公爵邸に落ち着いた翌日から、私は宰相補佐官としての仕事を始めた。
「リディア。この報告書を見てくれ」
「東方との交易条約ですね。この条件では、我が国に不利ではありませんか?」
「どこが?」
「ここです。関税の設定が曖昧で、解釈次第では——」
私の指摘に、アルヴィンは目を見張った。
「……見落としていた」
「修正案を作成しましょうか」
「頼む」
その日から、私はアルヴィンの右腕として政務に携わるようになった。
会議に同席し、書類を検討し、時には意見を求められることもあった。最初は「宰相の愛人」と囁かれることもあったが、実務をこなすうちに、周囲の目は変わっていった。
「リディア様の分析は的確だ」
「宰相閣下の判断が、より鋭くなった気がする」
「あの方がいると、会議がスムーズに進む」
認められている。
私の言葉が、私の能力が、正当に評価されている。
その実感が、日々私を満たしていった。
◇◇◇
ある夜、アルヴィンと二人で執務室にいた時のこと。
「リディア」
「何?」
「来月、結婚しよう」
書類を整理する手が、止まった。
「……急ですね」
「急じゃない。ずっと考えていた」
彼は椅子から立ち上がり、私の傍に来た。
「正式に、君を妻として迎えたい。補佐官としてだけでなく、人生の伴侶として」
「……」
「君がいないと、俺は駄目だ。政務のことだけじゃない。朝起きた時に君がいないと物足りないし、夜眠る前に君の声を聞きたいと思う」
彼は照れくさそうに目を逸らした。
「……自分でも、こんなに情けないとは思わなかった」
私は思わず笑ってしまった。
「情けなくなんかありません」
「嘘だ。宰相が、こんなことを言うなんて」
「宰相としてではなく、一人の人間として言っているのでしょう?」
彼は頷いた。
「だったら、情けなくていいのです。私も——同じですから」
私は彼の頬に手を当てた。
「あなたがいないと、寂しいです。あなたと議論できないと、物足りないです。あなたの声を聞くと、安心します」
「リディア——」
「来月と言わず、今すぐにでも」
彼は私を抱きしめた。強く、でも優しく。
「ありがとう」
その声が、耳元で震えていた。
◇◇◇
結婚式は、質素だが温かいものだった。
ヴェルディアの伝統に則り、山の神殿で誓いを交わした。祖母が涙ぐみながら見守る中、私たちは永遠を誓った。
「リディア・クロイツ・ヴェルディア」
新しい名前を呼ばれた時、私は——幸福で胸がいっぱいになった。
アルヴィンの隣に立つ私は、もう影ではない。
対等な伴侶として、共に歩む存在として、ここにいる。
それが、何よりも嬉しかった。
結婚式の夜、私たちは新たな交換日記を始めた。
最初のページに、二人で書いた。
『今日から、私たちの物語が始まる。——アルヴィンとリディア』
この日記が、いつかどれほどの厚さになるのか。
私たちには、まだ分からなかった。
◇◇◇
——数十年後。
「おばあさま、おじいさま!」
元気な声と共に、小さな足音が廊下を駆けてくる。
「こら、走ってはいけませんよ」
私は笑いながら孫たちを迎えた。長女の子供たちが三人、次男の子供が二人。みんな元気に育っている。
「ねえ、今日は何のお話を聞かせてくれるの?」
「そうねえ……」
私は暖炉の前の椅子に腰を下ろした。隣には、白髪になったアルヴィンが座っている。
私たちは老いた。皺が増え、髪は白くなった。でも、二人で過ごした時間は——何にも代えがたい宝物だ。
「今日は、おじいさまとおばあさまの出会いの話をしましょうか」
「わあ、聞きたい!」
「どんな話?」
孫たちが目を輝かせる。
私はアルヴィンと目を合わせ、微笑んだ。彼もまた、穏やかに笑い返す。
「昔むかし——おばあさまは、ある国の公爵令嬢だったの」
「公爵令嬢?姫様みたいなもの?」
「そうね。でも、あまり幸せな姫様ではなかったわ」
私は語り始めた。
婚約者に認められなかったこと。陰で支え続けた日々。突然の婚約破棄。そして——新しい出会い。
「おじいさまは、おばあさまの価値を認めてくれた最初の人だったの」
「ふん。当然だろう」
アルヴィンが横から口を挟んだ。
「こんな聡明な人を見逃すほど、俺は馬鹿じゃない」
「あら、馬鹿じゃないと自分で言うのは馬鹿の証拠ですわよ」
「なんだと」
孫たちがきゃっきゃと笑う。
「それでね、おじいさまとおばあさまは、交換日記を始めたの」
「交換日記?」
「毎日、お互いに手紙を書くようなものよ。今日何があったか、何を考えたか、相手にどんな気持ちを抱いているか」
私は本棚を指差した。
そこには、何十冊もの日記帳が並んでいる。使い込まれた革表紙。年月を経て色褪せたインク。私たちの人生が、そこに詰まっている。
「全部で何冊あるの?」
「五十七冊よ」
「五十七!?」
「結婚してから毎日、休まず書き続けたの。おじいさまが忙しい時も、おばあさまが体調を崩した時も」
アルヴィンが、私の手を取った。皺だらけの、でも温かい手。
「これが、俺たちの宝物だ」
「うん」
孫たちは真剣な顔で頷いた。
「大人になったら、ぼくたちも見せてもらえる?」
「もちろん。あなたたちにも、いつか分かる日が来るわ。言葉を交わすことの大切さが」
私は窓の外を見つめた。
夕陽が山々を染めている。ヴェルディアの、美しい夕暮れ。
あの日、王城で婚約を破棄されてから、どれほどの月日が流れただろう。
辛いこともあった。でも、全てがあったからこそ、今がある。
「リディア」
アルヴィンが、私を呼んだ。
「何?」
「今日も、日記を書こう」
「ええ、もちろん」
私たちは顔を見合わせ、微笑んだ。
五十七冊目の日記は、もうすぐ終わる。次は、五十八冊目だ。
一冊の日記から始まった物語。
それは今も、続いている。
◇◇◇
『今日も、幸せだった。君と過ごせた全ての日が、宝物だ。——アルヴィン』
『今日も、幸せでした。あなたと出会えた全てに、感謝しています。——リディア』
五十七冊目の、最後のページ。
私たちの言葉が、そこに並んでいる。
これからも、ずっと。
——完——




